第1話 舞台下の調律師
高校二年生の秋、世界は相変わらず不完全で、耳障りなノイズに満ちていた。
教室を飛び交う無意味な笑い声。
廊下を走る足音。
そして、何より忌々しいのは、誰もが「明日も今日と同じ平穏が続く」と信じて疑わない、その根拠のない楽観主義だ。
僕は窓際の席で、イヤホンを深く押し込み、周囲の音を遮断する。
言葉は嘘をつく。
沈黙さえも、その裏側で生々しい欲望を隠し持っている。
二度の大きな「崩壊」を経験した僕にとって、他者との関わりは、自らの心臓に自らナイフを突き立てるような愚行でしかなかった。
僕はただの透明な観客でいたかった。
誰の記憶にも残らず、誰の熱狂にも触れず、ただ卒業という出口へ向かうコンベアに乗っていればそれで良かったのだ。
だが、その薄氷のような平穏は、一人の男によって呆気なく踏み抜かれた。
「よお、板ノ上! 生きてるか?」
鼓膜を揺らす、無遠慮な振動。
顔を上げると、そこにはクラスの「中心」という記号を擬人化したような男、佐伯健斗が立っていた。
吹奏楽部でトランペットを吹いているという彼は、常に周囲に人間を惹きつけ、その場の空気を自分の色に塗り替えてしまう。
僕が最も苦手とする人種。
「……何か用?」
「お、喋ったな。頼みがあるんだよ。うちの部、文化祭前の追い込みで機材の移動がめちゃくちゃ大変でさ。男子の手が足りねーんだ。お前、帰宅部だろ? ボランティアだと思って手伝ってくれよ」
「断る」
「まあそう言うなよ。お礼に学食の食券やるからさ。な? 今日の放課後、音楽室な!」
佐伯は僕の返事を待たず、片手を振って去っていった。
押し付けられた「善意」という名の暴力。
僕はため息をつき、結局のところ、放課後の音楽室へと足を向けた。
ここで断り続けて変に目立つよりは、一度だけ言うことを聞いて「使えない奴」だと思われる方が、今後の隠遁生活には有利だと判断したからだ。
放課後の特別教室棟は、本校舎とは異なる独特の緊張感が漂っていた。
各部屋から漏れ聞こえるバラバラな楽器の音。
チューニングの不協和音。
僕は佐伯に指定された第3音楽室の重い扉を、しぶしぶ押し開けた。
――その瞬間だった。
僕の脳内を満たしていた不快なノイズが、一瞬で、完全に、消え去った。
夕闇が差し込む音楽室の奥。
譜面台の前に立ち、銀色のフルートを構えている一人の女子生徒がいた。
瀬戸遥。
この学校の吹奏楽部を象徴する、フルートパートのリーダー。
彼女が奏でているのは、文化祭のメインプログラムであろうソロパートの旋律だった。
その音色は、僕がこれまで聞いてきたどんな言葉よりも清らかで、どんな沈黙よりも誠実だった。
高く、細く、それでいて一本の鋼の糸のように力強い旋律。
それは一切の濁りもなく、嘘も、諂いも、裏切りも介在させない、純粋な「意志」そのものとして響いていた。
彼女の指先が、流麗にキィを叩く。
薄暗い部屋の中で、窓外の夕日を反射したフルートが、彼女の顔を白く輝かせていた。
真剣そのものの眼差し。
結ばれた唇。
彼女は今、この瞬間、世界で最も美しい「調和」を一人で作り出していた。
「……すげえだろ、瀬戸先輩。うちの部のエースだよ」
いつの間にか隣に来ていた佐伯が、得意げに囁く。
僕は彼に返事をするのも忘れ、ただその音に、その姿に、魂を吸い寄せられていた。
(ああ、これだ……)
僕がずっと探し求めていたものは。
言葉による約束(小学校)でもなく、沈黙による共有(中学校)でもない。
自らを厳格に律し、高みへと昇華させることでしか得られない、この絶対的な「秩序」。
瀬戸遥が奏でる音楽には、裏切りの入り込む隙間などどこにもなかった。
彼女が楽器を吹き続ける限り、この美しさは守られ、世界は正しい形を保ち続けるのだ。
だが、その一方で、僕は見てしまった。
彼女の額に浮かぶ微かな汗。
運指の合間に漏れる、必死な呼吸の乱れ。
そして、重いピアノや機材の影で、彼女の演奏を物理的に阻害しそうな雑多な荷物。
完璧な美しさというのは、あまりに脆い。
床に散らばった譜面の端が折れているだけで、誰かの不用意な足音が響くだけで、彼女が築き上げたこの「聖域」は崩れてしまうだろう。
僕は、自分の胸の奥で、冷え切っていた火が再び灯るのを感じた。
彼女を守りたい。
いや、正確には、彼女が奏でる「この完璧な音」を守りたい。
僕は彼女の前に立つ資格なんてない。
彼女の隣で楽器を吹く才能もない。
けれど、彼女が音を出すための舞台を整えることはできる。
譜面台が揺れないように固定し、彼女の視界を遮るゴミを片付け、重い機材を運び、彼女がただ「美」だけに集中できる環境を作る。
舞台の下で、誰にも気づかれずに世界を調律する裏方。
それが、僕がこの高校で見つけた、唯一の居場所のように思えた。
「……佐伯君。手伝うよ」
「え? あ、ああ! サンキュ、助かるぜ板ノ上!」
佐伯は僕の肩を叩いて喜んだ。
その手の温度さえ、今は気にならなかった。
僕は音楽室の隅に置かれた重いアンプに手をかける。
瀬戸先輩は、こちらを見向きもしない。
ただ、ひたすらに、純白の旋律を紡ぎ続けている。
それで良かった。
それが良かった。
僕が彼女の献身的な奴隷となり、舞台を影から支え続ける。
この「奉仕」こそが、今度こそ僕を裏切らない、真実の絆になるはずなのだ。
夕闇が音楽室を飲み込んでいく。
僕は、かつてないほどの充実感と共に、重い機材を持ち上げた。
この旋律の最後の一音まで、僕は彼女の足元を、死守してみせる。
そう誓った。
その足元を、最も近くにいる「仲間」が狙っていることなど、露ほども疑わずに。




