第十七話 血に眠る記憶
第一章 神に忘れられた子
翌朝。
アルヴェインは、いつもより早く目を覚ました。
窓から差し込む朝日が、部屋の壁を淡く照らしている。
身体を動かそうとすると、まだ思うようには動かない。小さな手を握り、開く。それだけでも、今の彼にとっては立派な訓練だった。
だが、昨夜の夢が頭から離れなかった。
第二の鍵。
外部接続。
そして、最後に浮かんだ一文字。
――血。
(血に何がある?)
クロイゼル家の血筋に関係するのか。
それとも、前世の自分とは別の何かが、この身体に宿っているということなのか。
答えはない。
ただ一つ確かなのは、屋敷の東廊下にある扉と、胸元の六角形の印が無関係ではないということだった。
「アルヴェイン、起きていたの?」
部屋に入ってきたセレスティアが、柔らかな笑顔を向ける。
「今日は早いのね」
彼女が抱き上げると、アルヴェインは小さな手を伸ばした。
その指が、セレスティアの指先に触れる。
温かい。
何の変哲もない、母親の手だった。
しかし、その瞬間。
アルヴェインの視界に、奇妙なものが映った。
セレスティアの身体を流れる魔力。
その奥に、薄く重なるもう一つの流れ。
それは魔力ではなかった。
六角形の紋章と同じ、規則的な形を持った光の粒が、彼女の胸元にごくわずかに浮かんでいる。
(母さんにも……?)
アルヴェインが目を凝らすと、光はすぐに消えた。
セレスティアは何も気づいていない。
「ふふ、甘えん坊さんね」
彼女はアルヴェインの額に口づけをした。
アルヴェインは考えるのをやめた。
今はまだ、分からないことが多すぎる。
*
その日の昼。
グレイヴは書斎に家族の古い記録を集めていた。
初代当主から数えて二十代以上。
歴代当主の名前、功績、戦歴、家族構成。
その中に、わずかながら不自然な記録が残されていた。
特定の時代だけ、子供の出生に関する記述が極端に少ない。
死亡した者の記録はある。
戦場で命を落とした者の記録もある。
だが、生まれたはずの子供が、最初から存在しなかったかのように扱われている年代があった。
「記録が消されたのか……」
グレイヴは古い羊皮紙を机に広げた。
そこには、当時の当主が残した短い文章が記されていた。
『血は受け継がれる。しかし、記憶は受け継がれない』
『門が開くとき、忘れられたものが目を覚ます』
『その子を、世界に知られてはならない』
グレイヴは最後の一文を何度も読み返した。
その子。
誰のことを指しているのか。
初代当主が出会った旅人なのか。
それとも、後の時代に生まれた誰かなのか。
さらにページをめくると、別の記述が見つかった。
『門を開く資格は、強さでは測れない』
グレイヴは静かに目を閉じた。
クロイゼル家は、強さを重んじる家だった。
力なき者に、家名を名乗る資格なし。
その教えを受け継ぎ、守ってきた。
しかし、この扉に関しては違う。
力を持つ自分にも、優れた魔力を持つレオンハルトにも反応しなかった。
ならば、資格とは何なのか。
「父上」
書斎の入口から声がした。
レオンハルトだった。
「どうした」
「アルヴェインの様子を見に行ってもいいですか?」
「構わん。だが、母上の邪魔はするなよ」
「はい!」
レオンハルトは嬉しそうに部屋を出ていった。
その後ろ姿を見ながら、グレイヴは小さく呟いた。
「血を継ぐ者……か」
*
午後。
レオンハルトはアルヴェインの寝台の横に座っていた。
「アルヴェイン、今日は僕が剣の稽古をしているところを見せてあげるね」
もちろん、返事はない。
「父上に教えてもらったんだ。相手の動きを見ることが大事なんだって」
レオンハルトは少し誇らしげに話した。
「ただ強く振るだけじゃ駄目なんだって。相手がどう動くかを考えて、自分がどう動くか決めるんだ」
アルヴェインは兄を見つめる。
(それは正しいと思う)
前世の記憶がある彼にとっても、観察と判断が重要なのは理解できる。
ただ力任せに動いても、いずれ限界が来る。
魔法も同じだ。
構造を理解せずに魔力を流すだけでは、無駄が生まれる。
「僕ももっと頑張るよ。アルヴェインが大きくなったら、一緒に稽古しようね」
レオンハルトが手を差し出す。
アルヴェインは、その指を握った。
小さな手が、兄の指を包む。
「おっ、今日は力が強いね!」
レオンハルトは嬉しそうに笑った。
その瞬間だった。
アルヴェインの胸元が、かすかに熱を帯びた。
そして、兄の手を握る自分の指先から、細い光が一本だけ伸びた。
魔力ではない。
目に見えるほど弱い光だったが、確かに存在していた。
光はレオンハルトの手を伝い、彼の腕の途中で止まる。
アルヴェインは息を止めた。
(何だ……これは?)
