第二十二話 失われた記憶の輪郭
第一章 神に忘れられた子
王都から来た魔術師、ロディスが屋敷を訪れてから三日が経った。
その間、クロイゼル家の屋敷には目立った変化はなかった。
庭の噴水はいつも通り水を流し、使用人たちは普段通りに働き、レオンハルトは朝から父グレイヴの指導を受けて剣の稽古に励んでいる。
一見すれば、何も変わらない日常だった。
しかし、アルヴェインには分かっていた。
何かが、少しずつ動き始めている。
「ロディス殿。もう一度、確認していただけますか」
書斎では、グレイヴがロディスと向かい合っていた。
机の上には、あの小さな木彫りの玩具が置かれている。
ロディスは手袋を外し、玩具を慎重に持ち上げた。
「何度調べても同じです。魔術的な仕掛けは確認できません。魔力の痕跡もない。ですが……」
「ですが?」
「私には、これがただの玩具には思えないのです」
ロディスは玩具の表面を見つめた。
「先日、これに触れたとき、妙な感覚がありました。何かを思い出しかけたような……そんな感覚です」
「記憶に異常は?」
「ありません。少なくとも、私自身が覚えている範囲では」
「自分自身が覚えている範囲、か」
グレイヴが低くつぶやいた。
ロディスは苦笑した。
「魔術師としては、あまり認めたくない話ですがね。自分の記憶に欠落があるかもしれないなど」
「記録の欠損と記憶の欠損は、同じものではないのだろう」
「ええ。そこが厄介なのです」
ロディスは玩具を机に戻した。
「私には過去の記憶があります。幼少期も、魔術学院で学んだ日々も、王宮に仕え始めた頃のことも。ですが、それらが正しく残されているという保証はありません」
グレイヴは黙っていた。
そのとき、書斎の扉が控えめに叩かれた。
「旦那様。アルヴェイン様をお連れしました」
エリシアの声だった。
「入れ」
扉が開き、エリシアに抱かれたアルヴェインが姿を見せる。
ロディスの視線が、すぐにこちらへ向いた。
「これは……」
「少し様子を見てもらいたい。前にも話した通り、この子は魔力を持たない。だが、魔力に関わる現象を何かしら見ているようなのだ」
グレイヴはアルヴェインを見た。
「ロディス殿のことも、何か分かるかもしれん」
アルヴェインは内心で苦笑した。
分かるかもしれない。
確かに、彼の目には見えるものがある。
しかし、それを言葉にすることはできない。
今の自分にできるのは、ただ見つめることだけだった。
エリシアがアルヴェインを椅子の近くまで運ぶ。
机の上には、木彫りの玩具。
そして、その向こう側にはロディスがいた。
アルヴェインは魔力視を開いた。
ロディスの身体を巡る魔力が見える。
以前と同じだ。
流れそのものは安定している。魔力の量も、一般的な魔術師として不自然なものではない。
だが、胸元から左肩にかけて、細い空白が存在している。
そこだけ、魔力の流れが途切れているわけではない。
まるで、そこにあったはずの何かを、周囲の流れが避けているようだった。
アルヴェインは目を凝らした。
空白の周囲に、薄い輪が見える。
輪はロディスの魔力とは異なる性質を持っていた。
魔力ではない。
構成でも、循環でも、変質でもない。
それでも、そこには確かに何かが残っている。
(これは……記録なのか?)
