06 アルディア王国と異世界について
「……ん」
ゆっくりと目を開ける。
最初に目に入ったのは、見知らぬ天井だった。
「……ここは?」
俺はゆっくりと上半身を起こした。見慣れない服を着せられている。身体には、ほのかなお香のような香りが漂っていた。
そういえば、あれから……。ゴブリンに何度もナイフで刺された。腹から血が流れて、立っていることすらできなくなって、それから――。
「……そうだ。俺、倒れたんだった」
慌てて服をめくり、腹に手を当てる。
「……傷がない」
何度も刺されたはずなのに、傷跡すら残っていなかった。腹だけではない。腕や脚にも傷は見当たらず、あれほど酷かった痛みも嘘のように消えていた。
俺が自分の身体を確認していると、不意に声がした。
「目が覚めたか」
「きゃっ、恥ずかしい……!」
声に驚いて顔を上げると、二人の人物がこちらを見ていた。俺は慌てて服を戻し、声のした方へ目を向ける。そこにいたのは、昨日、意識を失う直前に見た老人だった。
頭には髪がほとんど残っておらず、わずかに残った白髪を後ろへ流している。長い白髭を蓄え、杖を手に椅子へ腰掛けていた。その姿は、いかにも年老いた魔法使いといった雰囲気だ。
そして、その隣にはあの少女もいた。茶色の髪を後ろで一つにまとめ、お団子のように結っている。そこには一本の簪が挿されていた。澄んだ青い瞳と整った顔立ちが印象的で、柔らかな笑顔を浮かべている。
「身体の調子はどうですか?」
少女が尋ねてきた。
「……全然痛くないです」
数年ぶりに家族以外の人とまともに話したせいか、少し照れながら答える。
「それならよかったです」
少女はほっとしたように息を吐いた。
「かなり酷い怪我だったんですよ。お腹も何度も刺されていましたし……」
「……そうなのか」
自分で思い返してみても、とんでもない状態だった。あのとき、あと少しでも対応が遅れていたら、本当に死んでいたかもしれない。
「ところで、一つ聞いてもいいですか?」
「ん? 何?」
「この近くで、一体何があったんですか? 周囲には激しく戦ったような跡がありましたし、ジェムも落ちていたんです」
「ジェム?」
「はい。赤く輝いていた、結晶のようなものです」
「ああ……あれか」
昨日、ゴブリンが消えたあとに残っていた赤い結晶を思い出す。
「ジェムっていうのか?」
「はい。モンスターを倒したあとに残ることがある結晶です。モンスターの魔力が凝縮してできたものだと言われています。色や大きさによって価値も違うんですよ」
「へえ……」
「特に強いモンスターからは、大きくて質の高いジェムが出ることもあります」
「なるほど。じゃあ、あのゴブリンから出たのがジェムってことか」
「そうですね」
少女が頷く。
「でも、私たちが見つけたのはジェムだけでした。近くには何かが戦ったような跡も残っていて……それで、何があったのか気になったんです」
「……そういうことか」
俺は少し考えてから、昨日の出来事を話し始めた。
「実は昨日、ゴブリンに襲われてさ……」
俺は、ゴブリンに捕まったことから、鎖を壊して反撃したこと、ナイフで何度も刺されたこと、そして最後に棍棒で倒したことまで、覚えている限りを二人に話した。自分の能力についても、攻撃を受けるたびに何かが変化しているように感じたことを伝えておく。
話を聞き終えた少女は、驚いたように目を見開いた。
「……そんなことがあったんですね」
「しかし、そのゴブリンなら納得じゃな」
隣にいた老人が口を開いた。
「納得?」
俺が聞き返すと、老人は頷いた。
「ああ。ゴブリンが持つチート能力――《身体強化》じゃ」
「身体強化……」
「モンスターは、同じ種族であれば基本的に同じチート能力を持っておる。ゴブリンの身体強化も、その一つじゃ」
