31 迎えに来ましたよ、達也さん
身体が、宙を舞っていた。
「うおおおおおおおおおっ!?」
眼下に広がるのは、切り立った岩肌と、遥か下方に見える山道。魔王城はまだ遠く、俺たちは山頂付近の斜面へ向かって真っ逆さまに落下していた。
「くそっ、あいつ、いきなり何しやがる!?」
「今は文句を言ってる場合じゃないだろ! ヴィル、何か出せ!」
「分かってる! スライム召喚!」
ヴィルが叫ぶと、俺たちの落下地点に巨大なスライムが出現した。
「すぐまた呼び出して、すまない! 頼むぞ!」
次の瞬間、俺たちは次々とスライムの身体に突っ込んだ。
ボヨンッ!
全身を包み込むような衝撃が走り、俺の身体はスライムの中に深く沈み込んだ。柔らかい身体が落下の衝撃を吸収し、俺たちはどうにか地面への激突を免れた。
「……っ、死ぬかと思った」
スライムの身体から這い出し、俺は大きく息を吐いた。ほかの連中も次々と起き上がる。多少の打ち身はありそうだが、誰も大きな怪我はしていないようだった。
「助かった……。ヴィル、ありがとな」
「いや、礼はこいつに言ってくれ。俺は呼び出しただけだからな」
ヴィルがスライムの頭らしき部分を撫でる。スライムは嬉しそうに身体を揺らした。
……なんだか、こいつが一番まともに仕事をしている気がする。
そんなことを考えながら立ち上がった俺は、周囲の異様な気配に気づいた。
「……おい。みんな、辺りを見ろ」
山肌の岩場。その向こう側から、巨大な影が次々と姿を現していた。
竜。竜。竜。
翼を広げた赤い竜、岩のような鱗を持つ茶色い竜、青白い息を吐く竜。先ほどから俺たちを追ってきていたドラゴンたちが、いつの間にか周囲を取り囲むように集まっていたのだ。その数は、百体近い。
「……マジかよ」
喉の奥がひゅっと鳴った。ただでさえ黒竜に振り落とされたばかりだというのに、今度はこいつらか。魔王城へたどり着く前にもしかしたら全滅するんじゃないだろうな。
「おいおい、歓迎会でも開くつもりか?」
ガルヴァンは竜たちを見回すと、呆れたように笑った。
「歓迎ってレベルじゃねえぞ多すぎだ……!」
「ははっ、違いねえな」
ガルヴァンは腰の剣に手をかけた。そして、俺たちの方へ振り返る。
「お前らは先に行け。こいつらは俺が引き受ける」
「えっ、でも――」
「心配すんな。こいつらを片づけてから、俺も追いつく」
そう言うと、ガルヴァンは剣を抜いた。
刃が陽光を反射し、鋭い光を放つ。
「それより、お前らにはやることがあるんだろ?」
ガルヴァンの視線が、遥か彼方にそびえる魔王城へと向けられた。
「クラウスの援護だ。あいつを一人で戦わせっぱなしにするわけにもいかねえ。……頼んだぞ」
「……ああ!」
俺は強く頷いた。
「絶対に幹部を倒して、聖命草を手に入れる。それまで死ぬなよ、ガルヴァン!」
「誰に言ってやがる。さっさと行け!」
ガルヴァンが剣を構えた瞬間、頭上から赤い竜が炎のブレスを吐いた。轟音とともに炎が地面を焼く。
しかし、ガルヴァンは怯むどころか、炎の中へ踏み込むように走り出した。
次の瞬間、剣閃が走る。
炎を切り裂き、竜の首元へと迫る一撃。竜が苦悶の咆哮を上げ、その巨体が大きく傾いた。
背後では、すでにガルヴァンとドラゴンたちの戦闘が始まっている。轟音と咆哮が山肌に響き、岩場が次々と砕け散っていく。
振り返りたい気持ちを押し殺し、俺は前を向いた。
今は信じて進むしかない。魔王城へ続く道は、岩壁に沿って伸びる細い山道だった。足場は悪く、少しでも気を抜けば崖下へ転落しかねない。
それでも、俺たちは走った。だが――。
「ギャオオオオオオッ!」
「またかよ!」
前方の岩場から、三体のドラゴンが飛び出してきた。背後から追ってきた連中とは別の個体なのか、あるいは回り込まれていたのか。そんなことを考えている余裕はなかった。
一体が大きく息を吸い込む。
「散れ!」
俺の声と同時に、ドラゴンたちがブレスを放った。赤い炎が頭上をかすめ、青白い氷の息が足元を凍らせる。さらに、紫色の光を帯びた雷撃が岩壁を直撃した。
「うわっ!」
