25 魔王軍元四天王ヴァルゼオン
「な、何だ……あれは!?」
騎士の一人が叫んだ。俺も、ノノも、リナも、目の前に現れた異様な存在を前に言葉を失っていた。
セシリアの身体から立ち上った黒い影は、まるで自分の身体の感触を確かめるように、ゆっくりと輪郭を蠢かせた。そして、地面に倒れたセシリアを見下ろす。
「……まさか、この俺様が……二度もやられるとはな」
響いたのは、セシリアの声ではなかった。低く、濁った男の声。聞いているだけで背筋が凍りつくような、底知れない悪意が込められていた。
「……お前、何者だ?」
俺は痛む身体を起こそうとした。しかし、全身に力が入らない。先ほどのノノの魔法をまともに受けたせいで、指一本動かすのも億劫だった。黒い影は俺の問いに答えることなく、嘲るように笑った。
「この女の身体も、ここまでか……。せっかく時間をかけて計画を進めていたというのに、貴様らのせいで台無しだ」
「この女の身体……?」
ノノが眉をひそめる。
「ちょっと待ちなさいよ。まさか、あんた……セシリアの身体を乗っ取っていたっていうの?」
「ほう。小娘にしては察しがいいな」
黒い影が、ゆらりと揺れた。
「その通りだ。この女は俺の器にすぎん。俺の意志に従い、俺の力を振るうために利用した、計画の一部にすぎない。器を失ったところで、また見つければいいだけの話だ」
影は愉快そうに笑った。
「……器だと?」
俺は思わず聞き返した。
じゃあ、あの重力を操る能力も、街を支配していたことも、すべてこいつの仕業だったのか? いや、待て。セシリア自身の意志は、どこにあった? あの女は、本当に自分の意志で俺たちと戦っていたのか?。
考えれば考えるほど、分からなくなる。セシリアは確かに俺たちを攻撃し、街の人間を苦しめてきた。だが、その裏で別の何者かが彼女の身体を操っていたのだとしたら……。
「俺様は、この程度では終わらん。たとえ器を失おうとも、呪いは消えぬ」
その言葉に、リナの表情が凍りついた。
「……まさか」
リナが震える声で呟く。
「その力……その禍々しい気配……。おじいちゃんが、かつて王都で戦ったという……まさか、魔王軍の四天王!?」
黒い影の動きが、ぴたりと止まった。
「ほう……俺のことを知る者が、まだ生き残っていたか」
「おじいちゃんが話してくれたんです。かつて戦った魔王軍は、他人の身体を呪いで乗っ取る恐ろしい四天王だったと……」
リナは杖を握る手に力を込めた。
「その者は、アルティメットスキルによって生み出した呪いを他者に植えつけ、宿主の身体と意識を支配する……。呪いが宿主に根づけば、外見も能力も、その者自身のもののように振る舞えると……」
「ほう。そこまで伝わっていたとはな」
黒い影が、愉快そうに蠢いた。
「いかにも。俺の名はヴァルゼオン。かつて魔王軍四天王の一角を担った者だ。俺のアルティメットスキルは、呪いを通じて他者の身体を乗っ取る力。宿主の身体を利用し、その能力を我が物として操ることができる」
「ヴァルゼオン……!」
リナがその名を噛みしめるように呟いた。
「リナの祖父を苦しめている原因の張本人で、魔王軍の元四天王だと!? じゃあ、セシリアは……」
俺は倒れている女へ視線を向けた。
「こいつに身体を乗っ取られていたってことか?」
「その通りだ。あの女の意識がどこまで残っていたかなど、今となっては知ったことではないがな」
黒い影は、まるで興味がないとでも言うように答えた。
「俺はただ、あの女の欲望につけ込み、呪いを植えつけただけだ。あとは実に簡単だった。権力を与え、力を与え、欲望を満たしてやればいい。人間というものは、実に扱いやすい」
「……ふざけんな」
俺は拳を握り締めた。リナの祖父を黒紫色の紋様で蝕み、街を支配し、騎士たちを従え、数え切れないほどの人々を苦しめてきた。その裏に、魔王軍の元四天王が潜んでいたなんて。しかも、こいつは自分のしたことを何とも思っていない。
黒い影の輪郭が、さらに濃くなった。
「この呪いは、俺自身だ。器を失おうと、呪いが残る限り、俺は再び宿主を見つけられる。人間が欲望を抱く限り、俺が消えることはない」
「……っ!」
周囲の騎士たちが、恐怖に顔を引きつらせた。先ほどまで領主の命令に従っていた彼らでさえ、目の前の存在には明らかな怯えを見せている。
リナは息を呑み、ノノも杖を握り直した。そして俺は、痛みも忘れて黒い影を見つめていた。
