第十三話 名を持たぬ訪問者
第一章 神に忘れられた子
翌朝。
アルヴェインは、いつもより早く目を覚ました。
昨夜の夢が、頭から離れない。
『誰かがお前を見つけても、決して自分から名を教えるな』
なぜ名前を知られることが危険なのか。
そもそも、世界の記録に名前が存在しない自分に、名前を尋ねる者などいるのだろうか。
(考えても答えは出ないか……)
アルヴェインは小さな手を動かした。
以前より指先に力が入るようになっている。
握ることも、少しずつ上手くなってきた。
この身体は確実に成長している。
焦る必要はない。
今は、できることを一つずつ増やしていくしかなかった。
「アルヴェイン、起きていたの?」
セレスティアが部屋に入ってきた。
彼女はベッドのそばに座り、アルヴェインの頬を優しく撫でる。
「今日はお兄様と一緒に朝食を食べるのよ。楽しみね」
(俺はまだミルクだけどな)
心の中で苦笑する。
セレスティアはそんなことを知るはずもなく、楽しそうに笑った。
「さあ、お着替えしましょうね」
いつもと変わらない朝。
その穏やかさが、今は何よりもありがたかった。
◇
午前。
クロイゼル公爵家の正門に、一台の馬車が到着した。
馬車に描かれているのは、ヴァルディア王国の王家の紋章。
門番たちは姿勢を正し、来訪者を迎えた。
馬車から降りてきたのは、王宮魔術師のローディスだった。
年齢は五十代半ば。
灰色の髪を後ろへ撫でつけ、落ち着いた表情をしている。
「グレイヴ公爵にお取次ぎを願いたい」
「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「王宮魔術師、ローディスだ。北方山脈の異変について、陛下から調査を命じられている」
門番はすぐに屋敷へ連絡を入れた。
◇
執務室。
グレイヴはローディスを迎え入れた。
「久しいな、ローディス」
「お久しぶりです、公爵閣下」
「王宮から直接来るとは、よほどのことか」
ローディスは一礼し、持参した書類を机に置いた。
「北方山脈で確認された石柱について、王宮でも調査を進めています」
「何か分かったのか?」
「残念ながら、確かなことは何も。ただ、王立魔術院の古文書に類似した記録がありました」
ローディスは一枚の紙を取り出した。
そこには、六角形の紋章と六本の柱が描かれている。
グレイヴの視線が鋭くなる。
「これは……」
「おそらく、同じ遺跡に関する記録です」
紙の下部には、古代文字が記されていた。
ローディスはその一部を指で示す。
「この文章だけは解読できました」
「何と書かれている?」
「第一封印が反応したとき、境界に異物が生じる。異物を見つけた者は、決してその名を呼んではならない」
室内に沈黙が落ちた。
グレイヴは紙を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……異物とは何だ」
「分かりません。ただ、王立魔術院では、世界の記録から外れた存在を指すのではないかと考えています」
「世界の記録から外れた存在……」
グレイヴの脳裏に、息子の姿が浮かんだ。
魔力を持たず、魔力反応も測定できないアルヴェイン。
そして、胸元に現れた六角形の紋章。
偶然で片づけるには、あまりにも一致する点が多すぎた。
「公爵閣下?」
「いや、続けてくれ」
グレイヴは表情を変えずに答えた。
ローディスは頷いた。
「王宮としては、北方山脈への調査隊を増派したいと考えています。ただし、遺跡の封印に関する知識が不足しています。クロイゼル家に残る古い記録を、確認させていただけないでしょうか」
グレイヴはすぐには答えなかった。
王宮に情報を渡すことはできる。
だが、アルヴェインに関する記録まで渡すわけにはいかない。
「北方の調査には協力する。ただし、我が家の記録については、内容を確認した上で判断させてもらう」
「承知しました」
ローディスはそれ以上追及しなかった。
しかし、彼の視線は一瞬だけ、机の上に置かれた古い紋章へ向けられていた。
◇
昼過ぎ。
アルヴェインの部屋に、レオンハルトがやってきた。
「アルヴェイン、今日は外に出てみないか?」
レオンハルトの後ろには、エリシアが控えている。
「庭までなら大丈夫だって、母上が言っていたよ」
(庭か。悪くない)
アルヴェインは声を上げた。
「行きたいの?」
エリシアが笑う。
「では、日差しが強くならないうちに行きましょう」
丁寧に抱き上げられ、部屋を出る。
廊下から中庭へ。
外の空気が肌に触れた。
柔らかな風。
草木の匂い。
そして、遠くから聞こえる訓練の音。
前世では当たり前だった外の景色も、この身体では何もかもが新鮮だった。
庭の一角には、小さな噴水がある。
以前、魔力の通り道が傷ついていることに気づいた場所だ。
修理された噴水は、今では安定して水を噴き上げていた。
(きちんと直っているな)
アルヴェインは噴水を眺めた。
すると、その向こう側に立つ人物が目に入った。
見慣れない男だった。
黒い外套を身につけ、庭の木々を眺めている。
屋敷の使用人でも、騎士でもない。
その男の周囲には、奇妙なことに魔力の流れが見えなかった。
いや、正確には違う。
魔力が存在しないのではない。
魔力の流れが、男の身体を避けているように見えた。
(何だ、あれは……)
アルヴェインが男を見つめる。
その瞬間、男の顔がこちらを向いた。
目が合った。
男は驚いた様子もなく、静かに微笑んだ。
「……見えているのか」
小さな声だった。
エリシアには聞こえていないらしい。
男は一歩、こちらへ近づいた。
「ずいぶんと早いな」
(誰だ?)
