第十九話 見えない境界
第一章 神に忘れられた子
北方からの急報が届いて以来、クロイゼル公爵邸には、わずかな緊張が漂っていた。
グレイヴは王都への報告書をまとめ、北方の警備体制を見直していた。
調査隊の増員。
山道の封鎖。
周辺村落への警戒指示。
どれも必要な措置だったが、グレイヴには一つだけ納得できないことがあった。
北方の異変が起きるたび、魔物の動きが変わることだ。
本来、魔物は自らの縄張りを守る性質が強い。
しかし最近は、縄張りを捨ててまで山の奥から離れている。
まるで、何かから逃げているようだった。
「魔物が恐れるもの、か……」
執務室で報告書を読んでいたグレイヴは、窓の外に目を向けた。
北の山々は、今日も静かにそびえている。
だが、その静けさがかえって不気味だった。
*
一方、アルヴェインは身体を動かす練習を続けていた。
寝台の上で両腕を伸ばし、指を握ったり開いたりする。
以前よりも首は安定し、短い時間なら上半身を起こしていられるようになった。
それでも、思いどおりに身体を動かすことはできない。
(この身体、成長が遅いわけじゃないんだろうけど……)
前世の感覚が残っているせいか、思考と身体の動きの差がもどかしい。
頭では分かっていても、筋肉がついてこない。
ましてや、魔力を扱う以前の問題だった。
(今できることを積み重ねるしかないな)
アルヴェインは小さな手を見つめた。
そのとき、寝室の扉が開いた。
「アルヴェイン様、失礼いたします」
エリシアが入ってくる。
「今日は少し外の空気を吸いましょうか」
彼女はアルヴェインを抱き上げると、窓辺へ向かった。
庭にはレオンハルトの姿があった。
木剣を握り、庭師の邪魔にならない場所で素振りをしている。
「レオンハルト様も、毎日頑張っていらっしゃいますね」
エリシアが微笑む。
アルヴェインは兄の動きを見つめた。
以前よりも剣の軌道が安定している。
腕だけで振るのではなく、腰と足を連動させているのが分かった。
(ちゃんと成長してるな)
兄の努力を見ると、自分も頑張らなければと思う。
その瞬間、魔力視の視界に変化が起きた。
レオンハルトの周囲に、薄い膜のようなものが見える。
以前、魔力を使ったときに見えた構造とは違う。
彼の身体を包み込むように広がり、剣を振るたびにわずかに揺れていた。
(あれは……魔力?)
アルヴェインは集中した。
膜の表面には、ごく細い線がいくつも走っている。
だが、その線はレオンハルトの魔力の流れとは別の動きをしていた。
剣を振る。
膜が揺れる。
剣を止める。
膜も静かになる。
まるで、身体の動きを記録しているかのようだった。
(記録の理……?)
そう考えた瞬間、視界に文字が浮かぶ。
――記録反応:微弱
――対象:生体運動
――構造解析:未完了
アルヴェインは息を呑んだ。
これまで見てきた魔法の構造とは違う。
魔力を使って何かを生み出す仕組みではない。
動きを記録する仕組み。
では、何のために?