……嘘だろ。こいつ、セシリアよりも厄介なんじゃないか?。
領主を倒せば終わりだと思っていた。だが、俺たちが戦っていたのは、ヴァルゼオンに操られた器にすぎなかった。
かつてリナの祖父が対峙したという、呪いによって他者を乗っ取る魔王軍の元四天王。そいつが今、俺たちの目の前にいる。
「貴様、何をしようとしている!」
そのとき、瓦礫の向こうから騎士団長の声が聞こえた。そちらに目を向けると、騎士団長がヴィルの背後に回り込み、腕を首に巻きつけて締め上げていた。
「ギブッ! ギブギブ! おい、もう降参してるだろ! いい加減、離せって!」
「さっきまで俺を殺そうとしていた奴の言葉とは思えんな」
「それは悪かった! だから苦しいって言ってんだろうが!」
ヴィルが騎士団長の腕を必死に叩く。どうやら、こちらの騒ぎに気づいて駆けつけた騎士団長と、まだ揉み合っていたらしい。しかし、騎士団長は俺たちの前に浮かぶ黒い影と、地面に倒れたセシリアを見た途端、目を見開いた。
「なっ……そ、そんな……!」
彼は信じられないものを見るように、黒い影とセシリアを交互に見つめた。
「セシリア様が……乗っ取られていた、だと……?」
声が震えている。先ほどまでの敵意は消え、代わりに深い動揺が浮かんでいた。
「セシリア様ぁぁぁぁっ!!」
騎士団長は悲痛な叫びを上げた。
「おい、急に叫ぶな! 耳が痛え!」
ヴィルが思わず耳を塞ぐ。
騎士団長は拘束を解くと、セシリアのもとへ駆け寄ろうとした。だが、その前に黒い影がゆらりと動いた。
「……ふん。騒がしい連中だ」
黒い影から、禍々しい魔力が噴き出す。
「いいだろう。ここまで俺様の計画を邪魔してくれた礼だ。まずはこの街の人間を一人残らず殺してやる」
周囲の空気が凍りついた。
「そして、まずは忌まわしき老いぼれの娘だ。娘の首を刎ね、その首をあの老いぼれの目の前に突きつけてから、ゆっくり殺してやろう」
「……っ!」
リナが息を呑んだ。こいつはリナの祖父を知っている。それどころか、祖父に関係する人間を狙うつもりなのだ。
「お前……!」
俺は剣を握ろうとした。しかし、指先に力が入らない。立ち上がることすら難しい今の状態では、こいつに何かできるはずもなかった。黒い影は、そんな俺たちを見て愉快そうに笑う。
「さて……次はどの身体を使ってやろうか」
赤い目が、ゆっくりとノノへ向けられた。
「そこの小娘、なかなか面白い力を持っているな。先ほどの魔法……あの魔力は実に魅力的だ」
「……え?」
ノノが杖を握り直す。
「まさか、あたしの身体を狙ってるわけ?」
「察しがいいな。お前の身体をもらうぞ。あの女の身体より、よほど使い道がありそうだからな」
「ふ、ふざけないでよ! 誰があんたなんかに身体を渡すもんですか!」
ノノが後ずさる。
「来るなーっ! あたしの身体は王子様専用なんだから!」
「いや、何を言ってるんだお前は……」
こんな状況でも、そこだけは譲れないらしい。だが、黒い影はノノの言葉など気にも留めなかった。
「無駄だ」
黒い影が、一瞬でノノへ飛びかかった。
「きゃっ!?」
「ノノ!」
俺が叫んだときには、黒い影はすでにノノの身体へと入り込んでいた。ノノの身体が大きく震える。
「う……あ……っ!」
杖が手から滑り落ち、地面に転がった。ノノは頭を押さえ、苦しそうに膝をつく。
「クハハハハハッ! これはいい! 素晴らしい魔力だ! この身体ならば、以前よりもはるかに強大な力を振るえる!」
ノノの口から、あの男の声が響いた。
「ようやく、まともな器を手に入れたぞ! これで俺様の計画も――」
そこで、ノノの身体がゆっくりと立ち上がった。先ほどまで苦しんでいた様子が嘘のように、黒い影はノノの身体を確かめるように両手を開いたり閉じたりする。
「……なるほど。これほどの魔力を秘めていたとはな。実に素晴らしい」
黒い影は足元に転がっていた杖を拾い上げると、それを握りしめた。
「さあ、見せてもらおうか。この身体に秘められた力を!」
ノノの身体から、凄まじい魔力が膨れ上がった。
「ゼニススキル――《魔力極大》!」
空気が震え、周囲の魔力がノノの身体へと集まっていく。
「そして……《紅蓮焼野》!」
黒い影が杖を掲げ、魔法の発動を試みた。しかし――何も起こらなかった。
「……あ?」
魔力は確かに高まっている。だが、炎が生まれる気配はない。呪文を唱え直しても、杖を振っても、魔法は一向に発動しなかった。