アルヴェインの胸元が、かすかに熱を帯びた。
六角形の印が反応している。
机の上の玩具も、同じように微かに揺れた。
「……っ」
ロディスが息を止めた。
「どうされました?」
グレイヴが尋ねる。
「いえ……今、何か聞こえた気がしたのです」
「何が聞こえた?」
「声です。とても小さな……子供の声のような」
アルヴェインの視界に、変化が起きた。
ロディスの胸元にある空白。
その奥に、ほんの一瞬だけ映像のようなものが浮かび上がった。
古い石造りの部屋。
薄暗い窓辺。
幼いロディスが床に座っている。
その隣には、もう一人の子供がいた。
顔は見えない。
だが、その胸元には六角形の印がある。
幼いロディスは、その子供に向かって何かを話していた。
笑っている。
楽しそうに。
まるで、ずっと前から知っている友人と過ごす時間を喜んでいるようだった。
しかし、映像はすぐに崩れた。
幼いロディスの口元が動く。
声は聞こえない。
ただ、その表情だけが妙にはっきりと見えた。
――忘れない。
そう言っているように見えた。
「ロディス殿?」
グレイヴの声で、アルヴェインの意識が現実に戻る。
ロディスは額に手を当てていた。
「……すみません。少し、頭が痛みました」
「医師を呼ぶか?」
「必要ありません。ですが、今の感覚は初めてではありません」
ロディスはゆっくりと顔を上げた。
「以前にも、何かを忘れているような気がしたことがあります。王都の研究室で、古い文献を読んでいたときです」
「何を読んでいた?」
「分かりません。ただ……そのときも、子供の声が聞こえた気がしました」
グレイヴの表情が険しくなる。
「そのことを、なぜ報告しなかった」
「記憶の錯覚だと思っていましたから。疲労や魔力の使い過ぎで、そうした感覚を覚えることはあります」
「今回は違うと?」
ロディスは机の上の玩具を見た。
「ええ。これに触れてから、私の中にあった違和感が形を持ち始めています」
彼は玩具に手を伸ばした。
そして、指先が触れた瞬間。
「……おかえり」
小さな声が響いた。
部屋の空気が凍りつく。
エリシアが思わずアルヴェインを抱く腕に力を込めた。
「今の声……」
ロディスは玩具を見つめたまま動かなかった。
その目が、少しずつ見開かれていく。
「なぜ……」
「ロディス殿?」
「なぜ、私はこの声を知っているのでしょう」
ロディスの指が震えた。
「聞いたことがある。間違いありません。私は、この声を……」
そこまで言って、彼は口を閉じた。
思い出せない。
声を知っているという感覚だけがある。
誰の声なのか。
いつ聞いたのか。
何のために聞いたのか。
そのすべてが、霧の向こうに隠されていた。
アルヴェインは玩具を見つめた。
魔力視の奥に、細い線が見える。
その線は玩具からロディスへと伸びていた。
そして、ロディスの胸元にある空白へ繋がっている。
(玩具が記憶を呼び起こしているんじゃない)
(欠けた記録と、ロディスを繋いでいるんだ)
そう考えた瞬間、玩具の六角形が淡く光った。
その中央に、文字が浮かぶ。
――返せ。
短い言葉だった。
だが、そこに込められたものは、単なる願いではない。
長い時間を経てなお消えなかった、強い意思のように感じられた。
ロディスは静かに目を閉じた。
「私は……誰かに約束をしたのでしょうか」
誰も答えなかった。
⸻
その日の午後。
グレイヴは屋敷の記録庫にいた。
ロディスが帰った後、彼はすぐに北方から来た商人について調査を始めていた。
玩具を売ったという商人。
名前も、出身地も、顔も、曖昧なままだった。
エリシアの証言では、町の露店で買ったものらしい。
だが、町の商人名簿には該当する人物が見当たらなかった。
「やはり、存在しないか」
グレイヴは記録を閉じた。
商人が偽名を使っていた可能性はある。
しかし、問題はそこではなかった。
町の複数の住民に確認したところ、商人を見たという証言はある。
だが、誰もその顔を覚えていない。
服装も、声も、特徴も。
ただ、北から来た商人だったという印象だけが残っている。
「人の記憶に残らないようにしていたのか……」
グレイヴは古い記録を引き出した。
六百年前の初代当主の日誌。
その中に、気になる一文があった。
『名を失った者は、名を持つ者の記憶に触れる』
さらに、その下には別の記述がある。
『記憶を取り戻すことは、失われたものを戻すことではない。失われた理由を知ることだ』
グレイヴは長い間、その文章を見つめていた。
やがて、彼は日誌を閉じた。
「ロディス殿の欠損も、玩具も、北の遺跡も……すべて繋がっているのか」
答えはない。
ただ、北方の調査報告には、ここ数日で奇妙な変化が記されていた。
古い遺跡の周囲で、魔物の姿がほとんど見られなくなったという。
逃げたのか。
あるいは、何かに呼ばれているのか。
グレイヴは窓の外を見た。
北の山々は、今日も静かだった。
しかし、その静けさを信じることはできなかった。
⸻
夕方。
アルヴェインは母セレスティアの腕の中で、庭を眺めていた。
風が木々の葉を揺らしている。
庭の古木は、何事もなかったかのように枝を広げていた。
だが、アルヴェインの目には違うものが見えていた。
木の根元。
地面の奥に埋まっている六角形の構造。
その周囲に、細い光の線が伸びている。
以前よりも、はっきりしていた。
光は地中を通り、屋敷の東側へ向かっている。
隠された扉のある場所だ。
そして、そこからさらに一本。
北へ向かって伸びている。
(北の扉と繋がっている……?)
