第4話 終演後のカーテンコール
舞台裏を覆う重い暗幕は、光も、希望も、そして僕が信じてきた「世界の秩序」さえも、すべてを飲み込む死装束のようだった。
指先に残るデルフィニウムの花びらの冷たさが、今の僕に残された現実だった。
僕は暗幕の影で、息を殺して立ち尽くしていた。
(違う。これは、何かの間違いだ)
脳が理解を拒絶している。
けれど、隙間から漏れ出る「音」は、僕の鼓膜を容赦なく蹂躙した。
そこには、吹奏楽部の誇りであり、僕が聖域の守護者として崇めていた瀬戸遥先輩の、変わり果てた姿があった。
凛とした背筋を伸ばし、銀のフルートを構えていたあの姿はどこにもない。
彼女は機材庫の埃っぽい壁に背を預け、荒々しく肩を上下させていた。
佐伯の逞しい腕が彼女の細い腰を強引に抱き寄せ、唇が彼女の白い首筋に深く沈み込む。
「……あ、っ……んん……っ!」
僕に向けたことのない、熱を帯びた、湿り気のある声。
彼女の指先は、僕が丁寧に調整した譜面台ではなく、佐伯の乱れた制服のシャツを必死に掴んでいた。
「おい、瀬戸先輩。今日の演奏、最高だったぜ。特にあのソロ。あんなの見せられたら、こっちも我慢できねーよ」
佐伯は嘲笑を交えた声で囁き、彼女の太腿に手をかけた。
「……やめて……誰か、来る……っ。板ノ上君が……あの子、今頃……私を、探して……」
先輩が僕の名前を呼んだ。
その瞬間、僕の胸にわずかな期待が芽生える。
彼女は僕のことを考えてくれている。
彼女はこの状況を拒んでいる。
だが、佐伯の次の言葉が、その浅ましい希望を根こそぎ刈り取った。
「ああ、あの『手伝い』か? あいつなら、俺がちゃんと仕込んでおいたぜ。先輩が練習に集中できるように、雑用を全部押し付けてな。……便利だろ? あいつのおかげで、俺たちはこうして二人きりで楽しめてるわけだ」
佐伯は僕の方を向いているわけではないのに、その言葉は毒矢となって僕の心臓を射抜いた。
「お前のために、ちょうどいい『駒』を連れてきてやったろ? 感謝しろよな」
「……佐伯君、最低……っ。……クラスメイトのことを、そんな風に言うなんてっ……っ、ああ……っ!」
先輩は、口では拒絶しながらも、佐伯の強引な愛撫に抗うことはなかった。
むしろ、背徳感が彼女の神経を狂わせているのか、その瞳は次第にうっとりと蕩け、さらなる快楽を求めて佐伯の首に自分からしがみついた。
「……もっと……もっと強く……して……っ」
その一言が、僕の世界を完全に終わらせた。
僕が支えていた「美しい音」。
僕が奉仕していた「清らかな秩序」。
その正体は、獣のような情動に塗りつぶされた、ただの「メス」の鳴き声だったのだ。
彼女が音を出すために僕が磨いた椅子。
彼女が楽譜を見るために僕が調整した譜面台。
それらはすべて、彼女が佐伯と交わり、この快楽に身を委ねるための、最高な『前戯』を整えてやるための道具に過ぎなかった。
僕は、彼女に選ばれたのではない。
佐伯という強者が、自分たちの愛欲をより甘美なものにするために用意した、無知で愚かな「観客」に過ぎなかったのだ。
手元に抱えていた花束が、指先から滑り落ちた。
コンクリートの床に叩きつけられたカサブランカは、鈍い音を立てて花びらを散らした。
(ああ……そうか。全部、無駄だったんだ)
言葉も、沈黙も、そしてこの身を削るような献身でさえも、この「残酷な熱狂」の前では、ゴミ屑ほどの価値もない。
僕は暗幕をそっと戻し、音もなくそこを立ち去った。
背後からは、まだ彼女の情欲に満ちた声と、佐伯の勝ち誇ったような荒い息遣いが追いかけてくる。
体育館からは、文化祭のフィナーレを告げる華やかな吹奏楽の合奏が聞こえてきた。
けれど、その音の中に、あの清らかなフルートの音色は、もうどこにも存在しなかった。
廊下に落ちる僕の影は、引き摺るように長く、歪んでいた。
三度目の崩壊。
僕の心には、もう悲しみさえ湧かなかった。
ただ、凍てつくような冷たさと、人間という生き物に対する、底知れない嫌悪だけが、静かに、確実に根を張っていた。
終演を告げるカーテンコールが響く中、僕は一人、真っ暗な校門へと歩き出した。
僕の青春は、今、完全に幕を下ろしたのだ。




