第十六話 眠る扉の向こう側
第一章 神に忘れられた子
クロイゼル公爵邸の東廊下。
そこには、歴代当主の肖像画が並んでいる。
普段と変わらない静かな廊下だったが、グレイヴにとっては、もはや以前と同じ場所ではなかった。
肖像画の奥に隠されていたもの。
六つの小さな円を持つ六角形の紋章。
そして、そこに刻まれた言葉。
――血を継ぐ者、門を開け。
グレイヴは再び肖像画の前に立っていた。
手には、古い記録書が一冊ある。
「血を継ぐ者、か……」
低く呟き、記録書のページをめくる。
クロイゼル家の歴史は約六百年に及ぶ。しかし、現存する記録の中には、意図的に抜け落ちたような時代が存在していた。
初代当主の記録にも、不可解な記述がある。
『北方の遺跡にて、名を持たぬ旅人と出会う』
『彼は魔力を持たず、魔法を使わなかった』
『しかし、我らには見えぬものを見ていた』
そして、その後に続く一文。
『彼の存在を記録に残すことは許されなかった』
グレイヴは眉間に皺を寄せた。
「なぜ、そこまで隠す必要がある……」
記録の最後には、六角形の紋章が描かれていた。
肖像画の裏にあったものと、寸分違わない。
だが、記録書にはもう一つ、気になる記述があった。
『門は血によって開く。ただし、血を継ぐ者すべてに資格があるわけではない』
グレイヴは本を閉じた。
自分の血を引く者。
それならば、自分にも反応があってよいはずだった。
しかし、何も起きなかった。
「アルヴェイン……」
その名を口にした瞬間、グレイヴの表情がわずかに険しくなる。
まだ幼い次男を、得体の知れない仕掛けに近づけるわけにはいかなかった。
たとえ、それが家族を守るために残されたものだとしても。
*
同じ頃、アルヴェインは母の腕の中にいた。
「今日はご機嫌ね、アルヴェイン」
セレスティアが優しく頬に触れる。
アルヴェインは小さく声を上げた。
「あう……」
もちろん、言葉を話せるわけではない。
しかし、その内側では、別のことを考えていた。
(父さんは、あの扉を調べている)
昨日、東廊下で見た光景が頭から離れない。
魔力視によって見えた、肖像画の奥にある奇妙な線。
あれは単なる魔法の構造ではなかった。
魔力が流れているわけでもない。
それなのに、確かに何かが存在している。
(あの六つの円……夢で見た六つの理と関係があるのか?)
構成。
循環。
変質。
生命。
時間。
記録。
それぞれが何を意味するのか、まだ理解できていない。
ただ、六つの理が一つの紋章に集まっているという事実には、何か意味があるはずだった。
アルヴェインは母の胸元に顔を寄せた。
今の自分にできることは少ない。
考えることはできても、伝えることができない。
身体は少しずつ成長しているが、自由に動くには程遠かった。
(焦るな。今は観察するしかない)
そう考えたとき、胸元の六角形の印が、ほんのわずかに熱を帯びた。
「ん?」
セレスティアがアルヴェインの顔を覗き込む。
「どうしたの?」
彼女には、何も見えていない。
しかし、アルヴェインの視界には、母の周囲を流れる魔力とは異なる、細い光の線が一瞬だけ映っていた。
それは胸元の印から伸び、東廊下の方向へと消えていく。
次の瞬間、光は消えた。
(今のは……)
アルヴェインは目を見開いた。
初めての反応だった。
扉そのものではない。
扉と自分を結ぶ何かが、確かに動いたのだ。
*
午後。
レオンハルトは父の書斎を訪れていた。
「父上、少しよろしいでしょうか」
「どうした、レオンハルト」
「最近、東廊下に何かあるのですか?」
グレイヴの手が止まった。
「なぜそう思う」
「父上が何度もあの場所へ行かれているので」
八歳の少年は、父の様子をよく見ていた。
グレイヴはしばらく黙っていたが、やがて本を閉じた。
「古い仕掛けが見つかった。まだ調べている最中だ」
「危険なものですか?」
「分からん」