「な、何だ……? なぜ発動しない!?」
黒い影は困惑したように杖を見つめた。
「馬鹿な! これほどの魔力があるのだぞ! なぜ俺様の命令に従わん!」
もう一度、ノノの身体に魔力を集中させる。だが、結果は同じだった。膨大な魔力が渦巻くだけで、肝心の魔法は形にならない。
「くそっ! どうなっている! この身体ならば、あの程度の魔法など容易に――」
「今だ! 押さえろ!」
俺はすかさず叫んだ。
「騎士団長! そいつを拘束しろ! 魔法を使えずに戸惑っている今がチャンスだ!」
「はっ、そうか。全員、動け! あの者を拘束しろ! セシリア様をお守りするのだ!」
「「「はっ!」」」
騎士たちが一斉に動いた。
「なっ!? 貴様ら、何を――!」
黒い影が杖を構え直すより早く、数人の騎士が左右から飛びかかった。ノノの両腕を押さえ込み、別の騎士たちが背後から身体を拘束する。
「ふざけるな! 俺様に触れるな!」
ノノの身体が激しく暴れる。だが、魔法を発動できないうえに、不意を突かれたことで、黒い影は騎士たちを振り払えなかった。
「くそっ! 離せ! この程度の拘束で、俺様を止められると思うな!」
「暴れるな!」
騎士の一人がノノの手首を押さえ、もう一人が握られていた杖を奪い取った。
「なっ!? 俺様の杖を――!」
「これで魔法は使えまい!」
騎士は奪った杖を、黒い影の手が届かない場所まで遠ざけた。
「ふざけるなぁぁぁっ! 返せ! それを返せ!」
ノノの口から、魔王軍元四天王の怒声が響き渡る。先ほどまで余裕たっぷりだった黒い影は、今や騎士たちに押さえ込まれ、杖まで奪われていた。
……何だ、こいつ。あれだけ偉そうにしていたくせに、魔法が使えないだけでこの有様か。いや、笑っている場合じゃない。多分魔法が発動しなかった理由はノノのチート能力はのデメリットだが、呪いそのものが消えたわけではないんだ。
俺は騎士団長へと視線を向けた。
「騎士団長! 絶対にそいつを逃がすな! また別の身体に移られたら、今度こそ手がつけられなくなるぞ!」
「分かっている! 全員、決して手を緩めるな!」
「「「はっ!」」」
騎士たちがさらに力を込め、黒い影を押さえつけた。
「くそっ……! なぜだ! なぜこの身体は俺様の力に応えんのだ!」
黒い影は拘束されたまま、悔しげに歯噛みした。
「……こうなっては仕方ない」
その声の調子が変わった。
「おそらくこの身体は、俺の呪いに完全には馴染んでいないらしいな。だが、問題はない。器など、いくらでも替えが利く」
赤い目が、騎士団長へ向けられる。
「そこの男。次は貴様の身体をもらうぞ」
「なっ……!」
騎士団長が身構える。黒い影の輪郭が揺らいだ瞬間、俺たちは理解した。こいつはノノの身体から抜け出そうとしている。
「させるかよ……!」
俺は剣を杖代わりにして立ち上がろうとした。だが、膝が震え、身体が言うことを聞かない。
くそっ……! 今、動けなかったら、また誰かが乗っ取られる!。
そのときだった。
「……待ちなさい」
かすれた声が聞こえた。地面に倒れていたセシリアが、ゆっくりと目を開けていた。
「セシリア様!?」
騎士団長が叫ぶ。セシリアは周囲を見回し、自分の身体を確かめるように手を動かした。そして、ノノの身体に取りついた黒い影を見た瞬間、表情を険しくした。
「……まだ、残っていたのか」
「ふん。目が覚めたか、セシリア。だが、もう遅い。貴様の身体は捨てた。次はこの男の身体をもらうだけだ」
黒い影が騎士団長へと伸びていく。セシリアはふらつきながらも、必死に声を張り上げた。
「リナ……!」
「は、はい!」
呼ばれたリナが、すぐにセシリアの方へ振り向く。
「アンデッド族には……回復魔法が有効だ……!」
「回復魔法……?」
「そうだ。そいつは生きた人間ではない。呪いによって形を保っている、死者に近い存在だ。通常の攻撃では倒しきれない。だが、回復魔法ならば、その存在そのものを消し去れる可能性がある……!」
セシリアは息を切らしながら、リナに懇願した。
「頼む……。ハイヒールで、あいつを浄化してくれ...…。チャンスは今しかない……!」
「分かりました……!」
リナは杖を握り締め、黒い影へと向き直った。しかし、黒い影はすでに騎士団長へと迫っていた。
「クハハハハッ! 馬鹿め! 回復魔法だと? そんなものがその距離から俺様に届くものか!」
