第4話 本棚の隙間の真実
その日は、朝からひどい雨だった。
窓の外では灰色の空が重く垂れこめ、校舎の壁を叩く雨音が、まるで世界中の会話をかき消そうとしているかのように激しく鳴り響いていた。
放課後の図書室は、いつも以上に静まり返っている。
雨の日は、誰もが早く家に帰りたがるからだ。
僕は一人、返却された本の山をカートに積み、背表紙の番号をなぞりながら書架を巡っていた。
あの日、荒木に「関係ない」と一蹴されてから、僕の心は毒気に当てられたように荒んでいた。
けれど、同時に奇妙な高揚感もあった。
(詩織さんは、今もあの男に怯えているはずだ)
僕は自分にそう言い聞かせた。
彼女が「そんなことない」と言ったのは、荒木が怖くて仕方がなかったから。
あるいは、僕を巻き込みたくなかったから。
僕は彼女の沈黙を、彼女の震えを、自分の都合の良い形に変換し、強固な防壁を築き上げていた。
カートが小さな音を立てて、図書室の最奥、あまり人が立ち入らない「歴史・郷土資料」のコーナーへと差し掛かる。
ふと、雨音の合間に、異質な音が混じった気がした。
――ガタリ。
重い本が棚にぶつかるような音。
それから、衣擦れの音。
僕は息を止めた。
心臓の鼓動が、不快なほど速くなる。
もしや、また荒木が来ているのか。
詩織さんが一人で追い詰められているのではないか。
「……やっ……あ……っ」
本棚の向こう側から、掠れたような、けれど切迫した詩織の声が聞こえた。
(助けなきゃ)
反射的に体が動いた。
僕はカートをその場に捨て置き、音のする方へと駆け出そうとした。
今の僕には正義がある。
委員という立場なんて関係ない。
一人の少女を守る騎士として、あの暴力を振るう侵入者を追い払ってやるんだ。
けれど、角を曲がる寸前。
本棚の、一箇所だけ本が抜けてぽっかりと空いた「隙間」から、その光景が視界に飛び込んできた。
僕は石化したように、その場に縫い付けられた。
そこにいたのは、予想通り荒木と詩織だった。
荒木は詩織の両手首を頭の上に押し付け、壁に乱暴に押し付けていた。
詩織の足元は浮き上がり、スカートの裾が乱れている。
荒木は荒い鼻息を彼女の首筋に吹きかけ、まるで飢えた獣のように彼女の肌を食んでいた。
「……っ、離し……っ!」
詩織は力なく抵抗しているように見えた。
今だ。
今こそ飛び出して、彼女をあいつの手から引き剥がすべきだ。
僕は一歩を踏み出そうとした。
――だが、止まった。
詩織の顔が見えたからだ。
荒木が彼女の唇を強引に奪った瞬間。
彼女の瞳は恐怖に震えるどころか、トロンと蕩け、焦点が定まらないほどに潤んでいた。
真っ赤に染まった頬。わずかに開いた口元から漏れるのは、苦痛の悲鳴ではなく、甘く、熱い、情欲に満ちた吐息だった。
「……ふ……っ、んん……っ」
彼女の細い指先が、荒木の背中に回される。
拒絶するために突き放すのではなく、もっと深く、もっと強く自分を求めてほしいと懇願するように、彼の制服のシャツを力いっぱい掴んでいた。
荒木が唇を離し、ニヤリと下卑た笑みを浮かべる。
「なんだよ内海。嫌がってたんじゃねーのかよ」
「……荒木君が、強引すぎるから……っ」
詩織は上目遣いに彼を睨んだ。
だが、その瞳には明確な「悦び」が宿っていた。
「板ノ上とかいう陰キャが、お前を助けるとか息巻いてたぜ? あいつ、きっとお前に気があるんだよ。それで張り切ってるんだろうな」
「そんなことないんじゃない? 真面目なだけだよ。けど……あの人、ずっと静かで……退屈なのよね」
詩織の口から漏れた、その言葉。
それは僕の心臓を直接握りつぶすような、冷酷な真実だった。
退屈。
僕が「至高の絆」だと信じていたあの沈黙は、彼女にとってはただの「退屈な時間」でしかなかったのだ。
僕が守ろうとしていた聖域は、彼女にとっての「檻」に過ぎず、彼女が本当に求めていたのは、この荒々しく、暴力的で、理性を踏みにじるような「光」だったのだ。
僕は本棚の隙間から、ただ立ち尽くしていた。
詩織が荒木に自分から顔を寄せ、今度は彼女の方から熱い接吻をねだる姿を、瞬きも忘れて見つめ続けた。
窓を叩く雨音は、もう何も隠してはくれなかった。
かつて、雨の廊下で陽葵を奪われた時、僕は「言葉の約束」が虚像だったと知った。
そして今、この図書室で、僕は「沈黙の絆」さえもが自分の身勝手な妄想に過ぎなかったことを知った。
僕の隣に座っていた彼女。
一緒にページをめくる音を共有していた彼女。
あの時、僕が見ていた彼女は、一体誰だったのだろうか。
本棚の隙間から漏れ聞こえる、二人の生々しい接触の音。
荒木が彼女の耳元で囁く卑猥な言葉。
それに応えて、嬌声を上げる詩織。
僕が必死に守り、汚されまいとしていたものは、最初から存在しなかったのだ。
足元から力が抜け、僕は背後の本棚に寄りかかった。
ドサリ、と一冊の本が床に落ちる。
けれど、その音さえ、今の二人の耳には届かない。
僕はただの観客だった。
主役になることも、守護者になることもできず、ただ他人の幸福を、あるいは他人の熱狂を、影から盗み見るだけの、不気味な傍観者。
雨は、まだ降り続いている。
僕の聖域は、今、完全に瓦解した。
喉の奥から、乾いた笑いがこぼれそうになった。
絆なんて、ない。
約束なんて、ゴミ溜めに捨てればいい。
この世界にあるのは、奪う側の情熱と、奪われる側の快楽、そして、それを見ていることしかできない僕という空っぽな抜け殻だけだ。
僕は濡れた廊下を這うようにして、図書室を後にした。
背後からは、まだ情熱的な雨音が、そして彼女の甘い吐息が、逃げる僕の背中を追いかけ続けていた。




