第二十一話 記録に残らぬ声
第一章 神に忘れられた子
朝の光が、クロイゼル公爵邸の書斎に差し込んでいた。
グレイヴは机の上に置かれた木製の玩具を見つめていた。
昨夜、黒い外套の男が残した言葉。
『忘れられたものの記録だ』
そして、玩具に浮かび上がった文字。
『名前を返して』
あれは単なる魔法の仕掛けではない。
魔力を流しても反応せず、魔術師の測定器にも何も映らない。
それなのに、確かに声が聞こえた。
「ロディスを呼べ」
控えていた兵士に命じる。
「王国魔術師団のロディス殿を、できるだけ早く屋敷へ」
「承知しました」
兵士が退室する。
グレイヴは玩具を手に取った。
木製の表面には、六角形の刻印がある。
これを作った者は何者なのか。
なぜ、アルヴェインのそばに現れたのか。
そして、あの声は誰のものなのか。
答えのない疑問ばかりが増えていく。
「……必ず突き止める」
グレイヴは玩具を布に包み、机の引き出しへしまった。
*
昼前。
アルヴェインは寝台の上で、両足を動かしていた。
最近は手足の動きが以前よりも活発になっている。
寝返りも、少しずつ自分の意思でできるようになってきた。
もちろん、まだ完全ではない。
身体の向きを変えようとして、途中で力尽きることもある。
(思った以上に体力がいるな……)
前世では当たり前にできていた動作が、今は一つひとつ訓練になる。
しかし、それを苦痛とは思わなかった。
むしろ、自分の身体が少しずつ思いどおりに動くことが嬉しい。
(まずは身体だ。魔力視の訓練も大切だけど、動けなければ何もできない)
アルヴェインは小さな手を伸ばした。
寝台の横に置かれた布の人形に指先が触れる。
もう少し。
あと少し。
指を曲げ、布をつかむ。
「……あう!」
小さな声が出た。
その様子を見ていたエリシアが笑う。
「あら、アルヴェイン様。自分で取れましたね」
彼女は人形を持ち上げ、アルヴェインの手に渡した。
「頑張りましたね」
アルヴェインは人形を握りしめた。
ほんの小さなことだ。
けれど、確かな成長だった。
*
午後。
王国魔術師団のロディスが公爵邸を訪れた。
グレイヴは書斎で彼を迎える。
「急な呼び出しですまない」
「いえ。北方の件もありますから、私も気になっていました」
ロディスは椅子に座ると、すぐに本題へ入った。
「それで、調べたいものとは?」
グレイヴは布に包んだ玩具を机に置いた。
ロディスは慎重に布を開く。
「これは……子供用の玩具ですか?」
「表面の刻印を見てくれ」
ロディスは六角形の紋章に目を向けた。
その表情が変わる。
「この紋章……北方の石柱に刻まれていたものと同じですね」
「やはりか」
「しかし、なぜこのようなものが公爵家に?」
「息子の玩具だ。以前、王都で購入したものらしい」
ロディスは玩具を持ち上げ、魔力を流した。
何も起きない。
次に、解析用の魔法陣を展開する。
淡い光が玩具を包み込む。
だが、魔法陣は何の反応も示さなかった。
「おかしいですね」
「何がだ?」
「魔力を持たない木製品なら、反応しないのは当然です。しかし、この紋章の部分だけ、魔法陣が解析対象として認識していません」
「認識していない?」
「正確には、そこに何かがあることを確認できないのです」
ロディスは魔法陣を解除した。
「例えるなら、机の上に物が置かれているのに、測定器には机しか映らないような状態です」
グレイヴは目を細めた。
「世界に記録されていないもの、ということか」
ロディスはすぐには答えなかった。
「その可能性はあります。ただし、断定はできません」
彼は玩具を机に戻した。
「一つ、確認させてください。これに触れた者はいますか?」
「息子たちだ。特に次男のアルヴェインが長く触れている」
「アルヴェイン様が……」
ロディスは少し考え込んだ。
「一度、お会いしてもよろしいでしょうか」
「構わん。ただし、余計なことはするな」
「もちろんです」
*
アルヴェインの部屋。
ロディスはセレスティアに案内され、寝台のそばまで来ていた。
「こちらがアルヴェインです」
「初めまして、アルヴェイン様」
ロディスが穏やかに声をかける。
アルヴェインは相手を見つめた。
王国魔術師団の人間。
以前、父と一緒に屋敷を訪れたことがある人物だ。
魔力視を働かせる。
ロディスの身体には、整った魔力の循環が見えた。
魔力量も相当に多い。
だが、彼の胸元には、別のものがあった。
小さな傷のような、魔力の流れが途切れた部分。
その周囲だけ、魔力が不自然に避けている。
(何だ、あれは……)
アルヴェインが集中すると、視界に文字が浮かんだ。
――構造異常:検出
――対象:生体
――分類:未確定
ロディスはアルヴェインの顔を覗き込んだ。
「不思議な目をされていますね」
もちろん、アルヴェインは返事をしない。
しかし、ロディスは何かを感じ取ったようだった。
「この子は、私を見ているようで、私の奥を見ている気がします」
セレスティアは微笑んだ。
「よく人の顔を見る子なんです」
ロディスは頷いた。
「そうですか」
そのとき、アルヴェインの胸元がわずかに熱を帯びた。
ロディスの胸元にある傷のような部分が、一瞬だけ光った。
そして、アルヴェインの視界に文字が浮かぶ。
――記録反応:接触
――対象:既存記録の欠損
――警告:対象への干渉を禁止
(欠損……?)