黒い影が騎士団長の身体へ飛びかかる。
「今度こそ、この身体を――」
「《ハイヒール》!」
リナの杖から、柔らかな光が放たれた。その光は、騎士団長へ向かっていた黒い影を包み込む。
「……何!」
黒い影の動きが止まった。
「な、何だこれは……!?」
黒い輪郭が、まるで煙のように薄れていく。
「ば、馬鹿な! なぜ届く!? この距離から回復魔法が届くだと!?」
リナは杖を構えたまま、真剣な顔で答えた。
「私の回復魔法は、範囲が広いんです!」
「そんなふざけた回復範囲があってたまるかぁぁぁぁっ!!」
黒い影が絶叫した。赤い目が激しく明滅し、身体が崩れていく。ノノの身体から抜け出そうとしていた呪いも、騎士団長へ伸びていた影も、まとめて光に焼かれるように消えていった。
「俺様が……こんなところで……! まだ……まだ、世界を……!」
最後まで言い切ることはできなかった。黒い影は細かな塵となり、風に溶けるように消滅した。
静寂が訪れた。誰も、すぐには言葉を発せなかった。やがて、ノノを押さえていた騎士たちが、おそるおそる手を離した。
「……あれ? 身体が動く!」
ノノは自分の手足を確かめると、ゆっくりと立ち上がった。
「やったぁ! 戻ったぁ! あたしの身体、無事です!」
「よかった……本当に、よかった……!」
リナが安堵の息を吐いた。
「お前、さっきまで乗っ取られていたんだぞ。もう少し緊張感を持てよ……」
「えー? でも、もう終わったんでしょ? だったらいいじゃないですか、王子様♡」
「……まあ、そうだけどさ」
俺もようやく、張り詰めていた力を抜いた。
勝ったんだ。セシリアを操っていた魔王軍の元四天王を、今度こそ倒した。
「うおおおおおっ!」
どこかで騎士の一人が歓声を上げた。
「倒したぞ! あの化け物を倒したんだ!」
「セシリア様はご無事だ! 我らの街は救われたんだ!」
その声をきっかけに、周囲から歓声が広がっていく。騎士たちは互いの肩を叩き、街の人々も安堵の声を上げた。
ノノがこちらへ寄ってきた。
「王子様、今回は本当に危なかったわね。まさか、あたしの身体を乗っ取ろうとするなんて!」
「お前、乗っ取られてる最中も結構しゃべってたけどな……」
「だって、身体を勝手に使われるなんて嫌じゃないの、しかも、王子様専用なのに♡」
「だから、その専用って何なんだよ……」
いつもの調子で言い合っていると、少しだけ生きて帰れた実感が湧いてきた。だが、俺たちの傷が癒えたわけではない。疲労だって限界に近い。リナもノノも顔色が悪いし、俺に至っては今すぐ横にならなければ倒れそうだった。
そんな中、セシリアがゆっくりと立ち上がった。
「セシリア様!」
騎士団長がすぐに駆け寄ろうとしたが、セシリアは手で制した。
「大丈夫だ……。少し、身体の感覚が戻っていないだけだ」
セシリアは自分の手を見つめ、何度か指を握ったり開いたりした。
「……久しぶりだな。自分の意志で、自分の身体を動かすのは」
その声には、先ほどまでの傲慢さはなかった。彼女は覚束ない足取りで、一歩ずつ俺たちのほうへ歩いてくる。
俺たちは思わず身構えた。セシリアが再び敵になる可能性を、完全には捨てきれなかったからだ。だが、彼女は俺たちの前で立ち止まると、ゆっくりと頭を下げた。
「……すまなかった」
「え……?」
「我の身体が、どれほどのことをしたのか……すべてを覚えているわけではない。だが、意識がある時もあった。自分の身体が勝手に動き、人々を苦しめているのを、ただ見ているしかなかった」
セシリアの声が震えた。
「お前たちにも、街の者たちにも、取り返しのつかないことをした。どれほど謝罪しても許されることではない。それでも……謝らせてほしい。本当に、すまなかった」
彼女は深く頭を下げたまま、動かなかった。
「セシリア様……!」
騎士団長が慌てて声を上げる。
「そんな……! セシリア様がすべて悪かったわけではありません! あの魔王軍の元四天王に操られていたのですから、そこまで頭を下げる必要は……!」
「いや、違う」
セシリアは顔を上げた。
「確かに、あの男に身体を支配されていた。だが、すべてをあいつのせいにすることもできない。我自身が、あの男と契約したのだから」
その言葉に、騎士団長は口をつぐんだ。セシリアはしばらく目を伏せていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「……少し、私の話を聞いてくれないか」