レオンハルトの魔力の流れとは違う。
身体を巡る魔力に干渉しているわけでもない。
ただ、何かを確かめるように、腕の内側をなぞっている。
そして、光は一瞬だけ六角形の形を作った。
次の瞬間、消えた。
「アルヴェイン?」
レオンハルトが首を傾げる。
「どうしたの?」
アルヴェインは何も答えられない。
しかし、胸元の印には、これまでになかった変化が起きていた。
六つの円のうち、一つ。
最も下にある小さな円が、ほんのわずかに明滅していた。
*
その夜。
グレイヴは再び東廊下へ向かった。
肖像画を外し、隠された扉を露わにする。
六角形の紋章。
六つの円。
そして、血を継ぐ者に向けられた言葉。
グレイヴは自分の手を紋章に重ねた。
魔力を流す。
反応はない。
次に、レオンハルトの手を借りて試したこともあったが、結果は同じだった。
「やはり違うか……」
彼は手を離した。
そのとき、廊下の奥から小さな物音がした。
振り返ると、そこにはセレスティアが立っていた。
「あなた、またここにいたのね」
「眠れないのか?」
「あなたが最近ずっと難しい顔をしているから、気になって」
セレスティアは扉を見つめた。
「これは何なの?」
「まだ分からん」
「アルヴェインに関係しているの?」
グレイヴは答えなかった。
その沈黙だけで、セレスティアには十分だった。
「……あの子に何かあるの?」
「断言はできん。だが、この家に伝わる古い記録と、あの子の胸にある印には関係があるようだ」
セレスティアは胸元に手を当てた。
「アルヴェインは、普通の子と違うの?」
「分からん」
グレイヴは、妻の目を見た。
「だが、何があろうと、あの子は私たちの息子だ」
「そうね」
セレスティアは静かに頷いた。
「特別な力があっても、なくても、あの子はあの子よ」
グレイヴは扉を見つめ直した。
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
*
同じ夜。
アルヴェインは再び夢の中にいた。
白い空間。
六つの光。
そして、中央に立つ扉。
前回と違い、扉の表面には何も浮かんでいなかった。
ただ、六つの円のうち、一つだけが淡く光っている。
『接触を確認』
あの低い声が響いた。
『血の記憶が、わずかに反応した』
(血の記憶……)
『お前だけではない。お前の周囲にも、眠るものがある』
(母さんや兄さんにも何かあるのか?)
返事はなかった。
代わりに、扉の向こう側から、かすかな音が聞こえてきた。
まるで、誰かが扉を叩いているような音だった。
一度。
二度。
三度。
その音は、徐々に大きくなる。
『忘れるな』
声が告げる。
『血は道を示す。しかし、道を選ぶのはお前だ』
扉の表面に、新たな文字が浮かび上がった。
『第二の鍵――血脈反応』
アルヴェインがその文字を見つめた瞬間、六つの光の一つが強く輝いた。
そして、扉の向こうから、聞き覚えのない声がした。
「見つけた」
その声は、先ほどまでの低い声とは違う。
どこか懐かしさを感じさせる、穏やかな声だった。
「今度は、間違えない」
白い空間が激しく揺れる。
『離れろ!』
警告と同時に、アルヴェインの意識は現実へと引き戻された。
*
目を覚ましたアルヴェインは、寝台の上で小さく息をした。
胸元の印が、今までにないほど熱を持っている。
視界に文字が浮かぶ。
――魔力視:0.09%
――構造反応:微弱
――第二の鍵:血脈反応を確認
――覚醒状態:未達
――外部接触:発生
――警告:接触元の識別に失敗
アルヴェインは天井を見つめた。
(血脈反応……兄さんの手に触れたときのことか)
偶然ではない。
あの扉は、自分だけではなく、クロイゼル家の血に反応している。
しかし、誰が鍵となるのかは分からない。
そして、扉の向こう側には、自分を知っている何者かがいる。
「……あう」
小さな声が部屋に響いた。
その声に気づいたエリシアが、隣の部屋から様子を見に来る。
「アルヴェイン様、どうかなさいましたか?」
エリシアは寝台に近づき、そっと彼の額に触れた。
「熱はないようですね。怖い夢でも見たのですか?」
アルヴェインは彼女を見つめた。
彼女の背後。
壁の向こうへと続く、あの黒い線は見えない。
だが、胸元の印はまだわずかに熱を持っていた。
静かに目を閉じる。
今はまだ、何もできない。
けれど、いつか必ず知る。
この家に隠されたもの。
自分の胸に刻まれた印。
そして、扉の向こうから自分を呼ぶ存在の正体を。
そのために、今は見る。
考える。
そして、少しずつ強くなる。
アルヴェインの小さな手が、寝台の布を握りしめた。




