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生意気な教え子が、僕の知らない男に「躾けられる」まで――勘違い家庭教師の終わった春――  作者: 猫野 にくきゅう
第三章 中学生編

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第3話 傲慢な守護者

 図書室の空気は、もう以前のようには澄んでいなかった。


 荒木が頻繁に訪れるようになってから一週間。

 彼は本を読むという最低限の礼儀さえ持ち合わせず、ただ内海詩織という獲物を追い詰めるためだけに、この静寂の聖域を土足で荒らし続けていた。


「なあ内海、この前の日曜なにしてた? 駅前に新しいカフェできたの知ってるだろ。あそこ、お前みたいなタイプが好きそうじゃん」


「……行ってない。ずっと、家にいたから」

「マジで? もったいねー。今度さ、俺が連れてってやるよ」


 荒木の声は、図書室の重厚な本棚に乱反射し、僕の耳を不快に突き刺す。

 視界の端で、詩織は文庫本を握りしめたまま、顔を真っ赤にして俯いていた。指先は微かに震え、彼女の呼吸は目に見えて乱れている。

 

 (まただ。彼女は、あんなに怖がっている)

 

 僕は本を読み進めるふりをしながら、胸の内で暗い炎を燃やしていた。


 荒木が彼女の肩に触れそうになるたび、あるいは耳元で囁くたび、詩織は逃げ場を失った小動物のように身を竦める。その痛々しい姿を見るたびに、僕の中の「守護者」としての使命感が、熱く、鋭く研ぎ澄まされていく。


「……内海さん、大丈夫? ……あいつ、追い払おうか」


 荒木が別の棚に本を探しにいった隙を見計らい、僕は詩織にだけ聞こえるような小声で話しかけた。


 詩織はびくりと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。彼女の頬はまだ熱を持って赤く、潤んだ瞳が僕を捉える。


「……え?」

「嫌なんだろ、あんな奴。僕が……委員の権限で、もう来ないように言ってあげてもいいよ」


 僕が救いの手を差し伸べると、詩織は一瞬、何かを言いかけようとして唇を震わせた。けれど、すぐに力なく微笑み、首を横に振った。


「……ううん。大丈夫だから。気にしないで、板ノ上君」


 その笑顔は、どこか諦めに満ちているように僕には見えた。

 

 (嘘だ。彼女は、怖くて本当のことが言えないだけなんだ)

 

 僕は確信した。

 彼女は荒木の乱暴な生命力に圧倒され、逆らえば何をされるかわからないという恐怖に支配されているのだ。


 かつての陽葵がそうだったように。

 あの時、僕は何もできずに逃げ出した。


 でも、今の僕は違う。

 僕には、この図書室を管理する「委員」という盾がある。


 翌日。

 荒木はまた、当然のような顔をしてやってきた。


 彼は返却カウンターに肘をつき、詩織に馴れ馴れしく話しかけている。

 僕は受付の席から立ち上がり、彼らの間に割って入った。


「……荒木君。ここは君の遊び場じゃない。私語は厳禁だ。用がないなら、出ていってくれないか」


 心臓の鼓動が耳元で鳴り響く。

 手が震えないよう、僕は委員の名札を握りしめた。


 荒木は話を遮られたことに不機嫌そうな眉根を寄せ、ゆっくりと僕を見下ろした。


「……あ? 板ノ上、お前、さっきから何言ってんの?」


「……聞こえなかったのか。図書室の利用規則を守れない者は、利用を制限する権利が僕たちにはあるんだ」


 必死に絞り出した言葉。

 それは、僕が持ちうる唯一の「武器」だった。

 

 しかし、荒木は鼻で笑った。


「んー、そう言われてもな。――俺もさ、利用者がいればもっと気を使うけど、今は誰もいないだろ。いるのは仕事で仕方なく残ってる奴だけじゃないか」


 荒木の瞳には、怒りすら浮かんでいなかった。

 あるのは、ただ圧倒的な「格下」に対する蔑みだけだった。


「内海が困ってんだよ!」


 僕は思わず声を荒らげた。

 荒木は面倒そうに詩織を振り返り、乱暴に彼女の肩を抱き寄せた。


「おい内海。お前、俺がいて困ってんの? こいつがそう言ってるけど」

「っ……! あ……」


 詩織は突然の接触に息を呑み、顔を真っ赤に染めて固まった。

 彼女の視線が、助けを求めるように僕と荒木の間を泳ぐ。


「……そ、そんなこと、ないから。板ノ上君、もういいよ」


 詩織の声は、蚊の鳴くような細さだった。

 荒木は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、僕の胸元を軽く小突いた。


「ほら見ろ。お前には関係ねーんだよ。余計なお節介してねーで、大人しく座ってろよ」


 荒木は詩織を連れて、図書室の奥へと消えていった。

 一人、カウンターに取り残された僕の視界が、真っ赤に染まる。

 

 ――お前には関係ない。

 ――キモい。不気味。

 

 あの日、雨の廊下で陽葵に言われた言葉が、荒木の声と重なって脳内を暴れ回る。


 違う。


 僕は彼女を守ろうとしたんだ。

 彼女は救いを求めている。なのに、どうして、また僕だけが泥水を飲まされる側に回される?

 

 ドクン、と心臓が大きく跳ねた。

 

 指先に残る名札の冷たさが、徐々に熱を帯びていく。

 僕の視線は、二人が消えた本棚の影を、じっと見据えていた。

 

 (ああ、そうか……。普通のやり方じゃ、ダメなんだ)

 

 詩織は怯えすぎていて、自分の本当の気持ちを口にできない。


 ならば、僕が実力で行使するしかない。

 彼女を縛る鎖を、僕がこの手で断ち切ってあげるしかないんだ。

 

 執着は、もはや正義の形をしていなかった。

 僕の中で、何かが完全に壊れ、どす黒い狂気へと姿を変えていく。

 

 僕は、本棚の隙間から二人を監視するための「特等席」を探し始めた。


 彼女を守るため。

 ただ、その一点のためだけに。

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