第十四話 初めての一歩
第一章 神に忘れられた子
黒い外套の男が姿を消してから、三日が過ぎた。
クロイゼル公爵家では、表面上は何も変わらない日常が続いていた。
朝になれば使用人たちが屋敷を整え、騎士たちは訓練場で剣を振るう。
レオンハルトは毎日の鍛錬を欠かさず、セレスティアはアルヴェインの世話を楽しんでいた。
しかし、グレイヴだけは違った。
北方山脈の調査に加え、屋敷周辺の警戒を強化していたのだ。
あの男の正体は分からない。
侵入経路も、魔法の痕跡も残っていない。
ただ一つ確かなのは、男がアルヴェインを知っていたということだった。
「閣下、警備の配置変更が完了しました」
騎士団長が報告する。
「引き続き、屋敷への出入りを確認しろ。見慣れない人物がいれば、必ず私に報告するんだ」
「承知しました」
「それと、アルヴェインの周囲には常に誰かを置け。本人に気づかれない程度で構わん」
「かしこまりました」
グレイヴは窓の外を見た。
庭では、レオンハルトが木剣を振っている。
その姿を見ながら、彼は静かに呟いた。
「まだ幼いというのに……」
守るべきものが増えた。
そして、守るためには知らなければならないことも増えている。
◇
一方、アルヴェインは自室で新たな挑戦を始めていた。
(そろそろ、身体を鍛えるか)
この世界に生まれてから、何度も考えていたことだ。
前世の記憶があるとはいえ、今の身体は赤子そのもの。
知識があっても、身体が動かなければ何もできない。
アルヴェインはベッドの上で両手を握った。
指を一本ずつ動かす。
右手を持ち上げる。
左手も持ち上げる。
以前よりも動きは滑らかになっていた。
(悪くない)
しかし、身体を起こそうとすると、すぐに力が抜けてしまう。
「うぅ……」
思わず声が漏れる。
(くそ、思った以上に難しいな)
何度か挑戦する。
そのたびに身体が横へ傾き、ベッドへ倒れ込んだ。
赤子の身体は、想像以上に不自由だった。
それでも諦めるつもりはない。
今できることを積み重ねる。
それが、アルヴェインの決めたことだった。
◇
昼前。
セレスティアが部屋に入ってきた。
「アルヴェイン、今日はご機嫌ね」
彼女はベッドのそばに座る。
アルヴェインは両手を伸ばした。
「あら、抱っこしてほしいの?」
セレスティアが抱き上げようとした、そのときだった。
アルヴェインは彼女の服を掴もうと、身体を少しだけ前に傾けた。
その瞬間。
「……あら?」
セレスティアの手が止まる。
アルヴェインの身体が、ほんの一瞬だけ自分の力で起き上がっていた。
すぐに彼女の腕に支えられたものの、確かに自力で上半身を起こしたのだ。
「今、自分で起きたの?」
セレスティアの顔に笑みが広がる。
「すごいわ、アルヴェイン!」
彼女は嬉しそうに息子を抱きしめた。
(いや、まだ偶然に近いけどな)
アルヴェインは少し複雑な気持ちだった。
だが、母の喜ぶ姿を見ると、悪い気はしない。
「お父様にも教えてあげなくちゃ」
セレスティアはその日のうちにグレイヴへ伝えた。
◇
午後。
訓練を終えたレオンハルトが、アルヴェインの部屋へやってきた。
「アルヴェインが自分で起き上がったって本当?」
「ええ。ほんの少しだけどね」
セレスティアが答える。
「すごいな!」
レオンハルトはベッドのそばに座った。
「僕も見たい!」
彼はアルヴェインの前に手を差し出した。
「ほら、兄さんの指を掴んでみて」
アルヴェインはその指を見つめた。
そして、ゆっくりと手を伸ばす。
小さな指が、レオンハルトの人差し指に触れた。
握る。
「おお!」
レオンハルトが目を輝かせる。
「掴んだ!」
「ふふ。アルヴェインはお兄様が大好きなのね」
セレスティアが微笑む。
レオンハルトは少し照れながらも、嬉しそうだった。
「僕もアルヴェインが大好きだよ」
その言葉を聞きながら、アルヴェインは兄の指を握り続けた。
(いい兄貴だな、本当に)
◇
その夜。
アルヴェインは夢の中にいた。
いつもの白い空間。
だが、今回は以前とは違う光景が広がっていた。
目の前に、巨大な六角形の構造物が浮かんでいる。
六つの面には、それぞれ異なる模様が刻まれていた。
第一の面だけが淡く輝いている。
アルヴェインが近づくと、構造物の表面に文字が浮かんだ。
《第一の理:構成》
《基礎情報の取得を開始》
その瞬間、無数の線が視界を埋め尽くした。
線と線が交わり、形を作り、形が組み合わさって別の構造を生み出していく。
石。
水。
風。
炎。
植物。
生物。
それらすべてが、無数の構造によって成り立っているように見えた。
(これが……構成の理?)
『そうだ』
声が響いた。
以前の声とは違う。
低く、落ち着いた声だった。
『世界に存在するものは、すべて何らかの構造を持つ』
(魔法も同じなのか?)
『魔法は世界の構造を利用した技術の一つにすぎない』
アルヴェインは無数の線を見つめた。
『だが、構造を見ただけで世界を理解したと思うな』
その言葉に、アルヴェインは以前の警告を思い出した。
見ることと、理解することは違う。
理解することと、扱うことも違う。
『お前の眼は、まだ表面しか捉えていない』
(なら、どうすればいい?)
『観察しろ。比較しろ。そして、自分の頭で考えろ』
構造物がゆっくりと回転する。
『答えを与えられることに慣れるな』
その言葉を最後に、声は消えた。
◇
翌朝。
アルヴェインの視界に、表示が浮かんでいた。
《魔力視》
《習熟度:初期》
《解析率:0.07%》
《第一の理:構成》
《基礎構造情報:一部取得》
《理解度:不足》
数字はわずかに上昇していた。
しかし、それ以上に重要なのは、魔力視で見えるものが少し変わったことだった。
これまで魔力の流れとしてしか見えなかったものの奥に、形を作るための規則のようなものが見え始めている。
(少しずつ分かってきた気がする)
そのとき、扉の向こうから声がした。
「アルヴェイン、起きているか?」
グレイヴだった。
扉が開き、父が部屋に入ってくる。
「今日は少し様子を見に来た」
グレイヴはベッドのそばに立った。
アルヴェインは父を見上げる。
「最近、よく身体を動かしているそうだな」
セレスティアから聞いたのだろう。
グレイヴは小さく笑った。
「焦る必要はない。身体が育つのには時間がかかる」
そして、息子の小さな手を取った。
「だが、努力することは悪くない」
アルヴェインは父の指を握った。
グレイヴはその手を見つめた。
「強くなれ、アルヴェイン」
少し間を置いて、続ける。
「ただし、強さを求めるあまり、自分を壊すな」
その言葉は、厳しくも優しかった。
アルヴェインは父の顔を見つめる。
(分かってるよ、父さん)
今はまだ、何もできない。
だが、いつか必ず。
この家族を守れるだけの力を手に入れる。
そのための最初の一歩は、すでに始まっていた。