アルヴェインが目を凝らした、そのとき。
庭の古木の葉が一枚、音もなく落ちた。
地面に触れる直前、その葉の表面に小さな六角形が浮かび上がる。
次の瞬間、光は消えた。
「アルヴェイン?」
セレスティアが顔を覗き込む。
「どうしたの? 何か気になるものでもあった?」
アルヴェインは母を見上げた。
言葉にはできない。
ただ、小さな手を伸ばした。
セレスティアはその手を優しく握る。
「ふふ。今日はずいぶん元気ね」
彼女の笑顔は穏やかだった。
その手の温かさを感じながら、アルヴェインは考えていた。
この世界には、記録されていないものがある。
忘れられた人間。
失われた名前。
存在したはずなのに、誰の記憶にも残らない者たち。
そして、それを覚えている人間が、わずかに残っている。
ロディスは、その一人なのかもしれない。
だが、なぜ彼だけが記録を失ったのか。
なぜ、六角形の印を持つ子供が彼の記憶に存在するのか。
まだ分からないことばかりだった。
その夜。
アルヴェインは再び、白い空間に立っていた。
目の前には、あの巨大な扉がある。
扉には、いくつもの名前が刻まれていた。
だが、その多くは削り取られている。
アルヴェインは一歩近づいた。
すると、扉の中央にある六つの円が淡く光った。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
五つ目。
最後の一つが、ゆっくりと光を帯びる。
その瞬間、扉の向こうから声が聞こえた。
『まだ、覚えているか』
アルヴェインは答えられない。
『あの子のことを』
また、子供の声だった。
今度は、少しだけ近い。
『あの子は、待っている』
扉の表面に、一つの文字が浮かんだ。
それは名前の最初の一文字のようにも見えた。
しかし、次の瞬間、黒い影がその文字を覆い隠す。
『まだ早い』
聞き覚えのある声だった。
黒い外套の男。
その姿が、扉の前に立っていた。
『思い出すことを急げば、また同じ過ちを繰り返す』
男はアルヴェインを見た。
『お前は、まだ何も知らない。何を返すべきなのかも、誰に返すべきなのかも』
男は扉に手を触れた。
『だから、今は見るだけでいい』
その言葉とともに、男の姿が薄れていく。
『だが、覚えておけ』
消える直前、男は言った。
『忘れられた者たちは、誰かに思い出してもらうことを望んでいる。だが、思い出された瞬間に、救われるとは限らない』
白い空間に、静寂が戻った。
アルヴェインは扉を見つめた。
六つの円は、すべて光っている。
その下に、新しい文字が浮かび上がった。
――記録の再接続、開始。
そして、最後にもう一つ。
――対象:ロディス。
⸻
同じ頃。
北方の地下深く。
巨大な扉の前に、黒い影が立っていた。
六つの円は、すべて光を放っている。
その中央には、かつて刻まれていたはずの名前がある。
削られた跡だけが残る場所。
影はそこに手を伸ばした。
「まだ、完全には消えていない」
扉の向こうから、声が響く。
『ならば、戻せるのですか』
影は答えなかった。
しばらくして、静かに口を開く。
「戻すのではない」
指先が、削られた名前の跡をなぞる。
「まず、誰が奪ったのかを知らなければならない」
そのとき、扉の奥で何かが動いた。
長い眠りについていたものが、目を覚まそうとしている。
『その名を呼べば、境界が開きます』
影はゆっくりと首を横に振った。
「まだ呼ぶな」
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で続けた。
「今度こそ、あの子を間違えないために」
地下の暗闇に、六つの光が揺れていた。




