第2話 癪に障るアイツ
一週間後の家庭教師の日。
僕はいつもより少し念入りに髪を整え、西園寺家の門をくぐった。
先週の「付き合ってあげようか?」という言葉が、ずっと頭から離れない。
嘘だと笑われたけれど、あんな冗談が出るのは僕に心を許している証拠だ……そう自分に言い聞かせていた。
けれど、部屋に入った僕を迎えたのは、いつもの茶化すような笑顔ではなかった。
「……っ、もう! 本当になんなのアイツ!」
梨花は机に突っ伏したまま、手にしたシャーペンで消しゴムをガリガリと削っていた。
「……梨花ちゃん? どうしたの、そんなにイライラして」
僕が椅子に座っても、彼女はこちらを見ようともしない。
「ねえ先生、聞いてよ。私のクラスにさ、成宮廉次っていう、すっごく感じ悪い男がいるの」
成宮、廉次。
初めて聞く男の名前に、僕の胸がチクリと疼いた。
「成宮君……? その子が、何かしたの?」
「何もしないのよ! それがムカつくの!」
梨花は勢いよく顔を上げた。その瞳は怒りで潤んでいるようにも見えるが、どこか熱を帯びているようにも見えた。
「私さ、昨日、移動教室の時にちょっと話しかけてあげたの。そしたらアイツ、なんて言ったと思う? 『今、考え事をしてるから邪魔しないでくれるか』だって! 私に向かってよ!?」
「それは……まあ、人見知りな子なのかな」
「違う! 私のこと、完全に無視してるの。他の女子がキャーキャー言ってるからって、調子に乗ってるだけ。……あー、思い出しただけで腹が立つ!」
梨花は吐き捨てるように言うと、スマホの画面を強く叩いた。
画面には、おそらく彼女がSNSで見つけてきたのであろう、どこか冷めた目をした端正な少年の横顔が映っていた。
成宮廉次。
同じ男から見ても、彼が「平凡」な僕とは対極に位置する人間であることは一目で分かった。
「……そんなに嫌な奴なら、関わらない方がいいよ」
僕は努めて冷静に、優しく諭すように言った。
自分でも驚くほど、声が震えないように気を遣っていた。
「嫌な奴よ! 最悪! ……でもね、このままなのは絶対に許せない。私に見向きもしないなんて、そんなの、プライドが許さないもん」
梨花は不敵に笑った。
その笑顔は、僕に向けられるいつもの小悪魔的なものとは違い、もっと本能的で、激しい執着の色が混じっている。
「決めた。絶対に私に夢中にさせてやる。……あいつが、這いつくばって私に告白してくるまで、絶対にやめないんだから」
「梨花ちゃん、受験はどうするんだよ。今はそんなことより……」
「わかってるってば! だから、勉強は先生がしっかり教えてよね」
梨花はそう言って、ようやくテキストを開いた。
けれど、その視線はどこか遠くを、僕でも参考書でもない「誰か」を追っているようだった。
大丈夫だ、と僕は自分に言い聞かせる。
彼女が躍起になっているのは、ただの意地だ。あんなに生意気な彼女が、自分を無視する男に本気になるはずがない。
……そう。
彼女に「キモい」と言われながらも、毎週隣に座っていられるのは、世界で僕だけなのだから。
しかし、その日を境に、彼女の口から出る「成宮」という名前の頻度は、僕へのからかいを上回るようになっていった。