老人は杖を軽く持ち直した。
「冒険者なら誰でも知っておる有名な能力じゃ。モンスター図鑑にも載っておるからの」
「じゃあ、あのゴブリンが特別だったわけじゃないのか?」
「そういうことじゃ。ただし、身体強化は力だけを上げる能力ではない。攻撃力、防御力、そして速度。そのすべてをバランスよく強化する能力じゃ。通常のゴブリンと比べれば、身体能力は数倍にもなる」
「……数倍か」
俺は昨日の戦いを思い出した。
確かに、あのゴブリンの動きは異常だった。俺が反応するよりも速く距離を詰め、何度もナイフを振るってきた。あれが、あいつにとっては普通の力だったということか。
「ゴブリンは冒険者がよく討伐するモンスターじゃ。知らずに戦えば苦戦するが、能力を理解しておれば対処の仕方も変わってくる」
「なるほど……」
俺が頷くと、老人は少し表情を引き締めた。
「もっとも、相手の能力を知っておるからといって、必ず勝てるわけではないがの」
「……そりゃそうだな」
能力が分かっていても、身体能力に差がありすぎればどうにもならない。昨日の俺がまさにそうだった。あのときは、倒す方法を考える以前に、生き残るだけで精一杯だった。
「そういえば、まだ名前を聞いていませんでしたね」
少女が思い出したように言った。
「あ、そうだったな」
「私はリナです」
「俺は綾瀬タツヤ。タツヤでいいよ」
「よろしくお願いします、タツヤさん」
「ああ。よろしく」
すると、隣にいた老人も口を開いた。
「わしはガルドじゃ。リナの祖父をしておる」
「ガルド……よろしく」
「うむ。よろしく頼むぞ、タツヤ」
ガルドは満足そうに頷いた。
「ところで、タツヤ。お主、チンケな格好をしておったが、どこから来たんじゃ?」
「……」
そういえば、自分がどこから来たのか、まだ説明していなかった。
「すまない、まだその話をしていなかったな。俺は……転移魔法で、この世界に来たんだ」
「転移魔法?」
ガルドが眉をひそめた。
「はて……わしも長いこと魔法を扱ってきたが、そんな魔法の話は聞いたことがないぞ」
「そうなのか?」
「ああ。少なくとも、人間が別の世界へ移動するような魔法など聞いたことがない」
「……」
困ったな。
女神に連れてこられたなんて話をしても、簡単には信じてもらえないだろう。そもそも、俺自身もあの出来事をどう説明すればいいのか分かっていない。
「まあ、細かいことは今は置いておこう。お主の話を聞く限り、別の世界から来たということじゃろ?」
「まあ、そういうことになる」
「ならば、何も分からんことだらけじゃろうな」
ガルドはそう言って笑った。
「まずは、この世界のことを少し教えてやろう」
「助かる」
ガルドは杖を手に立ち上がり、壁に掛けられていた大きな地図の前へ歩いていった。
「まず、この辺り一帯を治めておるのがアルディア王国じゃ」
「今、俺たちがいるのもアルディア王国ってことか?」
「そうじゃ」
ガルドが地図の中央付近を指差す。
「そして、ここが王都アルディア。政治や商業の中心で、王城もここにある」
地図の中央には、周囲の街よりも一際大きく描かれた都市があった。
「なるほど」
「じゃが、アルディア王国にある大きな街は、王都だけではない」
ガルドの指が、王都の西側へ移動する。
「ここがベルナじゃ。周辺には広大な農地が広がっておってな。小麦や野菜、果物、それに家畜などが盛んに育てられておる」
ベルナの周囲には、小さな集落を示す印がいくつも描かれていた。
「こういう村から農作物が集められ、ベルナを経由して王都や他の街へ運ばれていくわけじゃ」
「街の周りに、こんなに村があるのか?」
「当然じゃ。街だけでは食料を作れんからの」
「……確かに」
言われてみれば、その通りだった。
