第3話 深夜の油煙
梅雨最中の激しい雨が、工場のトタン屋根を容赦なく叩きつけていた。
バケツをひっくり返したような水音が、昼間の機械の轟音に代わって、敷地全体の虚無を埋め尽くしている。
時計の針は午後九時を回っていた。
他の職人たちはとっくに帰路につき、工場内は完全に消灯している。
僕は一人、作業場に残って明日のロットのための鋳型の最終チェックを終え、手についた黒い油汚れを洗剤で削り落とした。
あとは事務所に戻り、日報を揃えて鍵を閉めるだけだった。
傘をさすまでもない短い距離を、雨に濡れながら歩き、プレハブ造りの事務所へと向かう。
無人のはずの建物。
だが、入り口のドアノブに手をかけた瞬間、僕は奇妙な違和感に動きを止めた。
鍵が、開いている。
大野社長は夕方に退社したはずだ。
泥棒だろうか。
僕は息を殺し、音を立てずにドアを数センチだけ押し開けた。
事務所の中は薄暗かった。
事務机の上の蛍光灯は消えていたが、奥にある応接用のソファのあたりだけが、窓外の街灯の光を反射してぼんやりと浮かび上がっている。
その暗がりの奥から、雨音に混じって、奇妙な「音」が聞こえてきた。
――ひゅう、と喉を鳴らすような、生々しく、熱い呼吸の乱れ。
僕はその場に縫い付けられた。
防衛本能が「これ以上進むな」と脳内で警報を鳴らしているのに、僕の足は、吸い寄せられるように暗闇の隙間へと一歩を踏み出してしまっていた。
本棚の影から覗き見た、その光景。
それは、僕の構築した「無風の世界」を、根底から爆破するのに十分な破壊力を持っていた。
「……あっ、う、ん……竜二……っ」
応接用ソファに押し付けられ、激しく身体を震わせていたのは、僕の妻である大野結衣だった。
家ではいつも俯き、僕と視線を合わせることさえ怯えていた従順な彼女が、今は見たこともないほど情熱的な、淫らな声を漏らしている。
その白い細腕は、彼女の作業着を剥ぎ取っている男の背中に、引きちぎらんばかりに回されていた。
男の背中には、見覚えがあった。
入社三年目の優秀な若手職人――
新谷竜二。
新谷は飢えた獣のように結衣の唇を貪り、彼女の肉体に自らの欲望を叩きつけていた。
「結衣……結衣……っ。ごめん、こんな、親父さんの工場の中で……」
「いいの……いいのよ、竜二……。私には、あなたしかいないの。あんな、機械みたいな人と、毎日同じ家にいるだけで、頭がおかしくなりそうなの……っ」
結衣の声は、涙に濡れていた。
それは裏切りというより、強引に引き裂かれた恋人たちが、命がけで互いの存在を確かめ合っているかのような、悲痛なまでの純愛の響きを持っていた。
「俺が……俺がもっと早く一人前の職人になって、親父さんに認められていれば、お前をあんな奴に渡さずに済んだのに……っ!」
「新谷君のせいじゃないわ……。お父さんが、勝手にあの人を気に入って、強引に進めちゃったから……。高校の時から、ずっと一緒だったのにね……っ」
二人の密やかな会話が、雨音を突き抜けて僕の耳に届く。
そこで初めて、僕はすべてのパズルが組み合わさるのを感じた。
新谷が僕に向ける、あの鋭い憎悪の眼差し。結衣が僕に見せていた、あの絶望的な沈黙。
二人は、僕が出会う遥か前――
高校生の時から深く愛し合っていたのだ。
新谷はこの工場に、結衣を迎えに来るために、真面目に三年間働いていた。
それを、大野社長が僕の「愚直さ」を勝手に気に入り、強引に僕との政略結婚を決めてしまった。
彼らにとって、僕は自分たちの純真な愛を金と権力で踏みにじった、最悪の闖入者だったのだ。
結婚してからも、二人の関係はずっと続いていた。
途切れたことなど、最初から一度もなかったのだ。
ドクン、と、胸の奥が激しく脈打った。
凄まじい、鋭い痛みが走る。
(なぜだ……?)
僕は動揺した。呼吸の仕方を忘れたように、胸が苦しい。
おかしいじゃないか。
僕は彼女を愛していない。
この結婚はただの『ビジネスとしての契約』だと、自分に言い聞かせて割り切っていたはずだ。愛がないのだから、裏切られたって、誰と寝ていたって、僕の心は傷つかないはずだった。
なのに、どうしてこんなに血が流れているような痛みがするんだ。
西園寺梨花に振られた時とも、高校生の時にバックステージで瀬戸先輩の情事を見た時とも違う。
それは、感情をすべて捨て去り、機械として十年間完璧に生きてきたつもりの自分が、結局はただの「都合のいい操り人形」であり、他人の人生の舞台装置に過ぎなかったという、圧倒的な惨めさから来る痛みだった。
僕は、裏切られないために感情を捨てたつもりで、その実、最も残酷な形で裏切られる舞台を、自らの手で整えてしまっていたのだ。
「……は、あ……っ、竜二……愛してる……っ」
暗闇の中で、二人の肉体が再び激しく重なり合う音が響く。
僕は、叫び声を上げそうになる口を、自分の油臭い手で強く塞いだ。
彼らを糾弾するか?
ここに踏み込んで、社長の娘としての不貞を責め立てるか?
――いや、できない。
ここで声を上げれば、この工場での僕の十年間はどうなる。
社長の後継者という、僕の唯一の居場所はどうなる。
波風を立てれば、この冷え切った『契約』すらも崩壊し、僕は再び、あの生きる屍のような路上へと放り出されることになる。
これ以上、何も失いたくない。
これ以上、傷つきたくない。
僕は静かに、本当に音もなく、開けたばかりの扉を閉めた。
カチリ、というラッチの音さえ、激しい雨音が消し去ってくれた。
事務所に背を向け、僕は傘もささずに、土砂降りの雨の中へと歩き出した。
冷たい雨水が髪を濡らし、作業着を重く湿らせていく。
見て見ぬふりをしよう。
何も見なかった。
何も聞かなかった。
そうやって心のシャッターを二重にも三重にも閉ざし、僕は夜の闇へと溶けていく。
ただ、胸の奥に突き刺さった錆びたナイフのような痛みだけが、雨の冷たさの中でも、いつまでも嫌な熱を持って疼き続けていた。




