第4話 まな板の上の覚醒
あの激しい雨の夜から、数ヶ月の時が流れた。
季節は巡り、工場のトタン屋根を叩くのは冷たい木枯らしへと変わっていた。
あの日、仕事終わりの事務所で目撃した剥き出しの情事は、僕の記憶の最も深い底へと沈められ、重いコンクリートで蓋をされていた。
僕は相変わらず、機械のように正確にタイムカードを押し、油に塗れて鉄を鋳ていた。
新谷竜二は、以前にも増して僕の目を避けるようになったが、仕事での連携に支障はなかった。彼は相変わらず優秀な職人であり、僕は相変わらず大野社長の信頼厚き後継者だった。
家庭でも、僕と結衣は絵に描いたような「静かな夫婦」を演じ続けていた。
彼女が差し出す型通りの夕食を口にし、当たり障りのない天気の話をする。
見て見ぬふりをする。
それは僕にとって、それほど難しいことではなかった。
感情のスイッチを切りさえすれば、世界はこれ以上ないほど滑らかに回っていくのだから。
だが、その偽りの平穏に、決定的な「波紋」が広がる夜が訪れた。
冷え込みの激しい十一月の夜だった。
いつものように無言の夕食を終え、結衣が湯呑みを片付けようとした時、その手が不自然に止まった。彼女は自分の膝の上で十本の指を固く絡め合わせ、長い沈黙の後、絞り出すような声を上げた。
「……あの、板ノ上さん。お話が、あります」
彼女は僕を、決して名前では呼ばない。
いつも「板ノ上さん」という、他人のような苗字で呼ぶ。
「どうしたんだい」
僕は新聞から目を離し、穏やかな声を返した。
結衣はゆっくりと顔を上げた。
その瞳を見た瞬間、僕の背筋に微かな緊張が走った。
そこには、明確な『怯え』があった。
不倫現場を見られたかもしれないという恐怖、あるいはこれから告げる真実への恐れ。だが、その怯えのすぐ裏側には、僕の反応をじっと値踏みするような、鋭く、夫を試すような光が混在していた。
「子供が、できました。……お医者様から、そう言われました」
部屋の古びた時計が刻む秒針の音が、急に大きく聞こえたような気がした。
子供。
結衣のお腹の中に、新しい命が宿った。
その事実を脳が処理した瞬間、僕の思考回路は、極めて冷静に確率の計算を始めていた。
――それは、誰の子だ?
僕の血を引いているのか。それとも――
あの雨の夜に彼女を激しく貪っていた、新谷竜二の血を引いているのか。
僕たち夫婦の間に、夜の営みがなかったわけではない。
形ばかりの義務として、月に数回、互いに肌を合わせることはあった。
だが、彼女が新谷とどれほどの頻度で交わっていたかを考えれば、確率はきれいに二分の一だった。
確かめる術はない。
いや、確かめたくもなかった。
結衣は、僕の唇がどんな言葉を紡ぐのかを、息を詰めて待っていた。
もし僕がここで「本当に僕の子供か?」と疑えば、彼女は泣き崩れるだろうか。
それとも、すべてが破綻したことを悟って開き直るだろうか。
彼女の瞳の中の「試すような光」は、僕がどこまで気づいているのか、僕がこの裏切りをどう処理するのかを、冷酷に見極めようとしていた。
普通の男なら、ここで激昂する。
妻を糾弾し、真実を暴き、新谷を工場から叩き出すために狂い回るだろう。
けれど、僕の心に湧き上がってきたのは、怒りではなかった。
名状し難い、泥のような諦念だった。
振り返れば、僕の人生はいつもそうだった。
小学校の時も、中学校の図書室でも、高校のバックステージでも。
僕はいつも、自分が正しいと信じた聖域を、他人の生々しい欲望によって奪われ、踏みにじられ続けてきた。そのたびに血を流し、のたうち回り、最終的に感情を捨てることでしか生き延びられなかった。
今更、何を怒ることがあるだろう。
真実を暴いて、何になる。
お腹の子が新谷の子だと証明して、結衣と離婚し、工場での地位を失い、またあの虚無の路上へと戻るのか?
そんなことは、僕のプライドが許さないのではない。
この痛みから目を背けることを止め、あるがままを受け入れることにしたのだ。
僕は悟った。
痛みとは、快楽でもあるのだと。
これまでは、それを認めることができなかった。
だから必死に否定し、無駄にあがいてきた。
心を無にして、傷つくまいとし、その結果として、最後に特大のダメージを負ってしまった。
けれど、この痛みを、最高の快楽として受け入れてあげることができれば――
「そうか」
気がつけば、僕は微笑んでいた。
自分でも驚くほど、穏やかで、優しい微笑みだった。
「それは、良かった。嬉しいよ、結衣」
結衣の目が見開かれた。
彼女の瞳の中にあった「試すような光」が、困惑と、得体の知れないものを見る恐怖へと一瞬で塗り替えられていく。
彼女は、僕の異常なまでの受容を恐れたのかもしれなかった。
しかし、それは僕にとって、もはやどうでもいいことだった。
「大切に育てよう。僕たちの子供なんだから。明日、社長にも報告しなきゃね。きっと喜んでくれる」
僕がそう言うと、結衣は幽霊でも見たかのような顔で「……はい」とだけ呟き、深く頭を垂れた。
その肩が、微かに震えている。
これでいい。
これで、すべては丸く収まる。
大野社長は初孫の誕生に狂喜し、僕を名実ともに後継者として確信するだろう。
新谷は、自分が愛した女に、自分の子供かもしれない命を宿らせたのだ。
そして結衣は誰からも責められることなく、自分の愛した男との子供を育てていける。
これで満足だろう。
糾弾などしない。
復讐もしない。
僕はただ、なるようにしかならない運命の流れに、そして胸を突き刺す極上の快楽に、この身を委ねるだけだ。
板ノ上鯉太郎。
僕の苗字と名前は、皮肉にもこの結末を予言していた。
僕はとっくに、自らの人生という「まな板」の上で、ただ横たわっているだけの鯉だったのだ。
包丁がいつ振り下ろされるのか、その刃が誰の血で汚れるのか、そんなことはもう、どうでもよかった。
外では、木枯らしが窓を激しく叩いていた。
僕は冷めかけたお茶を静かに啜り――
再び、無味乾燥な新聞の文字へと目を落とした。




