第十八話 北方から届く知らせ
第一章 神に忘れられた子
クロイゼル公爵邸に、北方からの急報が届いたのは、それから三日後のことだった。
早朝。
まだ朝靄の残る城門を、一頭の馬が駆け抜ける。
馬上の兵士は泥にまみれ、鎧にはいくつもの傷が刻まれていた。
「グレイヴ様に急ぎお伝えしたいことが!」
門番が兵士の姿を認め、すぐに屋敷へ使いを走らせた。
知らせを受けたグレイヴは、朝食の席を立った。
「レオンハルト。セレスティアとアルヴェインのそばにいろ」
「何かあったのですか?」
「北方の調査隊から報告が入った」
それだけ告げると、グレイヴは食堂を出ていった。
レオンハルトは父の背中を見送った。
「北の山で何かあったのかな……」
セレスティアは不安そうに息子を見る。
「大丈夫よ。お父様が確認してくださるわ」
その腕の中で、アルヴェインは静かに二人の会話を聞いていた。
(北方……)
第一の封印が反応した場所。
古い石柱が立ち、六つの光が現れた場所だ。
そして、黒い外套の男が姿を現した場所でもある。
偶然とは思えなかった。
*
グレイヴが通された執務室には、すでに三人の兵士が待っていた。
その中の一人が、北方調査隊の隊長だった。
「報告しろ」
「はい。三日前、北方山脈の第三調査地点で異常を確認しました」
隊長は地図を広げた。
「以前、六角形の紋章が浮かび上がった石柱の周辺です。地面に亀裂が走り、地下から振動が発生しました」
「魔力反応は?」
「通常の魔力とは異なります。王国魔術師団にも確認を依頼しましたが、測定器が反応しませんでした」
グレイヴの目が細くなる。
「魔力を持たない現象か」
「それだけではありません」
隊長は一枚の布を取り出した。
そこには、黒い粉のようなものが付着していた。
「現場に落ちていました。魔物の死骸にも同じものが付着していましたが、腐敗や焼失の痕跡はありません」
「どういうことだ?」
「分かりません。まるで、最初からそこに存在しなかったもののように、身体の一部が消えていました」
部屋の空気が重くなる。
グレイヴは布を見つめた。
「死骸は回収したのか」
「はい。しかし、帰還途中に変化が起きました」
「変化?」
「回収した魔物の死骸が、突然消失しました。煙も、光も、魔力の反応もありませんでした」
グレイヴはしばらく黙っていた。
やがて地図に視線を落とす。
「調査隊は全員無事か」
「負傷者が二名。命に別状はありません」
「よく戻った。しばらく休め」
兵士たちが退出すると、グレイヴは地図を見つめたまま動かなかった。
北方の異変。
第一の封印。
屋敷に眠る扉。
そして、アルヴェインの胸に刻まれた印。
それぞれが、一本の線でつながり始めている。
「これは、単なる遺跡の異常ではないな……」
*
一方、アルヴェインは兄の腕の中にいた。
レオンハルトは庭へ出るつもりだったらしく、窓の外を眺めている。
「アルヴェイン、今日は庭に行こうか」
「うー」
「よし。外の空気を吸いに行こう」
レオンハルトは嬉しそうに笑った。
庭には、朝露に濡れた草花が広がっていた。
風が吹くたび、木々の葉が小さく揺れる。
アルヴェインは兄の腕の中から周囲を観察した。
魔力視。
庭にある草花には、微弱な魔力が流れている。
水路の水にも、噴水の魔法石にも、それぞれ異なる構造が見えた。
以前と比べると、少しずつ見える範囲が広がっている。
だが、まだ魔力の流れを完全に理解できるわけではない。
(焦るな。見えるものが増えても、理解したことにはならない)
そのときだった。
庭の隅にある古い樹木の根元。
そこに、奇妙なものが見えた。
地面の下へと伸びる、細い光の筋。
魔力ではない。
あの扉や六角形の紋章と同じ、規則的な構造を持つ線だった。
アルヴェインは目を凝らした。
光の筋は樹木の根に沿って伸び、地中深くへと続いている。
その先に、小さな六角形が見えた。
(まさか……)
「アルヴェイン?」
レオンハルトが顔を覗き込む。
「どうしたの? あそこが気になる?」
アルヴェインは樹木を見つめ続けた。
すると、胸元の印がかすかに熱を帯びた。
地中の六角形が、一度だけ明滅する。
そして、すぐに消えた。
(屋敷の扉だけじゃない。庭にも何かあるのか?)