俺たちは顔を見合わせ、頷いた。
「もちろんです」
リナが答えると、セシリアは小さく息を吐いた。
「この街は、もともとエルフたちが暮らしていた森だった」
セシリアは、崩れた街並みを見渡した。
「かつて、この森には多くのエルフが暮らしていた。森の恵みを受け、自然とともに生きていた者たちだ。だが、ある時、アルディア王都の軍勢がこの地に目をつけた。森を切り開き、街を建設し、王都の支配下に置くと一方的に宣言したのだ」
「……そんなことが」
リナが小さく呟く。
「我々は抵抗した。だが、王都の軍事力には敵わなかった。森は次々と切り開かれ、我々は故郷を奪われた。生き残った者たちは、仕方なく王都の支配を受け入れるしかなかった」
セシリアは拳を握り締めた。
「我は、その状況を変えたかった。王都に負けない軍事力を手に入れ、この街を独立させる。そして、いずれは王都そのものを変え、どの街も一方的に支配されることのない国にしたいと思っていた」
「それが……あんなことをした理由なのか?」
俺が尋ねると、セシリアは頷いた。
「そうだ。だが、理想を掲げるだけでは何も変わらなかった。独立するには兵力が足りない。兵力を増やすには金が必要だ。金を得るには人手が必要で、人手を集めるには力が必要だった」
彼女は自嘲するように笑った。
「我は悩み続けた。どうすれば王都に対抗できるのか。どうすれば、二度と故郷を奪われずに済むのか……。そんなある日、我の玉座に突然、あの魔王軍の四天王が現れたのだ」
セシリアの表情が暗くなる。
「そいつは我にこう言った。『力が欲しいか? 俺にお前の身体を預ければ、お前の思い描く街にしてやる』とな」
「……それで、契約したんですか?」
リナが尋ねた。
「そうだ。我は……その誘惑に負けた」
セシリアは唇を噛んだ。
「王都に対抗できる力が手に入るのなら、どんな代償でも払うつもりだった。我は自分の欲望に目がくらみ、そいつと契約してしまったのだ」
彼女は顔を上げ、俺たちを見た。
「だが、契約した直後、我は自分の身体の自由を奪われた。意識だけは残されていたが、声を上げることも、指一本動かすこともできなかった。あいつは我の身体を使い、好き勝手に振る舞い始めた」
セシリアの声に、悔しさが滲む。
「魔力の強いエルフや人間の魔術師たちを街に残し、それ以外の者たちは追い出した。強い兵力を得るためだと、あいつは言っていた。さらに、財力を確保するために地下市場を作り、人間を商品や道具のように扱い始めた」
「……あの地下市場も、全部……」
俺は拳を握り締めた。
「そうだ。我の身体を使い、あいつがやったことだ。だが、それを止められなかった私にも責任がある」
セシリアは一度、深く息を吸った。
「そして、ある日、あいつは私にこう言った。『お前の野望と俺の野望は同じだ。王都を滅ぼすんだろう? だから、お前の身体を借りた』とな」
彼女の目に、涙が浮かんだ。
「我は、王都に支配されない街を作りたかっただけだ。故郷を奪われた者たちが、二度と同じ思いをしなくて済むようにしたかった。だが、あいつの目的は違った」
セシリアは震える声で続けた。
「王都を滅ぼしたあと、魔王軍の勢力を率いて王都全域を支配する。そして、世界中の王国を次々と滅ぼし、すべてを自分の支配下に置く。それこそが誰にも支配されない真の平和だろう、クハハハハハ!……あいつは、そんなことを平然と言っていた」
彼女は、とうとう顔を覆った。
「我は……何もできなかった。自分の身体が人々を傷つけ、街を壊し、仲間を苦しめていくのを、ただ見ているしかなかった。悔しくて、悔しくて……何度も泣いた。自分の愚かさを、どれほど呪ったか分からない」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。セシリアのやったことが許されるわけではない。地下市場で苦しんだ人々が受けた仕打ちも、失われたものも、簡単には元に戻らない。それでも、彼女がずっと自分の身体の中に閉じ込められ、何もできずに苦しんでいたという話は、胸に重くのしかかった。
俺は痛む身体を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……まあ、事情はよく分かった」
セシリアが驚いたように俺を見る。
「タツヤさん……?」