砕けた岩の破片が飛び散る。
俺たちは左右に散り、ブレスを避けながら前へ進んだ。
「くそっ、いくらなんでも数が多すぎるだろ!」
「このままじゃ、いつまで経っても城にたどり着けないぞ!」
ヴィルが叫ぶ。
確かに、その通りだった。避けて、走って、また避ける。そんなことを繰り返しているうちに、少しずつ体力が削られていく。相手は空を飛べるドラゴンだ。地上を走る俺たちとは、移動の自由度が違いすぎる。
「……もう、面倒ね」
そのとき、ノノが足を止めた。
彼女は空を舞うドラゴンたちを見上げ、面倒くさそうに目を細める。
「この子たち、普通の魔法じゃ倒しきれそうにないわね♡」
「だったら、どうするんだよ!?」
「決まってるじゃない♡」
ノノは両手を掲げ、魔力を集め始めた。
「ゼニススキル――《魔力極大》!」《紅蓮焼野》ーー最大出力!」
……。
……。
何も起こらなかった。
「…………」
「…………」
俺たちの間に、妙な沈黙が流れた。
「おい、そこは発動するべきじゃないのか!?」
「まあまあ♡ 焦らないの♡」
「焦るに決まってんだろ! 今まさに殺されかけてるんだぞ!?」
ノノは俺の抗議を聞き流し、再び両手を掲げた。
「ゼニススキル――《魔力極大》!」《紅蓮焼野》ーー最大出力!」
……何も起こらない。
「ゼニススキル――《魔力極大》!」《紅蓮焼野》ーー最大出力!」
……。
「ゼニススキル――《魔力極大》!」《紅蓮焼野》ーー最大出力!」
「おい! さっきから同じことしか言ってねえぞ!」
「大丈夫よ、王子様♡ こういうのは気合いが大事なの♡」
「気合いで発動するなら苦労しねえよ!」
その間にも、ドラゴンたちは攻撃を続けていた。
炎が地面を舐め、氷のブレスが岩場を白く染める。俺たちは身を低くして攻撃を避けながら、少しずつ前へ進んだ。
「ノノ、まだなのか!?」
「もうちょっと♡」
「そのもうちょっと、何回目だよ!」
目の前で雷撃が炸裂し、俺は思わず地面に伏せた。
耳鳴りがする。足元の岩は砕け、逃げ道も徐々に狭まっていた。
まずい。このままでは本当に逃げ場がなくなる。
「……あっ、いけそう♡」
「今度こそ頼むぞ!」
ノノの周囲に、膨大な魔力が渦巻き始めた。
空気が震える。
岩場に散らばっていた小石が浮かび上がり、周囲の温度が急激に上昇していく。それまで余裕を見せていたドラゴンたちも、異変を察知したのか、一斉にノノへと顔を向けた。
「遅いのよ、あなたたち♡」
ノノが、にっこりと笑った。
「ゼニススキル――《魔力極大》! 《紅蓮焼野》――最大出力!」
直後、世界が赤く染まった。
地面が爆ぜ、辺り一帯から巨大な火柱が次々と噴き上がった。無数の火柱が岩場を埋め尽くすように立ち昇り、荒れ狂う炎が空へと広がっていく。
ドラゴンたちは逃げようと翼を広げる。しかし、もう遅い。轟音。爆炎。熱風が吹き荒れ、岩壁が激しく震える。いくつもの火柱がドラゴンたちを飲み込み、周囲一帯を灼熱の地獄へと変えていった。
やがて炎が収まったとき、俺たちを追っていたドラゴンたちは一掃されていた。黒煙の向こうには、焼け焦げた岩場だけが広がっていた。
「……最初からそれをやってくれよ」
「ふふっ♡ 成功したんだから、いいじゃない♡」
「成功するまでに何回唱えたと思ってんだ……!」
俺は額を押さえた。だが、文句を言っている暇もない。
「行くぞ! 今のうちだ!」
俺たちは再び走り出した。そして、ようやく――。
「……見えた!」
岩場の向こうに、巨大な魔王城の姿が見えた。黒い城壁。天へと伸びる尖塔。山頂を覆うようにそびえるその威容は、遠くから眺めていたとき以上の圧迫感を放っている。城へ続く長い石階段が、眼前に伸びていた。
「あと少しだ! この階段を上りきれば、城の入り口だ!」
ゴリィが声を張り上げる。俺たちは疲れ切った身体に鞭を打ち、階段を駆け上がった。
一段、また一段。息が切れる。足が重い。それでも、止まるわけにはいかなかった。
クラウスが戦っている。ガルヴァンも、背後でドラゴンたちを引き受けてくれている。俺たちがここで足を止めるわけにはいかない。――そのときだった。