街が存在するなら、そこへ食料や木材、鉱石などを運ぶ人々も必要になる。街だけで何もかもを賄えるわけではない。
「次に、ここがリベルタじゃ」
ガルドが地図の南東へ指を移す。
「海に面した港町じゃ。アルディア王国の中でも特に交易が盛んな街じゃな」
「港町か……」
「うむ。船を使って、他の王国とも交易をしておる。周囲には漁村や塩を作る村、船を造る職人たちの町などもあるぞ」
「なるほど。海に関係する仕事が集まってるんだな」
「その通りじゃ」
ガルドはさらに地図を指差した。
「そして、ここがセレナード。魔法や錬金術、学問などが盛んな街じゃ。魔術師や錬金術師を目指す者も多い」
「じゃあ、魔法使いがたくさん住んでるのか?」
「そうじゃな。周辺には薬草を育てる村や、魔石を採掘する鉱山町などもある」
「魔石まであるのか……」
いかにも異世界らしい話だ。俺は地図を眺めながら、少しずつこの世界の形を理解していった。
「そして、ここがわしらの住んでおるグランツじゃ」
ガルドの指が、王都の北側へ移動する。
「ここは森や山に近く、他の街よりも魔物が多い。だから冒険者も多く集まる街じゃ」
「だから、あんたたちも魔物に詳しいのか」
「まあ、わしは元冒険者じゃからな。リナはまだ冒険者ではないが、いずれなりたいと思っておるようじゃ」
「おじいちゃん、余計なことを言わなくてもいいよ」
リナが少し恥ずかしそうに口を挟む。
「ほっほっほ、別に隠すことでもなかろう」
どうやら、二人はこういうやり取りに慣れているらしい。
俺は小さく笑ってから、再び地図へ目を向けた。
「街以外にも、いろいろな場所があるんだな」
「もちろんじゃ。アルディア王国には、他にも多くの町がある。その周囲には村や農村、牧場、鉱山の集落、漁村、街道沿いの宿場町などが存在しておる」
「そんなに?」
「国土は広いからの。大きな街と街の間にも、人が暮らしておる場所は数え切れんほどある」
ガルドは地図の上を指でなぞった。
「街道沿いには宿場町ができ、川の近くには集落ができる。鉱山の近くには鉱山町ができ、海沿いには漁村ができる。人が暮らすには水も食料も必要じゃし、物を運ぶ道も必要になるからの」
「……人が集まる場所に、自然と町ができていくわけか」
「必ずしもそうとは限らんが、基本的にはそういうことじゃ」
現代の世界とは違う。それでも、人が暮らすために必要なものは変わらないらしい。
「そして、そうした町や村を繋いでおるのが街道じゃ。ベルナから王都へ食料が運ばれ、鉱山町からは鉱石が運ばれる。リベルタには外国から船がやってきて、セレナードでは魔石や薬品が作られる」
「……一つ一つの街が、それぞれ役割を持ってるんだな」
「その通りじゃ」
ガルドが満足そうに頷いた。
「そして、アルディア王国の外にも国がある」
「他にも?」
「ああ。この大陸には、アルディア王国を含めて三つの大きな王国が存在しておる」
ガルドは地図の端へ指を移した。
「アルディア王国の北には、ヴァルディス王国。西にはエルセリア王国がある。そして南の海を越えた先には、別の大陸があり、そこにグラディオン王国が存在しておる」
「……ということは、この大陸には三つの王国があって、海の向こうの大陸にもう一つ王国があるってことか?」
「そうじゃ。この世界には、大きく分けて二つの大陸がある。人々が暮らし、四つの王国が栄えておる大陸と、その周囲を取り囲むように広がる、もう一つの大陸じゃ」
「周囲を取り囲む……?」
俺は地図を見つめた。
「そうじゃ。もう一つの大陸は、四つの王国がある大陸を囲むように広がっておる。じゃが、その大部分は人の手がほとんど入っておらん」
「人が住んでないのか?」
「そういう意味ではない。人が踏み込めておらん場所が多いということじゃ」
ガルドは地図の外側へ目を向けた。