答えは出なかった。
*
その日の午後。
グレイヴは古い書庫で、一冊の記録書を見つけた。
表紙には何も書かれていない。
長い間、誰にも開かれていなかったらしく、革は乾き、ページの端は黄ばんでいる。
開いてみると、そこには初代当主の手記が記されていた。
『北の境界には、世界を隔てる壁が存在する』
グレイヴは手を止めた。
さらに読み進める。
『壁は石でできているのではない。魔力で作られているのでもない』
『世界の内側と外側を分ける、見えない境界である』
『それを越えようとした者は、帰ってこなかった』
グレイヴは眉をひそめた。
北方の遺跡に関する記録は、今までにも読んできた。
しかし、これほど明確に境界という言葉が使われているものはなかった。
ページの最後には、短い文章が残されていた。
『境界を守る者がいる』
『彼らは世界を守っているのか。それとも、世界の外側を閉じ込めているのか』
グレイヴは記録書を閉じた。
「守る者……」
その言葉が、以前アルヴェインの夢に現れた声と重なる。
北の扉を開けるな。
あの警告は、単なる忠告ではないのかもしれない。
*
夕方。
レオンハルトは父の稽古を終え、汗を拭いていた。
「今日はどうだった?」
グレイヴが尋ねる。
「昨日より、剣の動きが安定したと思います」
「自分ではどう感じた」
「最初の数回は力が入りすぎていました。でも、途中から足の動きを意識したら、少し振りやすくなりました」
グレイヴは頷いた。
「悪くない。身体の一部分だけで動こうとするな。全体を使え」
「はい」
「ただし、できたと思ったときほど、基本を忘れるな」
レオンハルトは真剣な表情で頷いた。
そのとき、父の視線が庭の向こうへ移った。
窓辺には、セレスティアとアルヴェインがいる。
「父上?」
「いや、何でもない」
グレイヴは息子の頭に手を置いた。
「お前は今の鍛錬を続けろ。焦る必要はない」
「分かりました」
レオンハルトは少し考えてから尋ねた。
「アルヴェインも、いつか強くなれますか?」
「なれるかどうかではない。どう成長するかだ」
「どういう意味ですか?」
「人にはそれぞれ違う道がある。お前と同じ道を歩む必要はないということだ」
レオンハルトは窓辺の弟を見た。
「それでも、一緒に稽古はしたいです」
「ならば、お前が教えられるだけの力を身につけろ」
「はい!」
その返事を聞き、グレイヴは小さく笑った。
*
夜。
アルヴェインは再び、あの白い空間に立っていた。
六つの光は以前よりも少し離れて配置されている。
中央には、何もない。
扉も、椅子も、人影も見当たらなかった。
『見ることに慣れてきたな』
声が響いた。
アルヴェインは周囲を見回す。
「誰だ?」
今度は、はっきりと声が出た。
『声を出す必要はない。ここでは、お前の意識がそのまま伝わる』
(ならば答えてくれ。北の境界とは何だ?)
しばらく沈黙があった。
『世界の内側と外側を分けるものだ』
(外側には何がある?)
『何もないとは限らない。だが、あるとも限らない』
曖昧な答えだった。
(なぜ、そこまで隠す?)
『隠しているのではない。まだ、お前には見えないだけだ』
アルヴェインは不満を感じた。
これまで何度も、同じような答えを聞いてきた。
教えない。
見ろ。
考えろ。
自分で理解しろ。
(少しくらい説明してくれてもいいだろう)
『説明を求めることは悪くない』
声の調子が、ほんのわずかに変わった。
『だが、理解できない言葉を与えられても、それは知識にはならない』
六つの光のうち、黒い光が揺れた。
『お前が見ているものは、世界の一部分にすぎない』
『魔力が見えるからといって、魔力だけが世界を動かしているわけではない』
(では、あの扉は何なんだ?)
『記録されたものを守るための仕組み』
(誰が作った?)
『それを知るには、まず記録と記憶の違いを理解しなければならない』
アルヴェインは黙った。
『記録は残る。記憶は失われる』
『だが、記録されたものが真実とは限らない』
六つの光が、ゆっくりと回転を始める。
『覚えておけ。記録から消されたものが、存在しなかったことにはならない』
その言葉を最後に、空間が薄れていった。
*
翌朝。
アルヴェインの胸元にある印が、かすかに光った。
視界に文字が浮かぶ。
――魔力視:0.11%
――構造反応:安定
――記録反応:観測継続
――第二の鍵:血脈反応を維持
――新規理解項目:記録と記憶
――解析進行:微増
アルヴェインはゆっくりと目を閉じた。
記録されたものが真実とは限らない。
ならば、クロイゼル家の歴史も同じなのだろうか。
六百年続く家の記録。
初代当主が出会った名もなき旅人。
そして、歴代当主の記録から消された子供たち。
そこには、まだ知られていない事実がある。
アルヴェインは小さな手を握った。
今はまだ、何もできない。
それでも、少しずつ見えるものは増えている。
世界の仕組みだけではない。
世界が何を隠しているのかも。
そして、その秘密を知ろうとする者たちが、自分の周囲で動き始めていることも。
遠く離れた北方の岩壁。
その地下深くで、六つの円のうち一つが、再び微かに明滅した。
今度は、誰も触れていない。
まるで、何かが目を覚ます時を待っているかのように。