「ギャオオオオオオオッ!」
背後から、凄まじい咆哮が響いた。
振り返ると、一体のドラゴンが階段の下から迫ってきていた。先ほどノノが焼き払った連中とは別の個体だ。翼を広げ、岩場を蹴りながら、猛烈な勢いでこちらへ向かってくる。
「くそっ、まだいやがったのか!」
俺は足を止めかけた。
「ノノ、頼む!」
「ええ、任せて♡」
ノノが再び魔力を集めようとした、その瞬間。
「待て!」
ゴリィの鋭い声が響いた。俺たちは一斉に振り返った。
ゴリィは階段の途中で足を止め、迫り来るドラゴンを見据えていた。その顔には、先ほどまでの切迫した表情とは違う、覚悟の色が浮かんでいる。
「ここは俺たちが引き受ける」
「……え?」
思わず声が漏れた。
ゴリィの隣では、騎士団員たちも足を止めていた。一人、また一人と振り返り、全員がドラゴンへと向き直る。
「お前たちは先に行け」
ゴリィが、俺たちに背を向けたまま言った。
「だが、団長!」
「聞こえなかったのか。先に行けと言っている!」
その声には、反論を許さない強さがあった。
ノノが額に汗をかきながら魔法を放とうと、再び詠唱を始める。
「ゼニススキル――」
「今ここで魔法を放てば、どうなる!」
ゴリィの怒声が、ノノの声を遮った。
「お前の魔法は強力だ。だが、この狭い階段で放てば、俺たちだけでなく、城の上で戦っているクラウス様まで巻き込む可能性がある! 違うか!?」
「……っ」
ノノは唇を噛み、詠唱を止めた。
そうだ。ここで彼女の広範囲魔法を使えば、ドラゴンを倒せたとしても、周囲を巻き込む危険がある。階段の先では、クラウスをはじめとする近衛騎士団員たちが戦っているのだ。
味方を巻き込んでしまえば、何のためにここまで来たのか分からなくなる。
ゴリィは剣を抜いた。騎士団員たちも、それぞれの武器を構える。
「俺たちの仕事は、ここまでお前たちを送り届けることだ。そして、お前たちには果たすべき目的がある」
ゴリィが俺たちを振り返った。
「聖命草を手に入れろ。クラウスたちと合流し、魔王軍幹部を打ち倒すんだ」
「……団長」
リナの声が震えた。ゴリィは、そんな彼女に向かって力強く頷いた。
「心配するな。俺たちも騎士だ。自分の身くらい、自分で守れる」
そして、俺へと視線を向けた。
「タツヤ。あいつらを頼んだぞ」
俺は拳を握りしめた。ここまで一緒に戦ってきた仲間だ。簡単に置いていけるわけがない。それでも――。
「……分かった」
俺は、絞り出すように答えた。
「絶対に幹部を倒す。聖命草も手に入れる。だから……絶対に生きて戻ってこいよ!」
「当然だ!」
ゴリィは豪快に笑った。
「騎士団長を誰だと思っている!」
その背後で、ドラゴンが大きく翼を広げた。風圧が階段を吹き抜け、騎士たちの鎧が音を立てる。
「行けえええええっ!」
ゴリィの叫びを合図に、騎士団員たちが一斉に駆け出した。
ドラゴンの爪が振り下ろされる。ゴリィが剣で受け止め、金属音が山頂に響き渡った。
「今だ! 行くぞ!」
ヴィルが叫んだ。俺たちは歯を食いしばり、階段を駆け上がった。背後から、剣戟と咆哮が聞こえる。振り返りたい。戻って、みんなに加勢したい。けれど、俺たちには俺たちのやるべきことがある。
「……絶対に、倒すからな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。俺は前を向いた。そして、ついに魔王城の入り口へとたどり着いた。巨大な扉が、目の前にそびえ立っている。
黒い石で造られた扉には、見たこともない文字と紋様が刻まれていた。周囲からは冷たい空気が流れ出し、まるで城そのものが俺たちを拒んでいるかのようだった。
「……じゃあ、開けるぞ」
俺は仲間たちを見回した。リナが頷く。ヴィルも頷く。ノノはいつもの笑みを浮かべていたが、その表情にはわずかな緊張が滲んでいた。
俺たちは扉を開けた。その瞬間――。黒い霧が溢れ、世界が暗転した。まるで光そのものが消え去ったかのように、辺りが真っ暗になる。
「……なんだ?」