リナが心配そうに声をかけてくるが、俺は小さく手を上げて答えた。
「お前たちは、自分たちの森を荒らされて、ずっといいように扱われてきたんだろ?」
俺は崩れた街並みを見渡した。
「森は、もう元には戻らないかもしれない。失ったものだって、簡単には取り返せないだろう。だけど……悔しいって気持ちは、俺にも分かる」
会社で働いていた頃、理不尽なことを押しつけられたこともあった。自分ではどうにもできない状況に追い込まれ、何もかも投げ出したくなったことだってある。もちろん、セシリアたちが経験したこととは比べものにならないだろう。それでも、自分の故郷を勝手に荒らされ、他人の都合で人生を振り回される悔しさは、少しだけ想像できた。
「自分たちの故郷を好き勝手に荒らされて、我が物顔で支配されるなんて、たまったもんじゃねえよな」
俺はセシリアを見た。
「だからさ。あんたの代わりに、俺がセルディア王国の王様を一発ぶん殴って、分からせてやるよ」
「……は?」
セシリアが目を丸くした。騎士団長も、周囲の騎士たちも、そろって固まっている。
「お、お前……本気で言っているのか?」
「もちろん。本当は一発で済ませるつもりだけど、話が通じなかったら二発目も考える」
「いや、そういう問題ではないだろう……!」
騎士団長が思わず突っ込んだ。セシリアは呆気に取られた顔をしていたが、やがて目元を拭った。
「……ふっ。馬鹿な男だな、お前は」
「よく言われるよ」
「王都の王に歯向かうなど、簡単にできることではないぞ。あの王がどれほどの力を持っているか、分かっているのか?」
「知らねえよ。まだ会ったこともないんだから」
「ならば、なおさら無謀ではないか!」
「まあ、そこは行ってから考えるさ」
俺は肩をすくめた。
「少なくとも、誰かが動かなきゃ何も変わらないだろ?」
セシリアは俺を見つめていた。やがて、彼女は小さく息を吐き、もう一度涙を拭った。
「……本当に、馬鹿な男だ」
そう言いながらも、その表情には先ほどまでなかった、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。
「それで……これからどうするつもりだ?」
セシリアが尋ねる。
「何か目的があって、この街に立ち寄ったのだろう?」
「ああ。俺たちは、リナの祖父を救うために聖命草を探しているんだ。その道中で、この街に宿を借りようと思っていたんだが……まさか、こんな大騒ぎに巻き込まれるとはな」
「おじい様を救うために、四大脅威の生息するあの山へ行くだと……」
リナが小さく頷いた。
「なるほど。ならば、この街で一番いい宿屋を紹介しよう。今回の件の詫びにもならないが、せめて身体を休めていってくれ」
「いいのか?」
「当然だ。お前たちには、命を救われたのだからな」
セシリアはそう言って、騎士団長へ顔を向けた。
「騎士団長。彼らを宿屋まで案内してくれ。必要なものがあれば、私の名で用意させよう」
「かしこまりました。すぐに手配します」
騎士団長は俺たちへ向き直った。
「タツヤ、リナ、ノノ、ヴィル……今回は本当にすまなかった。俺たちは、セシリア様の命令とはいえ、お前たちに刃を向けた。事情があったとはいえ、許されることじゃない」
「いや、もういいって。こっちだって、いろいろやり返したからな」
「それでも、だ。お前たちがいなければ、セシリア様も街もどうなっていたか分からない。本当に感謝している」
騎士団長は深く頭を下げた。周囲の騎士たちも、それに続いて頭を下げる。こうして、長かった戦いはようやく終わった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日の夜。俺たちはセシリアが紹介してくれた宿屋にいた。街でも一番格式の高い宿らしく、部屋は広く、ベッドもふかふかだ。食事まで用意してもらい、ようやく落ち着いて一息つくことができた。
「……出発してから、ずいぶん時間を食っちまったな」
俺はベッドの端に腰を下ろし、天井を見上げた。
異世界に来てから、いろいろなことがあった。ギルドでは最低ランク扱いされ、闇の組織や巨大なバッタと戦ったかと思えば、街では騎士団に捕まり、拷問まで受けた。挙げ句の果てには、街を支配する領主と戦い、その身体を乗っ取っていた魔王軍の元四天王まで相手にする羽目になった。……異世界って、もっとこう、のんびり冒険できるものじゃなかったのか?
