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暁なき世界の覇王   作者: 未記入です。


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第二十話 消された名前

クロイゼル公爵邸の書庫には、普段ほとんど人が立ち入らない一角がある。


歴代当主の記録が保管された、古い書棚の奥。


そこには、現在の家系図には記載されていない人物の記録が、わずかに残されていた。


グレイヴは朝からその場所を調べていた。


先日の手記に記された言葉が、頭から離れなかったからだ。


『記録から消されたものが、存在しなかったことにはならない』


まるで、誰かが意図的に歴史を隠しているような記述だった。


「六百年の歴史に、これほど不自然な空白があるとはな……」


グレイヴは一冊の家系記録を机に置いた。


初代当主から数えて、歴代の当主とその家族が記されている。


しかし、百数十年前のページに、奇妙な空白があった。


当主の名前。


妻の名前。


長男の名前。


そこまでは記載されている。


だが、その下にあるはずの子供の欄だけが、紙ごと切り取られていた。


誰かが破ったのではない。


最初から、その部分だけを切り取るように作られていた。


グレイヴは別の記録を開いた。


そこには、同じ時代の当主について、こう記されていた。


『当主は晩年、存在しない子供の名を呼び続けた』


グレイヴの指が止まる。


「存在しない子供……」


さらに別の記録には、短い文章があった。


『彼の名を記すことは禁じられた』


名前すら残されていない。


しかし、確かに誰かがいた。


グレイヴは深く息を吐いた。


クロイゼル家は、何百年もの間、何を隠してきたのだろうか。


     *


同じ頃、アルヴェインは寝台の上で、木製の小さな玩具を見つめていた。


セレスティアが用意してくれた、手のひらほどの大きさの動物の人形だ。


握ると、柔らかな音が鳴る。


アルヴェインは両手を伸ばし、なんとか玩具をつかんだ。


「上手ね、アルヴェイン」


セレスティアが嬉しそうに笑う。


「もうこんなに手を動かせるようになったのね」


アルヴェインは玩具を握りしめた。


(この身体も、少しずつ成長している)


生まれたばかりの頃と比べれば、できることは増えている。


首を支えることも、寝返りに近い動きも、以前より上手くなった。


だが、まだ自由に動けるわけではない。


自分の意思を言葉にすることもできない。


(せめて、もう少し自由に動ければな)


そう思ったとき、玩具の表面に魔力とは違う光が見えた。


アルヴェインは目を細める。


木製の人形には、魔法の仕掛けなどない。


しかし、その内部に小さな輪のような構造が見えた。


(何だ、これ?)


輪は人形の中心にあり、一定の間隔で明滅している。


魔力視を集中させる。


すると、輪の内側に、見慣れない文字が浮かんだ。


――記録反応:残留


(残留?)


その瞬間、人形から小さな音が鳴った。


『……おかえり』


幼い子供の声だった。


アルヴェインは目を見開いた。


セレスティアも驚いたように人形を見る。


「あら? そんな音が出る仕掛けだったかしら」


彼女は人形を手に取り、何度か確認した。


しかし、もう音は鳴らない。


「不思議ね。古いものだから、壊れてしまったのかしら」


セレスティアは玩具を寝台の横に置いた。


アルヴェインは、その人形を見つめ続けた。


(今の声……誰だ?)


     *


午後。


レオンハルトが稽古から戻ってきた。


「アルヴェイン、今日は何をしていたの?」


兄は寝台の横に座り、玩具を手に取った。


「これ、母上が買ってくれたの?」


アルヴェインは小さく声を出した。


「気に入ったんだね」


レオンハルトは玩具を軽く握った。


その瞬間。


『……おかえり』


再び、あの声が響いた。


今度はレオンハルトにも聞こえた。


「えっ?」


彼は人形を見つめる。


「今、何か聞こえなかった?」


アルヴェインは兄の顔を見た。


レオンハルトは人形を耳に近づけたが、何も聞こえない。


「気のせいかな……」


彼は首を傾げた。


しかし、アルヴェインには見えていた。


人形の内部にある輪が、レオンハルトの手に触れた瞬間だけ反応している。


そして、その輪の奥には、小さな六角形が刻まれていた。


(兄さんに反応したのか?)


