過去との決別
お待たせしました。
「自っ……」
脩璃は脳裏に浮かんだ男の名を叫びそうになり、辛うじて喉の奥で押しとどめた。目の前の男は、かつて国外逃亡という大罪を犯した身。生存が知れれば厳罰は免れない。
「……ひとまず、ここにいる者たちを清潔な場所へ移す。皆、手を貸してくれ」
兵士たちが動き出した隙に、脩璃は陽明の耳元で囁いた。
「陽明、信頼できる口の堅い医者はいないか?」
「心当たりがございます。亡き父の友人で、この近くに隠居している医師が。彼なら間違いありません」
「頼む。先に行って話を付けてきてくれ。彼をそこへ運び込む」
陽明が去った後、脩璃は静かに壁を見つめ続ける男の傍らに立った。地下牢に満ちる怨嗟と湿り気を帯びた空気は、じっとりと肌にまとわりつくようだった。
◇
その頃、焼け落ちた宮殿跡では、麟国兵たちが脩清の遺体捜索を続けていた。「皇帝生存」という流言が将来の火種にならぬよう、その死を証明する必要があったのだ。
捜索開始から数時間後。
「これを見ろ!」
瓦礫の下から、うずくまるような姿勢の焼死体が発見された。衣服の端に残る金糸の龍紋――それは皇帝のみが許される「竜袍」の証だった。
「間違いない、陛下……いや、脩清だ。急ぎ報せよ!」
こうして脩清の死は公式に確認され、新皇帝・秀帛の名において、謀反の終結が各国に布告された。
数日後、廃墟となった宮城に、秀帛、脩璃、喜逸、そして斉賢が集結した。
「皆、大義であった。この戦における諸将の働き、見事であった。礼を言う」
焼け残った玉座に腰掛けた秀帛が、幼いながらも威厳を保ち頭を下げた。
「感謝に堪えません。……ですが、今の私には玉璽もなく、歴代の皇帝に合わせる顔がございません」
自信なげな少年に、脩璃が力強く答えた。
「玉璽はあくまで道具に過ぎません、陛下。真の威信とは、民への慈愛。陛下が徳を示されれば、我ら諸王はどこまでも付き従いましょう」
「左様! 鵬王の申す通りだ。これからも我ら一致協力し、陛下の治世を盛り立てましょうぞ!」
喜逸の呼応に続き、斉賢も笑って手を差し出した。
「そういうこった。互いの得意を持ち寄り、民を安寧に導こうじゃねえか」
三者が手を重ね、そこへ秀帛がそっと自らの小さな掌を乗せた。四人の顔に晴れやかな笑みが浮かぶ。
「うん、なかなか良い雰囲気じゃないか。自信を持てよ、秀帛」
パチパチと拍手しながら現れたのは、脩奏だった。彼は懐から重みのある巾着を取り出すと、秀帛へ放り投げた。
「ほれ、土産だ。それでお前も名実ともに皇帝だ」
中に入っていたのは、紛れもない「伝国の玉璽」であった。驚愕する一同を余所に、脩璃だけが呆れた顔で突っ込んだ。
「……脩奏兄上、持っていたならさっさと出してくださいよ」
「仕方ねえだろ、俺はあれから鍾国へ行っていたんだ。新たな鍾国王・昌延が臣下の礼を執るとよ。それと、魏封は討ち取ったそうだぜ」
魏封の死。その報に、場にいた者たちは一様に「おお……」と感嘆の声を漏らした。
「ようやく、本当に終わったんだな」
斉賢の言葉と共に、長きにわたる戦乱は幕を閉じたのである。
◇
数ヶ月後。各国軍が撤退し、龍台には後片付けを担う脩璃だけが残っていた。
彼は脩清が遺した「官吏の腐敗」という宿題に取り組んでいた。破玉を総動員して調べさせた結果、潔白な官吏はごく僅か。高官ほど汚職の根は深かった。
そこで脩璃は、下級官吏から実務を再開させ、その決済を自身と脩奏、そして秀帛の三名で行う体制を敷いた。
いわゆる「嚢中の錐」。実務を通じて真に有能で高潔な人物を見出し、引き上げるための試練である。龍爪である脩奏の査定からは、どんな汚職の種も見逃されることはなかった。
季節が移ろい、落ち着きを見せ始めた頃。脩璃は陽明を連れ、龍台外れの質素な民家を訪ねた。
「これは鵬王様、ようこそおいでくださいました」
「常玄殿、無理を言って申し訳ない。……自誠の容態は?」
「はい、ようやく会話ができるまでになりました。奥でお待ちです」
門をくぐり、家の中へ入ると、そこには男が一人、畳に額を擦り付けるようにして座っていた。
「自誠。……生きていたんだな」
「すまん、脩璃。俺は……」
自誠が顔を上げた瞬間、脩璃は彼を力いっぱい抱きしめた。
「生きていてくれて、良かった……本当に……」
脩璃の嗚咽混じりの声に、自誠も堰を切ったように泣き出した。その泣き声は、外で待機する陽明たちの胸を打つほどに、激しく、切実なものだった。
ひとしきり泣き終えた後、脩璃は自誠と向き合った。
「まずは鄭殿のことは残念だった。俺にも責任がある。……それと、その足も……」
「鄭のじっちゃんのことは、お前のせいじゃない。むしろ仇を討ってくれて感謝してる。……足のことも気にするな。どうせ長くは生きられない身体だ」
寂しげに笑う自誠に、脩璃は言葉を失う。
「……自誠」
「それより脩璃、本題に入ってくれ。俺は国法を犯した罪人だ。処刑はいつになる? 死ぬ前に書き上げたいものがあるんだ。牢の中で思い出しながら、この乱のすべてを壁に綴っていた。それを後世に残したい」
強い眼差し。それを受けた脩璃は、静かに首を振った。
「いいか、自誠。君は国法を犯した。だから、鄭自誠という男を生かしておくわけにはいかない」
「……ああ、覚悟はできている」
「だがな、法的には君はもう死んだことになっている。私は、死者を処刑する趣味はないんだ」
「……? どういうことだ」
「今日から君は、鄭自誠ではない。麟国の新たな記録者として生まれ変わるんだ。……名はそうだな。司馬仙。これが君の新しい名だ」
「はあぁぁぁぁっ!?」
驚愕に満ちた司馬仙の絶叫が、静かな民家に響き渡った。
第120話で自誠の名が以後の歴史から消えたのは、こういう事情でございました。
次回の更新は8月11日(予定)です。