「そうですね。予定では、もう少し先まで進んでいるはずでしたが」
ヴィルが頷いた。
「仕方ないですよ。あの街で起きていたことを放っておくわけにもいきませんでしたし……」
リナが申し訳なさそうに言う。
「そうそう。王子様が見捨てられるわけないものね♡」
ノノが楽しそうに笑った。
「……別に、そんな立派な理由じゃないけどな」
俺は頭を掻いた。
「目の前で困っている人がいたら、助けたくなる。それだけだよ」
実際、それだけだった。自分の能力がどれほど強くなったのかも、まだよく分かっていない。戦うたびに傷だらけになっているし、今回だってノノの魔法に巻き込まれて死にかけた。それでも、仲間がいて、助けたいと思う人がいるなら、前へ進むしかない。
「それとなんだが、魔王軍の元四天王ヴァルゼオンを倒したんだから、リナの祖父の呪いは解けたりしないのか?」
ふと気になって尋ねると、リナは俯き、静かに首を横に振った。
「そう簡単にはいかないんです。この世界の呪いというものは、いわば術者が残した力が対象に根づいたものなんです。術者本人を倒したからといって、すでにかけられた呪いまで消えるわけではありません」
「じゃあ、ヴァルゼオンを倒しても意味がなかったってことか?」
「そんなことはありません!」
リナは慌てて顔を上げた。
「ヴァルゼオンが生きていれば、呪いをさらに強められたり、別の呪いをかけられたりする危険もありましたから。これ以上、被害が広がることは防げたはずです。それに……おじいちゃんの仇を討てたことは、本当に皆さんに感謝しています」
リナはそう言いながらも、どこか悔しそうに唇を噛んだ。
「でも……おじいちゃんにかけられた呪いが消えたわけではありません。今も、あの呪いはおじい様の身体を蝕み続けています」
「……そっか」
俺は返す言葉を失った。ヴァルゼオンを倒せば、すべてが解決すると思っていたわけじゃない。それでも、少しくらい状況が好転するんじゃないかと期待していた。だが、現実はそう簡単じゃないらしい。
「まあ、なんだ。明日は、ようやく古代竜がいる山へ向かうぞ」
俺がそう宣言すると、リナが頷いた。
「はい。おじい様を救うためにも、聖命草を手に入れないといけませんから」
「そのためには、まず山頂付近まで行く必要があるな」
ヴィルが補足する。
「そういえば……」
俺はふと思い出し、荷物を漁った。
「ベルドの街で、住民からお礼にもらった地図があったんだよな」
「ああ、あの時のですか」
リナが思い出したように頷く。俺は荷物の中から、折り畳まれた古い地図を取り出した。何度も折り直された跡があり、端の部分は少し擦り切れている。
「さて、どれどれ……」
地図を広げてみると、山の周辺が細かく描かれていた。道らしき線が何本も伸びているが、途中で途切れている箇所も多い。
「……なんだこれ。道が途中でなくなってるぞ?」
「それはですね」
リナが地図を覗き込み、説明を始めた。
「山頂まで向かうには、ドワーフたちが運営している鉱山の洞窟を通る必要があるんです。山を登るにつれて危険なモンスターが増えるので、地上から山頂まで進むのは非常に困難なんですよ」
「なるほど。だから洞窟を使うのか」
「はい。ただ、鉱山として使われているのは入口付近だけです。山頂に近づくほど危険なモンスターが現れるようになったため、近年では奥まで採掘に行く者もほとんどいません」
リナは地図の途中を指でなぞった。
「そのため、私たちは現在使われている鉱山の奥から、昔使われていた古い坑道へ入ることになります。そこを進めば、山頂付近にある洞窟の出口まで抜けられるはずです」
「古い坑道か……。崩れたりしてなきゃいいけどな」
「そこは、実際に行ってみないと分かりませんね」
「まあ、行くしかないか」
俺は地図を折り畳み、荷物にしまった。
「よし。明日はその鉱山へ向かうぞ。今日はもう休もう。身体が限界だ」
「賛成です……。私も、もう眠くて……」
リナが小さく欠伸をした。
「じゃあ、王子様♡ おやすみなさーい!」
「お前は寝る前に、せめて杖を片づけろ」
「はーい♡」
ノノが杖を壁際に立てかける。ヴィルも寝る準備を始め、リナはベッドへ横になった。俺もようやく横になろうとした、その時だった。
『――タツヤさん』
「……っ!?」
