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生意気な教え子が、僕の知らない男に「躾けられる」まで――勘違い家庭教師の終わった春――  作者: 猫野 にくきゅう
第五章 社会人編

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第4話 まな板の上の覚醒

 あの激しい雨の夜から、数ヶ月の時が流れた。

 

 季節は巡り、工場のトタン屋根を叩くのは冷たい木枯らしへと変わっていた。

 あの日、仕事終わりの事務所で目撃した剥き出しの情事は、僕の記憶の最も深い底へと沈められ、重いコンクリートで蓋をされていた。

 

 僕は相変わらず、機械のように正確にタイムカードを押し、油に塗れて鉄を鋳ていた。


 新谷竜二は、以前にも増して僕の目を避けるようになったが、仕事での連携に支障はなかった。彼は相変わらず優秀な職人であり、僕は相変わらず大野社長の信頼厚き後継者だった。


 家庭でも、僕と結衣は絵に描いたような「静かな夫婦」を演じ続けていた。

 彼女が差し出す型通りの夕食を口にし、当たり障りのない天気の話をする。


 見て見ぬふりをする。


 それは僕にとって、それほど難しいことではなかった。

 感情のスイッチを切りさえすれば、世界はこれ以上ないほど滑らかに回っていくのだから。

 

 だが、その偽りの平穏に、決定的な「波紋」が広がる夜が訪れた。

 

 冷え込みの激しい十一月の夜だった。


 いつものように無言の夕食を終え、結衣が湯呑みを片付けようとした時、その手が不自然に止まった。彼女は自分の膝の上で十本の指を固く絡め合わせ、長い沈黙の後、絞り出すような声を上げた。

 

「……あの、板ノ上さん。お話が、あります」

 

 彼女は僕を、決して名前では呼ばない。

 いつも「板ノ上さん」という、他人のような苗字で呼ぶ。


「どうしたんだい」


 僕は新聞から目を離し、穏やかな声を返した。


 結衣はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳を見た瞬間、僕の背筋に微かな緊張が走った。


 そこには、明確な『怯え』があった。


 不倫現場を見られたかもしれないという恐怖、あるいはこれから告げる真実への恐れ。だが、その怯えのすぐ裏側には、僕の反応をじっと値踏みするような、鋭く、夫を試すような光が混在していた。

 

「子供が、できました。……お医者様から、そう言われました」

 

 部屋の古びた時計が刻む秒針の音が、急に大きく聞こえたような気がした。


 子供。

 結衣のお腹の中に、新しい命が宿った。

 

 その事実を脳が処理した瞬間、僕の思考回路は、極めて冷静に確率の計算を始めていた。


 ――それは、誰の子だ?


 僕の血を引いているのか。それとも――

 あの雨の夜に彼女を激しく貪っていた、新谷竜二の血を引いているのか。

 

 僕たち夫婦の間に、夜の営みがなかったわけではない。


 形ばかりの義務として、月に数回、互いに肌を合わせることはあった。

 だが、彼女が新谷とどれほどの頻度で交わっていたかを考えれば、確率はきれいに二分の一だった。


 確かめる術はない。

 いや、確かめたくもなかった。

 

 結衣は、僕の唇がどんな言葉を紡ぐのかを、息を詰めて待っていた。


 もし僕がここで「本当に僕の子供か?」と疑えば、彼女は泣き崩れるだろうか。 

 それとも、すべてが破綻したことを悟って開き直るだろうか。


 彼女の瞳の中の「試すような光」は、僕がどこまで気づいているのか、僕がこの裏切りをどう処理するのかを、冷酷に見極めようとしていた。

 

 普通の男なら、ここで激昂する。

 妻を糾弾し、真実を暴き、新谷を工場から叩き出すために狂い回るだろう。


 けれど、僕の心に湧き上がってきたのは、怒りではなかった。 


 名状し難い、泥のような諦念だった。

 

 振り返れば、僕の人生はいつもそうだった。

 小学校の時も、中学校の図書室でも、高校のバックステージでも。


 僕はいつも、自分が正しいと信じた聖域を、他人の生々しい欲望によって奪われ、踏みにじられ続けてきた。そのたびに血を流し、のたうち回り、最終的に感情を捨てることでしか生き延びられなかった。

 

 今更、何を怒ることがあるだろう。


 真実を暴いて、何になる。

 お腹の子が新谷の子だと証明して、結衣と離婚し、工場での地位を失い、またあの虚無の路上へと戻るのか?


 そんなことは、僕のプライドが許さないのではない。


 この痛みから目を背けることを止め、あるがままを受け入れることにしたのだ。


 僕は悟った。

 痛みとは、快楽でもあるのだと。


 これまでは、それを認めることができなかった。

 だから必死に否定し、無駄にあがいてきた。

 心を無にして、傷つくまいとし、その結果として、最後に特大のダメージを負ってしまった。


 けれど、この痛みを、最高の快楽として受け入れてあげることができれば――


「そうか」


 気がつけば、僕は微笑んでいた。

 自分でも驚くほど、穏やかで、優しい微笑みだった。


「それは、良かった。嬉しいよ、結衣」


 結衣の目が見開かれた。


 彼女の瞳の中にあった「試すような光」が、困惑と、得体の知れないものを見る恐怖へと一瞬で塗り替えられていく。

 彼女は、僕の異常なまでの受容を恐れたのかもしれなかった。


 しかし、それは僕にとって、もはやどうでもいいことだった。


「大切に育てよう。僕たちの子供なんだから。明日、社長にも報告しなきゃね。きっと喜んでくれる」


 僕がそう言うと、結衣は幽霊でも見たかのような顔で「……はい」とだけ呟き、深く頭を垂れた。

 その肩が、微かに震えている。


 これでいい。

 これで、すべては丸く収まる。


 大野社長は初孫の誕生に狂喜し、僕を名実ともに後継者として確信するだろう。


 新谷は、自分が愛した女に、自分の子供かもしれない命を宿らせたのだ。

 そして結衣は誰からも責められることなく、自分の愛した男との子供を育てていける。


 これで満足だろう。


 糾弾などしない。

 復讐もしない。


 僕はただ、なるようにしかならない運命の流れに、そして胸を突き刺す極上の快楽に、この身を委ねるだけだ。


 板ノ上鯉太郎。

 僕の苗字と名前は、皮肉にもこの結末を予言していた。


 僕はとっくに、自らの人生という「まな板」の上で、ただ横たわっているだけの鯉だったのだ。

 包丁がいつ振り下ろされるのか、その刃が誰の血で汚れるのか、そんなことはもう、どうでもよかった。


 外では、木枯らしが窓を激しく叩いていた。


 僕は冷めかけたお茶を静かに啜り――

 再び、無味乾燥な新聞の文字へと目を落とした。

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