その答えに、レオンハルトは少しだけ不安そうな顔をした。
「アルヴェインにも関係がありますか?」
今度は、グレイヴが息子を見つめた。
子供に隠し通せるほど、レオンハルトは鈍くない。
「なぜそう思う」
「父上がアルヴェインを見るとき、少しだけ難しい顔をされるからです」
グレイヴは小さく息を吐いた。
「お前はよく見ているな」
「弟に何かあるのですか?」
「今は何も分からん。だからこそ、余計なことはするな」
「分かりました」
レオンハルトは素直に頷いた。
だが、すぐに顔を上げる。
「それでも、アルヴェインを守ることはできます」
「……そうか」
「僕は兄ですから」
その言葉に、グレイヴはわずかに口元を緩めた。
「ならば、まずは自分を鍛えろ。守るというのは、気持ちだけでは成り立たん」
「はい!」
レオンハルトの返事は力強かった。
その背中を見送りながら、グレイヴは思う。
この子もまた、クロイゼルの血を継ぐ者だ。
しかし、あの扉はレオンハルトにも反応しなかった。
ならば、血だけが条件ではない。
必要なのは、血の中に眠る何か。
あるいは、血とは別の何か。
*
夜。
アルヴェインは眠っていた。
深い眠りの中で、再び白い空間に立っていた。
目の前には、六つの光が浮かんでいる。
赤、青、緑、黄、白、黒。
それぞれの光は、互いに干渉することなく、一定の距離を保っていた。
「またここか……」
声に出したつもりだった。
しかし、幼い身体の声は届かない。
それでも、空間に変化は起きた。
六つの光の中央に、小さな扉が現れる。
それは、クロイゼル家の屋敷にある隠し扉とよく似ていた。
ただし、こちらには取っ手も鍵穴もない。
扉の中央には、六角形の紋章。
その下に、文字が浮かび上がった。
『第二の鍵』
アルヴェインが近づこうとすると、扉の向こう側から声が響いた。
『まだ開けてはならない』
以前聞いた声とは違う。
落ち着いた、低い声だった。
『鍵は目覚めていない。だが、器はすでにこちらを見ている』
(器……僕のことか?)
『お前が知るべきことは、まだ少ない』
「何を隠している?」
問いかけても、返事はない。
代わりに、扉の表面に細い亀裂が走った。
その亀裂から、黒い光が漏れ出す。
六つの光が一斉に揺れた。
『第一の封印が動いたことで、境界に歪みが生じた』
『こちらを探す者がいる』
『そして、こちらを閉じ込めようとする者もいる』
アルヴェインは扉を見つめた。
(探す者……あの黒い外套の男か?)
『誰を信じるかは、お前が決めることになる』
声が遠ざかっていく。
最後に、扉の中央に一つの文字が浮かんだ。
『血』
それだけだった。
次の瞬間、白い空間が崩れ始めた。
*
目を覚ましたアルヴェインは、薄暗い寝室の天井を見つめていた。
身体には汗が滲んでいる。
胸元の印は、普段と変わらない。
しかし、視界の端に小さな文字が浮かんでいた。
――魔力視:0.09%
――構造反応:微弱
――第二の鍵:未覚醒
――外部接続:一時的に確認
――警告:識別不能な干渉を検出
(外部接続……?)
今までの表示にはなかった言葉だった。
アルヴェインが意味を考えようとしたとき、寝室の扉の向こうで足音が止まった。
静かな気配。
そして、ほんのわずかに空気が揺れる。
魔力視を働かせる。
扉の向こうには、エリシアの魔力が見えた。
だが、そのすぐ後ろ。
本来なら何もないはずの空間に、黒い線が一本だけ伸びていた。
その線は、壁を越えてどこか遠くへ続いている。
アルヴェインは息を呑んだ。
(また、あいつなのか……?)
黒い線は一瞬だけ揺れ、消えた。
寝室には、何事もなかったかのような静寂が戻る。
しかし、アルヴェインには分かっていた。
屋敷の奥に眠る扉は、まだ開いていない。
それでも確実に、何かが動き始めている。
そして、その動きはクロイゼル家の中だけで完結するものではなかった。




