第3話 彼女の知らない香り
それは、冬休みを目前に控えた、ひどく冷え込む日のことだった。
いつものように西園寺家の重い玄関ドアを開けると、廊下には普段とは違う――ひどく甘い香りが漂っていた。
「お邪魔します……」
梨花の部屋に入ると、彼女は鏡に向かって髪をいじっていた。
いつもなら僕が来ても「遅いよ先生、やる気あるの?」と背中越しに毒づくはずの彼女が、今日は僕の存在にすら気づいていないようだった。
「……梨花ちゃん、その香水、どうしたの?」
僕が声をかけると、彼女はびくっとして肩を揺らし、慌てて小瓶を机の引き出しに隠した。
「な、何よ。先生、いつからそこにいたの? ……これ? 別に。ちょっと気分転換に変えてみただけ」
鏡越しに目が合う。
彼女の唇には、いつもより少し大人びた、艶やかなグロスが塗られていた。
その顔は、間違いなく「恋をしている女の子」のそれだった。
けれど、その視線の先に僕がいないことは、鈍感な僕にだって分かってしまう。
「……綺麗だね。似合ってるよ」
僕が精一杯の勇気を出して言った言葉は、梨花の耳には届かなかった。
「ねえ先生、男の人ってさ、どういう子が好きなのかな? ……あ、いや、一般的な話ね! 成宮君とか、そういう特定の誰かの話じゃないから!」
自分から名前を出しておいて、梨花は顔を赤くして言い繕った。
先週まで「アイツを屈服させてやる」と言っていた彼女の瞳から、攻撃的な色は消えていた。
代わりにあるのは、どうしようもないほどの「乙女心」だ。
「……さあ。人によると思うけど……。でも、梨花ちゃんは今のままでも十分魅力的だと思うよ」
「は? 何マジな顔して言ってんの。……キモいんだけど。先生の好みなんて聞いてないし」
いつもの暴言。
けれど、以前のような「照れ隠し」のニュアンスは感じられなかった。
今の彼女にとって、僕の言葉はただの「雑音」に過ぎないのだ。
勉強中も、彼女の手は止まったままだった。
何度もスマホを確認し、通知が来ていないことに溜息をつく。
そして時折、思い出したように成宮廉次について語り出す。
「アイツさ、私が新しい香水つけていっても、一言も感想くれないんだよ? 信じられる? ……でもね、一瞬だけ、鼻をピクってさせた気がするんだ。これって、脈ありかな?」
「どうだろうね……」
「絶対そうだよ! 私、決めた。次の休み時間、もう一回話しかけてみる。今度はもっと……その、女っぽい感じで」
梨花は自分の世界に没頭していた。
彼女が成宮のために努力すればするほど、彼女の成績は下がり、僕との会話は一方的な「成宮レポート」と化していく。
僕は彼女の合格を願っていた。
合格すれば付き合えるという、自分勝手な期待を抱いて。
けれど、目の前で着々と「別の男」の色に染まっていく梨花を見て、心臓を針で刺されるような痛みが走る。
「先生、応援してよね。私、絶対アイツを振り向かせてみせるから」
彼女の笑顔は、残酷なまでに美しかった。
僕はただ、「そうだね」と力なく笑い返すことしかできなかった。




