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生意気な教え子が、僕の知らない男に「躾けられる」まで――勘違い家庭教師の終わった春――  作者: 猫野 にくきゅう
第五章 社会人編

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第2話 噛み合わない歯車

 大野結衣との新婚生活は、僕が望んだ通り、驚くほど静かに始まった。

 

 工場の近くに借りた小さなアパート。

 夕方、僕が仕事を終えて帰宅すると、食卓には温かい味噌汁と、型通りに焼かれた魚が並んでいる。


 結衣は僕が「ただいま」と言えば、「おかえりなさい」とだけ返し、それ以上の会話を求めてくることはなかった。

 彼女の瞳はいつもどこか遠くを見ていて、僕と視線が合うことは稀だった。だが、それで良かった。

 

 言葉を交わさなければ、嘘を吐かれることもない。

 互いに愛していなければ、裏切られて絶望することもない。

 

 僕にとってこの家庭は、暖かさを排した、完璧に管理された温室のようなものだった。

 愛のない政略結婚という名の契約は、僕にこれまでにない絶対的な安心感を与えてくれていた。


 僕はその安心感を背負い、これまで以上に工場の仕事へと邁進した。

 社長も「婿養子が来てから工場がますます引き締まった」と、周囲の従業員に自慢しているらしかった。

 

 工場の歯車は、僕を中心に正確に、そして無風の中に回っているはずだった。

 あの、微かな不協和音を耳にするまでは。

 

 それは、入社三年目の若手職人であり、結衣と同い年でもある新谷竜二の、ほんの些細な変化から始まった。


 新谷は元々口数の少ない男だったが、僕と結衣が結婚してからは、さらにその頑なさに拍車がかかっていた。


 現場での指示に対しても、「分かりました」とだけ低く答え、僕の目を決して見ようとしない。僕はそれを、若い職人が次期社長である僕に対して抱く、年相応の反発や気後れだろうと解釈していた。

 

 だが、その解釈がただの「見たいものだけを見る傲慢」であったと気づかされる瞬間が訪れる。

 

 夏の足音が聞こえ始めたある日の午後。

 大野社長が持病の腰痛で急遽病院へ向かったため、結衣が代わりに社長の印鑑と書類を工場へ届けに来た。


 油煙が立ち込める薄暗い作業場に、白いワンピースを着た結衣が現れる。

 その場にいた何人かのベテラン職人が「よお、お嬢、いや、若奥さんか!」と冷やかす中、彼女はただ小さく一礼し、足早に僕のいる事務所へと向かおうとした。

 

 その途中、彼女の足が、溶接機の火花が散る手前で、ぴたりと止まった。

 その視線の先にいたのは、汗に塗れて鉄パイプを運んでいた新谷だった。

 

 二人は、言葉を交わさなかった。

 時間にして、わずか二秒か三秒のことだったと思う。


 けれど、その瞬間に二人の間に流れた「沈黙」の重さに、僕は書類をめくる手を止めていた。

 

 新谷の、怒りと悲しみが限界まで張り詰めたような、鋭い眼差し。

 結衣の、今にも泣き崩れそうな、けれど何かに縋り付くような、湿った瞳。


 二人の視線は、空間を飛び越えて濃密に絡み合い、互いの存在を確かめ合うように深く突き刺さっていた。


 それは、ただの幼馴染や同僚に向けるものなどでは到底なかった。

 もっと生々しく、もっと特権的で、僕という存在をその場から完全に消し去ってしまうほどの、排他的な世界がそこにはあった。

 

 ドクン、と、僕の心臓が不快な脈動を刻んだ。

 

 冷や汗が背中を伝う。

 脳裏に、凄まじい勢いで「過去の光景」がフラッシュバックした。


 ――中学校の、あの放課後の図書室。

 静寂の中で、僕の知らないところで密かに通じ合っていた、内海詩織と荒木の気配。


 自分だけが世界の蚊帳の外に置かれ、信じていた絆が、自分の見えない裏側で音もなく腐敗していった、あの時の息苦しさ。


 あの時と全く同じ、胸が熱くなるような、吐き気を催すほどの「既視感」が、この町工場の油の匂いの中で蘇ってきた。

 

 (いや、待て)

 

 僕は机の下で、拳を強く握りしめた。


 あいつらは、僕が出会う前から知り合いだったんだ。

 同い年だし、高校も一緒だったのかもしれない。何か、僕の知らない過去の確執や、僕には関係のない感情の残り香があるのだろう。

 

 そして、何より――。

 

 (僕には、関係のないことだ)

 

 僕は深く息を吐き出し、脳裏に灯った警告灯を、力任せに叩き潰した。


 そうだ。

 僕は彼女を愛していない。


 彼女が僕以外の誰にどんな視線を送ろうが、どんな過去を持っていようが、僕の平穏には傷一つ付かない。この結婚はただの『契約』であり、僕は工場の後継者という地位を手に入れたに過ぎないのだから。

 

「結衣、書類はそこへ置いておいてくれ」

 

 僕はわざと事務的な、冷たい声を響かせた。


 結衣はハッと我に返ったように肩を震わせ、「……はい」とだけ蚊の鳴くような声で言って、書類を机に置いた。

 彼女の指先が、微かに震えているのが見えた。


 新谷はすでに背を向け、激しい音を立てて鉄を叩き始めていた。

 その背中には、隠しきれない激情が、重い鉄の火花となって飛び散っているようだった。

 

 僕は二人の背中を見送りながら、自分の心のシャッターを、カチリ、と完全に下ろした。


 見ない。聞かない。疑わない。

 愛を捨てた僕の城は、これで完璧に守られるはずだった。


 その城の地下で、すでに導火線に火が点いていることなど、僕はあえて気づかない振りを決め込んだ。

 

 工場の歯車は、再び無機質な音を立てて回り出す。

 噛み合わない歯車が、互いの肉を削り合いながら、静かに破滅へと回転していることも知らずに。

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