クロイゼル家の敷地そのものが、何かを隠している。
そう考えると、六百年という家の歴史さえ、今までとは違って見えてくる。
*
昼過ぎ。
グレイヴは庭に出てきた。
レオンハルトがアルヴェインを抱いているのを見つけると、二人のもとへ歩いてくる。
「ここにいたのか」
「父上。北の山で何かあったのですか?」
レオンハルトの質問に、グレイヴは少し驚いた。
「聞いていたのか」
「朝、兵士の方が来ていたので」
「少し調査が必要になっただけだ。心配するな」
そう答えながら、グレイヴはアルヴェインに目を向けた。
その瞬間だった。
アルヴェインの視線が、庭の古い樹木へと向いていることに気づく。
「……何を見ている?」
グレイヴはアルヴェインの視線を追った。
そこには、何の変哲もない樹木が立っている。
「父上?」
レオンハルトが不思議そうに尋ねる。
「いや、何でもない」
グレイヴは樹木に近づき、幹に手を触れた。
当然、何も起こらない。
だが、アルヴェインには見えていた。
グレイヴの手が幹に触れた瞬間、地中の六角形が一瞬だけ反応したことを。
(父さんには見えていない……)
グレイヴはしばらく樹木を調べた後、手を離した。
「古い木だな。ずいぶん長くこの庭にある」
「父上、この木には何かあるのですか?」
「分からん。だが、後で調べてみよう」
その言葉を聞き、アルヴェインは心の中で頷いた。
父もまた、少しずつ真実に近づいている。
*
その夜。
北方山脈のさらに奥。
調査隊が発見した石柱の前に、一人の男が立っていた。
黒い外套。
顔は影に隠れ、その姿から魔力の流れは一切感じられない。
男は石柱に手を触れた。
石柱に刻まれた六角形が、淡く光る。
「第一の封印が動いた」
男は静かに呟いた。
「それに合わせて、家の中の鍵も反応したか」
石柱の表面に、六つの円が浮かび上がる。
そのうち一つだけが、弱々しく明滅していた。
男はその光を見つめる。
「まだ早い。あの子は、何も知らない」
しばらく沈黙した後、男は北のさらに奥へと視線を向けた。
そこには、山々に囲まれた巨大な岩壁がある。
人の手が届かない場所。
地図にも記されていない場所。
その岩壁の中央に、巨大な扉が眠っていた。
扉の表面には、クロイゼル家のものと同じ六角形の紋章。
ただし、こちらには六つすべての円が刻まれている。
男が一歩近づく。
すると、扉の奥から声が響いた。
『記録されていない者が、再び現れた』
男は答えなかった。
『今度こそ、世界に戻すのか』
「違う」
男は短く言った。
「今度は、本人に選ばせる」
扉の奥で、何かが動いた。
『選ばせる……か』
声に、わずかな嘲笑が混じる。
『また同じ過ちを繰り返すつもりか』
男は扉から手を離した。
「同じにはしない」
その瞬間、岩壁の奥で赤い光が灯った。
六つの円のうち、まだ眠っていた別の円が、ほんのわずかに明滅する。
男はその変化を見届けると、静かにその場を離れた。
*
深夜。
アルヴェインは夢を見ていた。
白い空間ではない。
そこは、見知らぬ広い部屋だった。
壁には無数の文字が刻まれ、床には複雑な紋様が広がっている。
部屋の中央には、一つの椅子。
そこに誰かが座っていた。
顔は見えない。
だが、その人物の周囲には、魔力とは異なる光が漂っている。
『ここまで来たか』
声が響いた。
アルヴェインはその人物を見つめた。
『お前はまだ、何も知らない』
『力も、歴史も、自分自身のことさえ』
(ならば教えてくれ)
『教えることはできない』
(なぜだ?)
『知識を与えれば、お前はそれを答えだと思う』
人物の背後に、六つの紋章が浮かび上がる。
『自分の目で見ろ。自分の頭で考えろ』
『そして、忘れるな』
『世界は、お前を記録しようとする』
『だが、記録されることが正しいとは限らない』
アルヴェインが一歩踏み出そうとしたとき、人物の姿が薄れていく。
最後に、その人物は一つだけ言葉を残した。
『北の扉を開けるな』
その瞬間、夢が途切れた。
*
目を覚ましたアルヴェインは、静かに天井を見つめていた。
胸元の印は、普段どおりに戻っている。
視界には新しい表示が浮かんでいた。
――魔力視:0.10%
――構造反応:微弱
――第二の鍵:血脈反応を維持
――外部接続:断続的に発生
――新規情報:北方構造物を検出
――警告:接触禁止対象を確認
アルヴェインは小さく息を吐いた。
(北の扉を開けるな……)
屋敷の扉。
庭の地中に眠る紋章。
北方山脈の巨大な扉。
すべてがつながっている。
そして、あの黒い外套の男も。
(いつか、必ず確かめてやる)
今はまだ、手を伸ばすことすらできない。
それでも、目を閉じることはしなかった。
知らないままでいることの方が、ずっと怖かったからだ。
幼い身体の中で、かつて二十七年を生きた男の意志が、静かに燃え始めていた。