「その大陸は、今ではこう呼ばれておる」
少し間を置いて、ガルドが口にした。
「――魔境大陸」
「魔境大陸……」
「強大な魔物が数多く生息しておる。四王国で危険視されておる魔物など、向こうでは珍しくないとも言われておる。まあ、四王国の領土に生息する四大脅威たちは例外だがな」
「……そんなに危険なのか?」
「過去にも何度か調査隊が送られたが、戻ってこなかった者も多い」
「じゃあ、まだ分かってないことが多いんだな」
「当然じゃ。大陸の奥深くまで調べた者など、ほとんどおらん。古い遺跡があるという話もあれば、失われた文明が眠っているという話もある」
「……」
「じゃが、どれも確かなことは分かっておらん」
俺は地図を見つめた。
この世界には、二つの大陸がある。一つは、アルディア、ヴァルディス、エルセリアの三王国がある大陸。もう一つは、海を越えた先にグラディオン王国が存在し、それらを取り囲むように広がる魔境大陸。
四つの王国が栄える一方で、その外側には人々が容易には踏み込めない未知の土地が広がっている。……この世界、思っていた以上に広いんだな。
「……なんか、すごいな」
「何がじゃ?」
「いや……本当に異世界なんだなって」
ガルドも笑った。
「そうじゃな」
俺は改めて地図を眺めた。すると、ふと別の疑問が浮かんだ。
「そういえば、この世界って人間以外の種族もいるのか?」
「おるぞ。エルフ、ドワーフ、獣人、妖精、人魚……他にも数えればきりがないほどおる。魔族と呼ばれる者たちもおるぞ」
「そんなにいるのか……」
「うむ。ただ、どの種族も好き勝手に暮らしているわけではない。種族には、それぞれ暮らしやすい土地というものがあるからの。エルフなら森、ドワーフなら鉱山のある山岳地帯、といった具合じゃ」
「じゃあ、この街には?」
「アルディアは人間が多い街じゃ。人間以外の種族もおらんわけではないが、そう多くはない」
「なるほど」
「獣人なら獣人の多い街、人魚なら海に近い街というように、種族によって集まって暮らしている場所もある。もちろん、旅をしたり商売をしたりする者もおるから、他種族をまったく見かけんというわけではないがの」
「……本当にいろんな種族がいるんだな」
「ああ。お主がまだ知らん種族も、きっとたくさんおるじゃろう」
ガルドはそう言って笑った。
人間だけじゃない。エルフも、ドワーフも、獣人も、人魚も、妖精もいる。俺が元いた世界では、物語の中でしか見たことのない種族が、この世界では当たり前のように暮らしているらしい。……いつか、実際に会ってみたいものだ。
「さて、世界の話はこれくらいにしておこう」
ガルドが地図から離れた。
「お主、冒険者になりたいと言っておったな?」
「ああ」
「それなら、今日は冒険者ギルドへ行ってみるといい」
そういえば、昨日も冒険者という言葉が出ていた。この世界で生きていくなら、まずは仕事を見つける必要がある。元の世界に帰る方法も分からない以上、いつまでも誰かの世話になるわけにはいかない。それに、冒険者になれば、この世界のことをもっと知ることもできるはずだ。
「私が案内しますよ」
リナが微笑んだ。
「助かる」
「じゃあ、わしはここで待っておる。気をつけて行ってくるんじゃぞ」
「はい、おじいちゃん」
リナが頷き、俺もベッドから立ち上がった。身体はまだ少し重いが、昨日までの激痛は完全に消えている。これなら問題なく歩けそうだ。俺は拳を握り、軽く開いてみた。
この世界には、俺の知らないことが多すぎる。冒険者ギルドへ行けば、何か分かるかもしれない。
「よし。冒険者ギルド、行ってみるか」
「はい。行きましょう、タツヤさん」
こうして俺は、ガルドから借りた服に身を包み、リナに案内されてグランツの街へ出ることになった。