足元の感覚が消えた。壁も、床も、仲間たちの姿も見えない。どこにいるのかすら分からない。ただ、闇だけが広がっていた。
『――また来客が来たか、あの騎士どもに私たちの仲間がやられている時、物陰で隠れていて良かった。お陰で、貴様らを上には行かせず済む』
低く、重い声が響いた。
誰だ?誰の声なんだ。
その声が耳に届いた瞬間、闇が一気に崩れ落ちた。
視界が白く染まる。そして――。目を開けると、そこは見慣れた部屋だった。
「…………ここは、どこだ?」
俺は、呆然と天井を見つめていた。見慣れた天井。使い古したベッド。床に脱ぎ捨てられた服。机の上には飲みかけのペットボトルと、食べ終えた菓子の袋が散らばっている。窓の外からは、カーテン越しに柔らかな日差しが差し込んでいた。そして、机の上のテレビには、ゲーム画面が表示されていた。
「……あれ?」
俺はゆっくりと身体を起こした。手を開き、閉じる。腕を見る。服を見る。足を見る。いつもの部屋着だった。異世界で身につけていた装備も、剣も、何もない。ポケットに手を入れると、そこには家の鍵とスマートフォンが入っていた。
「…………夢?」
呟いた声が、やけに乾いて聞こえた。俺はしばらく、自分の手を見つめていた。リナも、ヴィルも、ノノもいない。ガルヴァンも、クラウスも。
「……なんだよ。夢だったのか」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
なんだ、そういうことか。異世界なんて、あるわけがない。女神からチート能力をもらって、異世界に転移して、冒険者になって、仲間と出会って、ドラゴンと戦って。そんな都合のいい話が、本当にあるわけがない。全部、夢だったんだ。……じゃあ、どこから夢だったんだろう。女神に会ったところからか?それとも、あの異世界で目を覚ました瞬間から?
考えれば考えるほど、頭が混乱してくる。
「……まあ、いいか」
俺はベッドから降りた。身体に痛みはない。傷もない。疲労も感じない。夢の中では、あれほど必死に走っていたというのに。俺は部屋の扉を開け、廊下へ出た。
「……父さん?」
返事はない。
「母さん?」
やはり、返事はなかった。
俺は階段を下り、一階へ向かった。
「二人とも、いるのか?」
もう一度、声をかける。
すると、台所の方から人の気配がした。俺はそちらへ足を向けた。台所のテーブルの前に、父さんが座っていた。頭を抱え、俯いている。
背中が小さく丸まり、肩が震えていた。
「……父さん?」
声をかけても、父さんは顔を上げなかった。俺は戸惑いながら、ゆっくりと近づいた。
「どうしたんだよ。何かあったのか?」
父さんは答えない。ただ、両手で顔を覆ったまま、低く呟いた。
「……どうしてだ」
「え?」
「どうして、こんなことに……」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。嫌な予感がした。けれど、俺はそれを振り払うように口を開いた。
「……父さん。ごめん」
父さんの肩が、ぴくりと動いた。
「俺、今まで……何も考えてなかった。父さんや母さんが、どんな気持ちで俺を見てたのかも。働きもしないで、ずっと家にいて……心配かけて、本当にごめん」
言葉にすると、胸が苦しくなった。異世界に行く前の俺は、何もしていなかった。仕事を探すと言いながら、ゲームばかりしていた。失敗するのが怖くて、誰かに否定されるのが嫌で、面倒なことから目を背けていた。父さんや母さんが何を思っていたのかなんて、まともに考えたこともなかった。
「……俺、もう一度就活してみるよ」
俺は、父さんの顔を覗き込もうとした。
「今度はちゃんと働く。逃げないで、ちゃんと――」
「……お前のせいだ」
父さんの声が、俺の言葉を遮った。
「……え?」
耳を疑った。
父さんはゆっくりと顔を上げた。その目黒く染まり、まぶたは赤く腫れ、頬には涙の跡が残っていた。
「お前のせいで……ママは死んだんだ」
「…………は?」
頭の中が真っ白になった。
今、何と言った?母さんが?死んだ?
