第1話 先生、勘違いしないでよね
冬の気配が混じり始めた夕暮れ時。
西園寺家の子供部屋には、シャープペンシルが紙をなでる音と、時折聞こえる小さいため息だけが響いていた。
「……ねえ、鯉太郎先生」
沈黙を破ったのは、教え子の西園寺梨花だった。
彼女はテキストの上に肘をつき、栗色のポニーテールを揺らしながら、上目遣いで僕――板ノ上鯉太郎を見上げてくる。
「何かな、梨花ちゃん。今は数学の微分のところ、集中して」
「硬いこと言わないの。そんなんだから、モテないんだよ?」
梨花はクスクスと笑いながら、僕の顔を覗き込んできた。
彼女の大きな瞳に見つめられると、平凡な大学生である僕の心臓は、いつも情けないほど跳ね上がる。
「……別に、モテなくても困ってないよ」
「へぇー? じゃあさ、ぶっちゃけ聞くけど……先生って今、彼女いるの?」
唐突な質問に、僕は言葉に詰まった。
二十一年間の人生で、女性と交際した経験は一度もない。それを正直に言うのは、あまりにも格好がつかない気がして、僕は曖昧な愛想笑いを浮かべた。
「どうしてそんなこと聞くんだい?」
「あ、はぐらかした! それ、いないって証拠でしょ。やっぱりねー、いるわけないか」
梨花は愉快そうに椅子を揺らす。
そして、僕にしか聞こえないような甘いささやき声で、さらに言葉を重ねた。
「……そんなにモテないならさ。私が、付き合ってあげようか?」
ドクン、と心臓が鳴った。
梨花の白い肌が、照明の下で柔らかく光っている。
冗談だとは分かっていても、淡い期待が僕の脳内を埋め尽くしていく。
もしかして、彼女は本当に僕のことを――。
「えっ、あ、それは……」
僕が真剣に答えようとした、その瞬間。
「やだ、本気にしないでよ! マジキモいんだけど!」
梨花は一転して、顔をくしゃくしゃにして大笑いした。
「嘘に決まってるでしょ? あはは! 先生の今の顔、写真撮っておけばよかった!」
「……っ。ひどいよ、梨花ちゃん」
「バカだなぁ、先生は。からかってるだけだって。ほら、勉強しよ! 先生がモタモタしてるから終わらないんだよ」
彼女はケロリとしてテキストに目を戻した。
手ひどい拒絶。
普通なら落ち込む場面かもしれない。
けれど、モテたことのない僕にとって、彼女のその毒のある言葉さえ、特別な親密さの証に思えてしまったのだ。
(今はあんな風に言っているけど……あんな質問をするってことは、少しは意識してくれてるんじゃないかな)
僕は密かに決意を固める。
春が来て、彼女が志望校に合格したその日。
僕は、この勘違いを現実に変えてみせる。
その時の僕はまだ、彼女の心に住み着こうとしている「別の影」の存在を、微塵も知らなかった。




