第1話 無風の鋳造所
鉄を溶かす熱気と、煤けた機械油の匂い。
それだけが、僕の呼吸を許された世界のすべてだった。
西園寺梨花への、あの身を焦がすような恋が、灰にさえなれずに惨めに砕け散ってから、僕の時間は止まった。
大学を辞め、生きる気力を失い、ただ死ぬまでの時間を潰すためだけに流れ着いたのが、この地元の小さな鋳造工場だった。
言葉は嘘をつく。沈黙は裏切る。美しさは泥に塗れる。
三度の崩壊を経て、僕はひとつの究極的な結論に達していた。
――人間に感情など不要だ。
特に、恋愛というバカげた病は、人生を破滅させる劇薬でしかない。
だから僕は、機械になることを選んだ。
毎朝午前七時五十分にタイムカードを押し、作業着に袖を通し、正確な角度で鋳型に砂を詰め、溶融した金属を流し込む。
感情を捨て、ただ目の前の作業に没頭する日々に、苦痛はなかった。
むしろ、何も期待せず、誰とも深く関わらないこの無風の世界こそが、僕にとっての唯一のシェルターだった。
* * *
気づけば、十年という歳月が流れていた。
二十代のすべてを、僕は鉄の粉に塗れて過ごした。
その間に、工場にもいくつかの変化があった。最大の変化は、三年前に入社してきた新谷竜二という男の存在だった。
新谷は僕よりいくつか年下の、若く優秀な職人だった。
不器用で口数は少ないが、金属の温度を見極める目に関しては天才的なものを持っていた。
「板ノ上さん、次のロットの鋳型、確認お願いします」
「ああ、問題ない。そのまま進めてくれ」
僕と新谷の会話は、常に業務上の最低限のものに限られていた。
彼は社長の娘である大野結衣と同い年らしく、時折、工場に差し入れを持ってくる彼女と、親の目を盗むようにして親しげに話している姿を見かけることがあった。
だが、僕はそれに関心を持たなかった。
幼馴染か何かなのだろう。
他人の人間関係など、僕の平穏な「機械としての日常」には一滴のノイズにもなり得なかった。
変化が訪れたのは、梅雨の気配が近づくある日の放課後――
いや、終業後のことだった。
「板ノ上、ちょっと事務所へ来てくれんか」
叩き上げの頑固親父である大野社長に呼ばれ、僕は油を拭った手で事務所の重い扉を開けた。
部屋には、社長と、そして少し俯いた姿勢の娘の結衣が座っていた。
結衣は大人しく、父親の言うことには決して逆らわない、絵に描いたような深窓の令嬢といった佇まいだった。ただ、その白い指先が、膝の上で不自然なほど強く握りしめられているのが目に入った。
「お前がうちに来て、もう十年になるな」
社長は湯呑みを置き、真っ直ぐに僕を見た。
「お前の働きぶりは、誰よりも愚直だ。文句も言わず、サボりもせず、ただひたすらに工場を支えてくれた。俺ももうガタがきている。どうだ、板ノ上。結衣と結婚して、この工場を俺の跡継ぎとして引き受けてくれんか」
唐突な提案だった。
普通の男なら、社長の娘との玉の輿に狂喜するか、あるいはあまりの責任の重さに怯えるだろう。
けれど、僕の心は、凪いだ水面のように一滴の波紋も立たなかった。
結衣の方を盗み見る。
彼女は微かに唇を震わせ、僕ではなく、窓の外の工場の方をじっと見つめていた。
そこには、まだ居残って機械の手入れをしている新谷の影があるはずだった。
彼女のその態度に、僕は「なるほど」と納得した。
彼女もまた、この厳格な父親の命令を拒絶できない操り人形なのだ。
この結婚に、愛など存在しない。あるのは「工場の存続」という社長の願いと、「生活の安定」という利害の冷徹な一致だけだ。
(愛がない。それは、素晴らしいことだ)
胸の奥で、奇妙な安堵感が広がっていく。
お互いに愛していない。
恋焦がれてもいない。
ということは、裏切られることも、絶望することもないということだ。
これは人生における、最も安全で、最も効率的な『政略結婚という名の契約』だ。
「わかりました。僕で良ければ、お受けします」
僕の淡々とした返答に、社長は「そうか!」と破顔し、僕の肩を力強く叩いた。
その傍らで、結衣が小さく、絶望を押し殺すような息を漏らしたのを、僕は知っていた。彼女には同情するが、僕の知ったことではない。僕たちはただ、同じ船に乗るだけのビジネスパートナーになればいいのだ。
こうして、僕の社会人としての生活は、新たな「契約」によって強固に固定された。
愛を捨てた僕に、もう失うものなど何もない。
工場の煙突から吐き出される黒い煙が、夕暮れの空を無機質に汚していくのを、僕はただ冷めた目で見つめていた。




