陥落のその前で
お待たせしました。
「麟秀帛立つ」の報が大陸を駆け巡るのに、時間はかからなかった。
北の鵬国、西の瑯国、東の崑国が四方から攻め寄せ、行く先々で新皇帝の徳を喧伝した。無理やり戦に駆り出されていた一般兵のみならず、旧恩を感じていた麟国兵たちも次々と投降。この鮮やかな情報戦の糸を引いたのが、鵬国の軍師・玄奉師であることは疑いようもなかった。
しかし、後世の歴史書には、この情報戦を完遂した立役者の名は一切登場しない。
常陽からさらに南、龍台へと続く街道を、脩璃は軍を進めていた。
「奉師、君が流した噂の効果は抜群だったね」
「ホッホッホ、お褒めに預かり光栄の至りですぅ。ですがぁ、これらは他言無用に願いますぅ」
「どうしてだい?」
「乱が収まれば、秀帛様が正式にご即位されます。その威信が『一臣下の謀によるもの』と民に知られては、陛下の傷となりますゆえぇ」
奉師はいつもの調子でそう言うと、さらに付け加えた。
「それと脩璃様。これよりの戦、功績は瑯国と崑国に譲られますよう。……天下平定後、功があなたお一人に集中しては、六国の均衡が崩れますのでぇ」
「……それだけかな? 何か隠しているだろう」
脩璃がジロリと見詰めると、奉師は分かりやすく「ギクッ」と動揺し、遠い空を見上げた。横から陽明がクスクスと笑いながら助け舟を出す。
「脩璃様。奉師殿は、あなたを麟国に取られたくないのですよ」
「えっ、どういうこと?」
「この乱を一人で平定してしまえば、あなたは幼帝を支える執政として麟国に留まらねばならなくなる。それでは鵬国に王がいなくなってしまいますから」
納得した脩璃は、からからと笑った。
「心配ないよ、奉師。僕の故郷はもう鵬国なんだ。それに……僕には、あそこに置いてきた『至宝』があるからね」
「至宝……!」
奉師は一瞬で察し、ニヤニヤと手を合わせた。
「なるほどぉ! 左様でございましたかぁ」
「はい、この話は終了! 明玉には内緒だよ!」
三人の笑い声が、進軍の足取りを軽くした。
◇
その後の戦況は、畿外勢力の圧倒的な勝利で進んだ。
遮断されていた交易路は次々と開放され、経済は回復の兆しを見せる。対照的に、頼みの鍾国からの物資が途絶えた龍台は、日を追うごとに困窮していった。
焦燥に駆られたのは魏封である。無明ら影からの報せも途絶え、手足をもがれたも同然の彼は、ついに床に玉杯を叩きつけた。
「おのれ……。一族の悲願まであと一歩というのに。……やむを得ん。お主に内々に命ずる……」
魏封は、側近にだけ聞こえる細い声で、最後の悪あがきを囁いた。
一方、玉座にある脩清は、すべてを見越したかのように目を閉じていた。
「陛下、戦況は……ご想像の通りにございます」
若き廷尉の報告に、脩清は静かに頷いた。
「そうか。魏封もそろそろ逃げ出す頃合いだな。……脩璃のことだ、既に鍾国も手中に収めているだろう。魏封の野望も、もはや手遅れよ」
廷尉が悔しげに顔を曇らせると、脩清は慈しむように彼を見た。
「そう落ち込むな。お主は私によく仕えてくれた。何も報いてやれぬが……礼を言う」
「陛下! 私は、最期までお傍にあることだけを願っております!」
それから一ヶ月。権力の亡者・魏封は、数名の従者だけを連れて龍台から姿をくらました。実質的な指揮官を失った鍾国兵たちは動揺したが、脩清が出した「皇帝の勅命」に、意外にも彼らは従った。魏封の非道に愛想を尽かしていた兵たちは、暗殺計画まで立てていたという。
魏封の影響力は、彼が思うよりもずっと以前に、既に崩壊していたのだ。
◇
いよいよ、畿外勢力が龍台を包囲した。
秀帛は使者を立てて脩清に投降を促したが、帰ってきたのは拒絶の返答だった。やむを得ず、秀帛は攻撃を命じる。これが、最後の戦いの幕開けとなった。
混乱に乗じ、龍台のあちこちから火の手が上がった。皇宮もまた、紅蓮の炎に包まれようとしていた。
脩清は悠然と、燃え盛る廊下を歩んでいた。向かう先は母・桃氏の元。
「母上、脩清にございます。……直ちにお逃げください。まもなくここも火に呑まれます」
御簾の向こうから、冷淡な声が響いた。
「私は先帝の妻です。ここを動くつもりはありません。……それに、あなたに母と呼ばれる筋合いはございませんわ」
「……」
脩清は悲痛に唇を噛んだが、すぐに顔を上げた。
「お聞き届け願えぬのであれば、やむを得ません。――廷尉、やれ!」
「なっ、離しなさい無礼者!」
廷尉たちは暴れる桃氏を両脇から抱え、強引に連れ出していった。それを見送る脩清の瞳には、深い孤独と、どこか安堵したような色が混じっていた。
(これでいい……。あとは……)
猛火の中、かつての輝きを失った大通りを、二騎の馬が疾走していた。
崩れゆく龍台の姿に胸を締め付けられながら、皇宮を目指す二人――脩璃と陽明。
ついに、兄弟の運命が再び交錯しようとしていた。
次回の更新は7月21日(予定)です。