ロディスの身体には、何かが欠けている。
それは怪我ではない。
魔力の異常でもない。
まるで、誰かが彼の存在の一部分を削り取ったようだった。
*
その夜。
ロディスはグレイヴに、アルヴェインについての所見を伝えた。
「アルヴェイン様に、明確な異常は確認できませんでした」
「魔力は?」
「測定上は反応なし。以前と変わりません」
「そうか」
「ただ、一つ気になることがあります」
ロディスは言葉を選んだ。
「私自身に、説明できない欠損があるようです」
「君の身体にか?」
「はい。魔力の流れではなく、もっと根本的なものです。私自身は健康ですし、記憶にも問題はありません。ただ、何かを忘れているような感覚がある」
グレイヴは黙って聞いていた。
「アルヴェイン様を見たとき、その感覚が強くなりました」
「何を思い出した?」
「思い出せません」
ロディスは首を横に振った。
「ただ、以前にも同じような感覚を覚えたことがある気がするのです」
「いつだ?」
「分かりません。ずっと昔のような気もします」
グレイヴは窓の外に目を向けた。
世界から消された名前。
記録に残らない存在。
そして、誰かの記憶に残る欠損。
これらは無関係ではない。
「ロディス。北方の調査は引き続き頼む」
「分かりました」
「それと、今回のことは王都に報告するな」
ロディスは驚いた。
「よろしいのですか?」
「確証がない段階で、余計な人間を動かしたくない」
「承知しました」
二人の間に沈黙が流れた。
その沈黙を破ったのは、廊下から聞こえた小さな足音だった。
レオンハルトが書斎の前を通りかかる。
「父上、まだお仕事ですか?」
「もう終わる。先に休みなさい」
「はい。おやすみなさい」
足音が遠ざかる。
グレイヴは扉の向こうを見つめていた。
守るべきものは多い。
妻も、長男も、次男も。
そして、この家に受け継がれてきたものも。
*
深夜。
アルヴェインは夢の中にいた。
暗い廊下。
無数の扉。
その中に、以前見た名前のない扉がある。
しかし、今日は違った。
扉の表面に、小さな文字が浮かんでいた。
『ロディス』
アルヴェインは立ち止まった。
(あの魔術師の名前……?)
扉の向こうから声が聞こえる。
『彼は覚えていない』
『自分が何を失ったのかも』
(何を失った?)
『記録だ』
扉の向こうに、ぼんやりと人影が見えた。
若い男。
ロディスによく似ている。
だが、少しだけ違う。
その人物の隣には、もう一人の子供が立っていた。
顔は見えない。
ただ、その胸元には六角形の紋章がある。
『この子の名前を覚えていて』
幼い声が響いた。
『お願い。誰か、覚えていて』
アルヴェインが扉に近づく。
その瞬間、床に亀裂が走った。
『触れるな!』
低い声が響く。
『それは記録の残骸だ。今のお前が触れれば、失われたものに引き込まれる』
アルヴェインは足を止めた。
扉の向こうの子供が、こちらを見た気がした。
『また、会える?』
その問いに答える前に、廊下全体が暗闇に包まれた。
*
目を覚ましたアルヴェインの視界に、文字が浮かんでいた。
――魔力視:0.13%
――記録反応:残留記録を検出
――対象:ロディス
――記録欠損:存在を確認
――関連人物:識別不能
――警告:残留記録への接触を禁止
アルヴェインは天井を見つめた。
ロディスの欠損。
名前のない子供。
そして、消された記録。
もしかすると、クロイゼル家だけではないのかもしれない。
世界のどこかに、同じように何かを失った者がいる。
その人たちは、自分が何を失ったのかさえ知らない。
(記録から消された者たちは、今もどこかにいるのか?)
答えはない。
だが、アルヴェインは初めて、自分の異常がクロイゼル家の歴史だけに関わるものではないと感じていた。
その頃、王都から遠く離れた北方の地下。
巨大な扉の前に、一つの影が立っていた。
影は扉に刻まれた文字を指でなぞる。
そこには、かつて刻まれていたはずの名前があった。
しかし、その名前は途中で削られていた。
影は静かに呟いた。
「まだ、覚えている者がいたか」
そして、扉の奥から返事があった。
『いいえ』
『覚えている者は、もういません』
影はゆっくりと顔を上げた。
「ならば、思い出させる必要がある」
六つの円が、暗闇の中で一つずつ光り始めた。




