第3話 不協和音の幕開け
体育館を揺らした最後の残響が、ゆっくりと天井へと消えていく。
一瞬の静寂の後、爆発したような拍手と歓声。
スポットライトを浴びて一礼する瀬戸遥先輩の姿は、僕の目には神々しい女神のように映っていた。
彼女の指先に握られた銀色のフルートは、激しい演奏を終えてなお、勝利の勲章のように鈍い光を放っている。
大成功だ。
彼女の音は完璧だった。僕が調整した譜面台も、僕が磨き上げた椅子も、すべてが彼女の翼を支えるための欠かせないパーツとして機能したのだ。
(今なら、言える)
僕はステージ脇の暗い袖口で、大切に抱えていた花束を握りしめた。
花屋で一番、彼女の透明感に似合うものを選んだ。
白いカサブランカと淡いブルーのデルフィニウム。その隙間には、昨夜一晩かけて書き上げた手紙を忍ばせてある。
言葉は嘘をつく。
けれど、音楽という共通言語を経て通じ合った今の僕たちなら、この言葉に真実を宿すことができるはずだ。
「お疲れさま、みんな! 最高だったぞ!」
部長の大きな声が聞こえ、部員たちが次々とステージからバックステージへと戻ってくる。
興奮で顔を上気させ、互いの健闘を称え合う部員たち。
僕はその人混みを縫うようにして、遥先輩を探した。
だが、見当たらない。
フルートパートの後輩たちは「瀬戸先輩? さっき楽器を片付けに機材庫の方へ行きましたよ」と、忙しそうに答えてくれた。
僕は、体育館の裏手に位置する、古びた機材搬入用の廊下へと向かった。
ここは文化祭の喧騒から切り離された、冷たいコンクリートの世界だ。
重い機材を運ぶために厚手の暗幕が何重にも垂れ下がり、視界を遮っている。
ふと、足を止めた。
いつもなら、僕と一緒に機材を運ぶはずの佐伯健斗の姿がないことに気づいたからだ。
「佐伯……?」
呼んでみたが、返事はない。
代わりに聞こえてきたのは、遠くの体育館から響く軽音楽部のベースの重低音と、それとは全く別の、不自然に籠もった「音」だった。
――ガタッ。
何か重いものが、機材庫の壁にぶつかる音。
僕は不吉な予感に胸を締め付けられた。
もしかして、遥先輩が楽器を運ぶ途中に転倒したのではないか。あるいは、重いアンプの下敷きにでもなったのではないか。
僕は焦り、暗幕をかき分けて機材庫の奥へと踏み込んだ。
そこは、薄暗い電球ひとつだけが灯る、埃っぽい空間だった。
積み上げられた折り畳み椅子と、大きなバスドラムのケースが迷路のように入り組んでいる。
その最奥。
大型アンプを覆うビニールシートの影で、僕は「それ」を見た。
「……っ、ふ……あ……っ」
耳を疑った。
その声は、つい数分前まで、体育館であれほど清らかで孤高な旋律を奏でていた、瀬戸遥先輩のものだった。
けれど、今の彼女から漏れる「音」には、あの誠実な調和など微塵も残っていなかった。
熱く、湿り気を帯び、剥き出しの欲望に突き動かされた、動物的な喘ぎ。
「……いいだろ? 最高に気持ちいい音、出してるぜ、先輩」
聞き慣れた、憎たらしいほど快活な声。
佐伯だ。
彼は機材庫の壁に先輩を押し付け、スカートを乱暴に捲り上げている。
先輩の両手は、彼の逞しい肩にしがみつき、爪を立てていた。
あの、僕が心酔した繊細な指先が、今は彼を求めて必死に蠢いている。
「……だめ……こんなところで……誰か……っ、板ノ上君が……来ちゃう……っ」
僕の名前が出た。
心臓が凍りつく。助けなきゃ。声をかけなきゃ。
だが、続く彼女の声が、僕の全ての機能を破壊した。
「……ああ……っ、でも……見られてると思うと……もっと……熱く、なっちゃう……っ」
先輩は、泣き出しそうな顔をしながら、恍惚とした表情で佐伯の首筋に顔を埋めた。
佐伯は勝ち誇ったような笑い声を上げ、さらに激しく彼女を求めた。
(嘘だ)
僕が守り抜こうとした、あの美しさは。
僕が一生を捧げてもいいとさえ思った、あの完璧な秩序は。
今、僕の目の前で、最も無神経で下俗な男の手によって、文字通り「蹂躙」されている。
いや、蹂躙されているのではない。
彼女は、望んで、この不協和音の中に身を投じているのだ。
祝祭の喧騒を切り裂く、生々しい肉体のぶつかり合う音。
僕の腕の中で、カサブランカの花が握りつぶされ、強い香りが立ち上った。
その香りは、今、この閉ざされた空間を満たしている、汗と情欲の匂いと混ざり合い、僕の胃の腑を猛烈に掻き回した。
僕は、声も出せずに、ただ崩れ落ちる。
僕の手元に残ったのは、誰にも届くことのない手紙と、無残に折れた花びらだけだった。
不協和音。
僕の人生という楽譜は、今、決定的な誤植によって、修復不可能なほどに引き裂かれた。