「な、何言ってんだよ……。父さん、冗談だろ?」
笑おうとした。けれど、口元が引きつるだけで、声にならなかった。
「お前が就活もしないで、毎日ゲームばかりしていたからだ!」
父さんが立ち上がった。
「ママがどれだけお前を心配していたと思ってる! どれだけ苦しんでいたと思ってるんだ!」
「ちょ、ちょっと待てよ……!」
「ママは首を吊って死んだんだ!」
怒声が、台所に響き渡った。
「お前のせいだ! 全部、お前のせいなんだ!」
「……うそだ」
頭が、ぐらりと揺れた。足元が崩れたような感覚に襲われる。
「嘘だ……。母さんが、死んだ……?」
そんなはずがない。だって、俺は今朝まで――いや、今朝なのかどうかすら分からない。母さんはどこにいる?いつからいない?どうして、俺は気づかなかった?
「嘘だ、嘘だ、嘘だ……!」
俺は首を振った。
「そんなの、嘘だろ……! 父さん、嘘だって言ってくれよ!」
「黙れ!」
父さんが俺の肩を掴んだ。そのまま、床へと押し倒される。
「うっ……!」
背中を強く打ち、息が詰まった。
「お前は何も知らない! 何も見ようとしなかった!」
父さんの顔が、目の前に迫る。
「俺とママが、どんな思いでお前を育ててきたと思ってるんだ! お前の将来を心配して、何度も話をしようとした! それなのに、お前は……!」
「ごめん……!」
俺は震える声で謝った。
「ごめんなさい……! 父さん、ごめんなさい!」
父さんの拳が振り下ろされた。頬に衝撃が走る。
「ぐっ……!」
視界が揺れた。
「ゲームばかりしやがって!」
もう一発。
「家族の気持ちも考えずに!」
さらに一発。
「ママが死んだことにも気づかないで、のうのうと生きていたのか!」
「やめて……! 父さん、やめてくれ……!」
涙が溢れた。頬が熱い。口の中に鉄の味が広がる。痛い。怖い。何より、父さんの言葉が痛かった。
俺は母さんが死んだことすら知らなかった。そんなことがあるはずがないと思いたかった。けれど、もし本当だったら?もし、本当に俺が気づかなかっただけだったら?母さんが苦しんでいたことも、父さんが悲しんでいたことも、全部、俺が目を背けていたせいだったら?
「ごめんなさい……! ごめんなさい、父さん……!」
俺は泣きながら、必死に謝った。
「ちゃんとするから……! だから、やめて……!」
拳が、また振り上げられた。もう、避ける気力もなかった。俺は目を閉じ、身を縮めた。その瞬間――。
ドゴォッ!!
凄まじい音が響いた。
「…………え?」
いつまで経っても、拳が降ってこない。恐る恐る目を開けると、父さんの姿が消えていた。いや、消えたのではない。台所のテーブルを押しのけ、壁際まで吹き飛ばされていた。そして、その傍らには一人の女性が立っていた。
長い髪を揺らし、腕を組んだまま、冷ややかな目で父さんを見下ろしている。
「……まったく。見ていられないわね」
聞き覚えのある声だった。女性はゆっくりとこちらを振り返った。
「達也さんは、あなたが思っているような悪い人じゃないわ」
その声には、確かな怒りが込められていた。
「失敗して、立ち止まって、逃げてしまうことだってある。けれど、それだけで人の価値が決まるわけじゃないでしょう?」
女性は一歩、俺の前へと進み出た。
「それに、達也さんのお父さんだって、本当はとってもいい人よ。こんなふうに息子を傷つけることしかできない人じゃない」
そして、倒れた父さんを見下ろし、きっぱりと言い放った。
「あなたは、達也さんの罪悪感につけ込んでいるだけの幻想。……悪夢を利用して人を苦しめるなんて、悪魔のやることね」
女性が指先を軽く振る。すると、台所を覆っていた暗い空気が、音もなく揺らいだ。壁も、床も、窓から差し込む光さえも、まるで水面に映った景色のように歪み始める。
吹き飛ばされた父さんが、ゆっくりと顔を上げた。
「……誰なんだ、お前は……?」
その顔は、殴られた影響で腫れ上がっていた。それでも、女性は少しも怯まなかった。
「誰だ、ですって?」
彼女は腰に手を当て、呆れたように息を吐いた。
「あなたこそ、誰の夢に勝手に入り込んでいると思っているのかしら? 私の大切なエースを傷つけておいて……ただで済むと思わないことね」
そして、彼女は俺の方へと振り返った。
見慣れた顔。異世界で、俺をあの世界へと連れていった張本人。俺にチート能力を与えた、あの女神だった。
「……女神?」
声が震えた。
女神は一瞬だけ目を見開くと、すぐにいつものように胸を張り、柔らかな笑みを浮かべた。
「はい。迎えに来ましたよ、達也さん」
その言葉を聞いた瞬間、俺の目から、再び涙が溢れ出した。