第二の鍵。


血脈反応。


その言葉が頭をよぎる。


レオンハルトが玩具を寝台に戻すと、輪の光は消えた。


アルヴェインは兄の指先を見つめた。


この玩具は、ただの玩具ではない。


クロイゼル家に伝わる何かを記録している。


そう考えるのが自然だった。


     *


夕刻。


グレイヴはセレスティアから、アルヴェインの玩具について話を聞いた。


「声がした?」


「ええ。古い玩具ですから、何か仕掛けが残っているのかもしれません」


「その玩具はどこで手に入れた?」


「あなたが以前、アルヴェインにと買ってきてくださったものよ」


グレイヴは記憶をたどった。


確かに、数か月前に街で見つけたものだった。


特別な品には見えなかった。


「少し見せてくれ」


グレイヴは玩具を受け取り、表面を調べた。


木製の動物。


装飾も少なく、どこにでもあるような品だ。


しかし、裏側に小さな刻印があった。


六角形。


グレイヴの表情が変わる。


「これは……」


肖像画の裏にあったものと同じ紋章。


さらに、古い記録書に描かれていたものとも一致している。


「セレスティア。この玩具は、どこで買った?」


「王都へ行ったときに、商人から買ったものよ」


「商人の名前は覚えているか?」


「確か、北方から来た方だったと思うわ」


北方。


グレイヴは玩具を強く握りそうになり、慌てて力を抜いた。


偶然にしては出来すぎている。


北方の遺跡。


屋敷の隠し扉。


庭の地中に眠る紋章。


そして、この玩具。


すべてが同じものを指し示している。


「この玩具は、しばらく私が預かる」


「何か問題があるの?」


「まだ分からん。だが、念のためだ」


セレスティアは不安そうに頷いた。


     *


その夜。


グレイヴは書斎に玩具を置き、魔力を流してみた。


何も起きない。


魔力を強めても、反応はない。


次に、古い記録書に記されていた六角形の紋章を、玩具の刻印に重ねてみた。


それでも反応はなかった。


「魔力ではないのか……」


彼は玩具を机に置いた。


そのとき、背後から声がした。


「まだ、それを調べていたのか」


グレイヴは振り返った。


書斎の入口に、黒い外套の男が立っていた。


窓も扉も開いていない。


それなのに、男はそこにいた。


「貴様……!」


グレイヴは剣に手をかける。


男は机の上の玩具を見つめた。


「それをどこで手に入れた?」


「答える義理はない」


「そうか」


男は玩具に触れようとした。


グレイヴが剣を抜く。


「触れるな!」


男の手が止まった。


「その玩具は、鍵ではない」


「ならば何だ」


「忘れられたものの記録だ」


「誰の記録だ?」


男は少しだけ顔を上げた。


「名を持たなかった者たちのものだ」


グレイヴの剣先がわずかに揺れる。


「クロイゼル家の歴史に、消された者がいる。そういうことか」


男は答えなかった。


「お前たちは、何を隠している?」


「隠しているのは私ではない」


男は玩具から手を離した。


「お前たちの祖先が、守ろうとしたものだ」


「それは何だ!」


「まだ知るべきではない」


グレイヴが一歩踏み出す。


「待て!」


だが、男の姿はすでに薄れていた。


魔力の痕跡はない。


残されたのは、机の上の玩具だけだった。


その表面に、一瞬だけ文字が浮かんだ。


『名前を返して』


グレイヴは息を呑んだ。


     *


深夜。


アルヴェインは夢の中にいた。


今度は白い空間ではなく、暗い廊下だった。


左右には無数の扉が並んでいる。


そのすべてに、名前が刻まれていた。


知らない名前。


読めない名前。


そして、名前のない扉。


アルヴェインは、最も奥にある扉へ近づいた。


そこには、何も書かれていない。


ただ、六角形の紋章だけが刻まれていた。


扉の向こうから、幼い声が聞こえる。


『ぼくの名前は?』


アルヴェインは立ち止まった。


『ぼくは、ここにいたよ』


『みんなと一緒にいたんだよ』


『なのに、どうして誰も覚えていないの?』


扉の表面に、細い亀裂が走った。


その奥から、小さな手が伸びてくる。


アルヴェインが手を伸ばそうとした瞬間、別の声が響いた。


『触れるな』


あの低い声だった。


『記録に触れるな。まだ、お前には早い』


(この子は誰だ?)


『失われた名前だ』


(どうして失われた?)


『世界から消されたからだ』


その答えに、アルヴェインは強い違和感を覚えた。


世界から消された。


それは、存在しなかったことにされたという意味なのか。


『違う』


声が続けた。


『存在したことを知る者が、いなくなったのだ』


廊下の扉が次々と閉じていく。


最後に、幼い声が聞こえた。


『いつか、名前を返してね』


     *


翌朝。


アルヴェインは静かに目を覚ました。


胸元の印が、弱く明滅している。


視界に文字が浮かんだ。


――魔力視:0.12%


――記録反応:残留記録を検出


――対象:識別不能


――第二の鍵:血脈反応を維持


――新規情報:消失記録の存在を確認


――警告:記録への直接接触を禁止


アルヴェインは天井を見つめた。


昨夜の夢。


玩具から聞こえた声。


そして、黒い外套の男の言葉。


すべてがつながっているようで、まだ何一つ分からない。


ただ、ひとつだけ確信できることがあった。


クロイゼル家の歴史には、名前を奪われた者たちがいる。


彼らは本当に存在した。


誰かに忘れられ、記録から消されても。


アルヴェインは小さな手を胸元に添えた。


(いつか、必ず見つける)


その名前が誰のものなのか。


なぜ消されたのか。


そして、なぜ自分に託されようとしているのか。


まだ何もできない幼い身体の中で、その決意だけが静かに形を持ち始めていた。

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