突然、頭の中に声が響いた。聞き覚えのある声。忘れようにも忘れられない、あの女神の声だった。
『お久しぶりです。聞こえていますか?』
「お、お前……!」
俺は思わず身体を起こした。
「……どうしたんですか?」
隣にいたヴィルが、不思議そうにこちらを見た。
「いや、何でもない。ちょっと外の空気を吸ってくる」
「そうか、分かった」
俺はそれだけ言い残し、宿屋の外へ出た。
夜風が頬を撫でる。街はまだ復興の途中で、遠くから人々の話し声や、瓦礫を片づける音が聞こえていた。俺は人目の少ない場所まで歩いてから、頭の中へ意識を向けた。
「……おい、女神。今まで何してたんだよ」
『えっ? あ、あはは……。ちょっと、いろいろありまして。私だって、タツヤさんのことは心配していたんですよ?』
「心配してた奴の連絡頻度じゃねえだろ......」
十年ぶりに転移者を見つけたとか何とか言っていたくせに、ほとんど音沙汰なし。こっちは最低ランクの能力を持たされて、毎日命がけで生きているんだぞ。少しくらい様子を見に来てもいいだろう。……いや、そもそも、こいつに期待するほうが間違っているのかもしれない。
その時、女神の背後から別の声が聞こえた。
『あ、女神ちゃん。クッキー食べる?』
『あっ、いります! でも今はお腹いっぱいなので一枚だけ貰います。他のは後で食べるんで、しまっといてください』
「……」
ポリポリポリ、という音まで聞こえてきた気がした。
「お前……」
『ん? 何ですか、タツヤさん?』
「……いや、もういい。じゃあな。切るぞ」
『えっ、ちょっと待ってください! せっかく連絡したのに、もう切るんですか!?』
「しょうもない話をするために、ようやく連絡してきたんだろ?」
『しょうもなくないですよ! 私だって、タツヤさんのことを気にかけているんですから!』
女神の声が少し大きくなった。
……まあ、心配しているという言葉自体は嘘ではないのかもしれない。だが、どうにも信用できない。
『それより、タツヤさん。ひとつ聞いてもいいですか?』
「何だよ」
『もしかして……冒険者になってたりしませんよね?』
「……冒険者っていうか、人助け?」
『……はい?』
俺は、これまでの経緯を簡単に説明した。仲間と旅に出たこと。リナの祖父を救うために特別な薬草を探していること。闇の組織やバッタと戦ったこと。街の問題に巻き込まれたこと。領主と戦ったこと。そして、魔王軍の元四天王にまで遭遇したこと。話を聞くにつれ、女神の反応はどんどん大きくなっていった。
『えええええええええっ!?』
「うるせえ! 脳内で叫ぶな!」
『ちょ、ちょっと待ってください! タツヤさん、ダメですよ!』
「何がだよ」
『タツヤさんは、Dランクなんですよ!? そんな危険な場所へ行っちゃダメです! 早くグランツの街へ帰ってください!』
「いや、無理だろ。今さら放り出せるわけないじゃねえか」
『で、でも……!』
「リナたちは俺の恩人なんだよ。あいつがいなかったら、俺はとっくに死んでた。だから、今度は俺が助ける番なんだ」
しばらく、女神から返事がなかった。
俺は少しだけ声を落とした。
「……心配してくれるのはありがたいけどさ。俺だって、何も考えずに突っ込んでるわけじゃないんだ」
『……タツヤさん』
女神の声が震えた。
『ごめんなさい……』
「……は?」
『ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……!』
突然、女神が泣き出した。
「お、おい!? どうしたんだよ、急に!」
『だって……だって、タツヤさんがこんな危険な目に遭っているなんて……!』
「いや、泣くほどのことじゃ――」
『あります! ありますよ! 私が、ちゃんと……ちゃんと、あなたを……!』
言葉が途切れ、女神はしばらく泣き続けた。俺は困惑しながらも、何も言えずにいた。さっきまでクッキーを食べていたくせに、急にどうしたというのだろう。……いや、今のは関係ないか。
やがて女神が、申し訳なさそうな声で口を開いた。
『……タツヤさん。私、あなたに謝らなければならないことがあるんです』
「……何だよ」
『私が、この十年間……どうしてずっと、異世界へ送り出す人を見つけられなかったのか。その本当の理由を、正直にお話しします』
女神の声は、いつもの軽い調子とは違っていた。