アルヴェインは警戒した。
そのとき、胸元の紋章が熱を帯びた。
《警告》
《外部接触を検出》
《対象:識別不能》
《世界記録:該当なし》
《注意:接触を回避してください》
(こいつも、世界の記録に存在しないのか?)
男はアルヴェインの胸元を見つめた。
そして、口を開いた。
「その印……まだ残っていたんだな」
エリシアが男の存在に気づいた。
「あの、どちら様でしょうか?」
男は彼女に視線を向ける。
「少し道に迷ってしまってね。屋敷の方に場所を尋ねようと思っていたんだ」
「それでしたら、私がご案内いたします」
「ありがとう」
男は微笑んだ。
だが、アルヴェインには分かった。
その笑顔は、エリシアに向けられたものではない。
男の意識は、ずっと自分に向けられている。
「それにしても……」
男は再びアルヴェインを見た。
「よく似ている」
(誰にだ?)
「いや、今はまだ言うべきではないか」
男は踵を返した。
エリシアが案内しようとした、そのときだった。
「待て」
背後から低い声が響いた。
グレイヴだった。
彼は男とアルヴェインの間に立つ。
「貴様、何者だ」
男は振り返った。
「ただの旅人ですよ」
「旅人が、許可もなく公爵家の庭にいる理由は何だ」
「門の者には話を通しました。王宮から来た魔術師殿に、少し用事がありましてね」
グレイヴの目が細くなる。
「ローディスに?」
「ええ。ですが、今はもう必要なくなりました」
男は軽く頭を下げた。
「失礼いたしました」
そのまま歩き出す。
グレイヴは追おうとしたが、男が庭の木々の陰に入った瞬間、その姿が消えた。
魔力の反応はない。
転移魔法の痕跡もない。
まるで、最初からそこに存在しなかったかのようだった。
「……閣下」
エリシアが不安そうに声をかける。
グレイヴは返事をせず、男が消えた場所を見つめていた。
そして、腕の中のアルヴェインへ視線を落とす。
アルヴェインは、父の顔を見上げた。
グレイヴはその小さな身体を見つめ、静かに言った。
「部屋へ戻るぞ」
◇
その夜。
グレイヴはアルヴェインの寝室にいた。
セレスティアとエリシアには、少しの間だけ席を外してもらっている。
「アルヴェイン」
まだ言葉を理解できる年齢ではない。
それでも、グレイヴは息子に話しかけた。
「今日の男を見たな」
アルヴェインは父の顔を見つめる。
「お前には、あの男がどう見えた?」
もちろん答えられない。
グレイヴは小さく息を吐いた。
「……分かるはずもないか」
彼は息子の胸元に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
触れていいものなのか、判断がつかなかったからだ。
そのとき、アルヴェインの胸元が淡く光った。
グレイヴの目が見開かれる。
六角形の紋章。
その中心に、一瞬だけ小さな文字が浮かんだ。
《識別要求:拒否》
そして、すぐに消えた。
グレイヴは息子を見つめたまま、動かなかった。
今日の男は、アルヴェインを知っていた。
そして、アルヴェインもまた、男の存在を認識していた。
偶然ではない。
これは、明確な接触だった。
グレイヴは息子をそっと抱き上げた。
「何があっても、お前は私の息子だ」
その声には、いつもの厳しさとは違う響きがあった。
「誰が何と言おうと、それだけは変わらん」
アルヴェインは父の胸に頬を寄せた。
その温もりを感じながら、心の中で誓う。
(俺も、家族を守る)
まだ歩くことさえできない。
魔法も使えない。
それでも、いつか必ず。
◇
同じ夜。
クロイゼル公爵家から遠く離れた北方山脈。
第一封印が解かれた遺跡の最奥で、黒い外套の男が立っていた。
その前には、巨大な扉。
六つの円のうち、一つが光っている。
男は扉に手を触れた。
「見つけたぞ」
その声に応えるように、扉の奥から低い振動が返ってくる。
「だが、まだ名を呼ぶことはできない」
男は手を離した。
「世界に記録されていない者。その存在を確かめるには、もう少し時間が必要だ」
暗闇の中で、男の輪郭が揺らぐ。
「待っていろ」
その言葉を最後に、男の姿は消えた。
遺跡には再び静寂が訪れる。
だが、扉の中央に刻まれた六角形だけは、以前よりも強く輝いていた。




