02 異世界に来て早々捕まりました
俺は異世界の景色に見とれていた。見渡す限りの草原。遠くには森が広がり、頭上には見慣れないほど澄んだ空が広がっている。日本ではまず見ることのできない景色に、しばらくの間、俺はその場に立ち尽くしていた。すると、不意に頭の中へ声が響いた。
『聞こえますかー?』
「うおっ!?」
突然の声に驚き、思わず周囲を見回す。しかし、辺りには草原が広がっているだけで、人影らしきものは見当たらなかった。
『周りを探しても無駄ですよ。今はあなたの頭の中に直接話しかけていますから』
「なるほど……そういうことか」
姿は見えないが、声には聞き覚えがある。さっき俺を異世界へ送り出した女神だ。
『それでは、まず異世界での基本的な操作について説明しますね』
「基本操作?」
『はい。まずは「ログ」と言ってみてください』
「ログ……?」
半信半疑で口にした瞬間、目の前に半透明の画面が浮かび上がった。
「おおっ!?」
思わず声が出た。画面には文字が並んでいるが、少なくとも俺が普段使っていたスマートフォンやパソコンとは違う。不思議なことに、目の前にあるのに物体としての実感がなかった。
『これがログです。今までに起きた出来事などを確認できますよ』
「ゲームみたいだな」
『異世界ですからね!』
「いや、異世界だからって、そういうものなのか……?」
もっとこう、魔法陣がどうとか、呪文がどうとか、そういう説明を想像していたが、まさか最初に教わるのがゲームのメニュー画面みたいなものだとは思わなかった。
『次は「持ち物」と言ってみてください』
「持ち物」
今度は別の画面が表示された。
「おお、こっちも出た!」
『便利でしょう?』
「まあ、確かに便利そうではあるけど……」
その後も、俺はいくつかの基本操作を教わった。どうやらこの世界では、ログや持ち物の確認だけでなく、自分のステータスを確認することもできるらしい。異世界に来たばかりの俺にとっては、ありがたい機能だ。少なくとも、何も分からないまま手探りで生活するよりは、ずっと助かる。
『それでは次に、あなたのチート能力について説明しますね!』
「おっ、いよいよか」
ようやく本題だ。女神から与えられたチート能力。これが分からなければ、異世界で何ができるのかも分からない。俺は画面を見つめながら、説明の続きを待った。
『えーっと、あなたの能力はですね――』
『……あ、この食べ物美味しい〜』
「……は?」
今、何か聞こえた気がする。
『これ、美味しいですね〜。なにこれ、すごく美味しいです!』
「お前、また俺の食べ物食ってるのか?」
『だって美味しいんですもん』
「いや、説明中だろ……」
『大丈夫です。食べながらでも説明できますから!』
「本当に大丈夫かよ……」
こいつ、さっきから自由すぎるだろ。そもそも、どうやって俺の食べ物を食べているのかも分からない。頭の中に直接話しかけられるくらいだから、何かしら不思議な力を使っているのだろうが……。今はそんなことより、ちゃんと能力の説明をしてほしい。
『それでは改めまして、あなたのチート能力は――』
そのときだった。
「……ん?」
視界の端で、何かが動いた。草むらの向こう側。少し離れた場所に、何かがいる。最初は風に揺れる草かと思った。しかし、風の動きとは明らかに違う。何かが、こちらの様子をうかがうように身を潜めている気がした。
「……なんかいる?」
俺は目を細め、そちらへ視線を向けた。すでに辺りは暗くなり始めている。月明かりだけでは細部までは見えず、最初はぼんやりとした影しか分からなかった。だが、じっと目を凝らしているうちに、少しずつその姿が浮かび上がってきた。緑色の肌。小柄な体。尖った耳。そして、手に握られた大きな棍棒。
「……緑色の……モンスター?」
見た目だけなら、ゲームやファンタジー作品でよく見るゴブリンに似ている。もっとも、ここはゲームの中ではない。本当に人間を襲う魔物がいる世界なのだ。そう考えると、目の前の存在をただの雑魚モンスターだと決めつけるわけにはいかなかった。俺が警戒しながら見つめていると、そいつがゆっくりとこちらを向いた。
「え?」
目が合った。次の瞬間、ゴブリンの姿が消えた。
「……は?」
いや、違う。消えたんじゃない。こちらに向かって、一気に距離を詰めてきたのだ。
「――っ!?」
速い。あまりにも速すぎて、何が起きたのか理解するより先に、ゴブリンは目の前まで迫っていた。小柄な体からは想像もできない速度だ。地面を蹴った瞬間、距離そのものが消えたかのように見えた。ゲームで見たゴブリンとは明らかに違う。少なくとも、俺が知っているファンタジー作品の雑魚モンスターと同じ感覚で考えていい相手ではなかった。
「ちょ、待っ――」
ゴブリンが棍棒を振り上げる。避けようとしたが、間に合わない。
ドゴォンッ!!
「ぐっ……!」
凄まじい衝撃が頭を突き抜けた。視界が激しく揺れ、体から力が抜けていく。殴られた箇所がどうなっているのかすら分からない。ただ、たった一撃で意識が遠のくほどの衝撃を受けたことだけは理解できた。その直後、目の前に文字が浮かび上がった。
《打撃耐性+5を獲得しました》
「……なんだ、これ?」
視界の隅に表示された文字を、ぼんやりと見つめる。
打撃耐性……?さっき女神から教わったログや持ち物とは違う。いったい、何の表示なのだろうか。いや、それよりも――。頭が重い。目の焦点が合わない。大型の魔物にでも殴られたかのような威力だった。あんな小さな体のどこに、これほどの力があるというのか。
『えーっと、それであなたの能力はですね――』
頭の中では、相変わらず女神の声が聞こえていた。どうやら、こちらで何が起きているのか気づいていないらしい。
「……やば……」
もう立っていられなかった。視界が徐々に暗くなり、目の前のゴブリンの姿もぼやけていく。何かを考える余裕も、助けを求める余裕もない。そのまま、俺の意識は途切れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……ん」
意識が戻ってきた。最初に感じたのは、頭の痛みだった。
「……痛っ」
思わず顔をしかめる。頭の奥がずきずきと痛み、体にも妙なだるさが残っていた。俺はゆっくりと目を開けた。
「……ここ、どこだ?」
目の前に広がっていたのは、薄暗い洞窟だった。壁も床もごつごつとした岩で覆われている。周囲には自然の岩肌が続き、草原らしきものはどこにも見当たらない。どうやら、俺が倒れているのは洞窟の中らしい。
いったい、どうしてこんな場所にいるんだ?確か、俺は草原で女神から説明を受けていたはずだ。その途中でゴブリンのような魔物に襲われ、棍棒で殴られたところまでは覚えている。そこから先の記憶はない。まさか、あの魔物にここまで運ばれたのだろうか。
嫌な予感を覚えながら、俺は洞窟の入り口へ目を向けた。外から朝の光が差し込んでいる。入口の向こうには、朝日を浴びた草原がわずかに見えた。
「……もう朝なのか」
どうやら、気を失っている間に夜が明けたらしい。少なくとも、かなり長い時間が経過しているようだった。そのとき、右手に違和感を覚えた。
「……ん?」
動かそうとしても、右手がうまく動かない。何かに引っ張られているような感覚がある。俺は視線を落とした。
「……え?」
右手首には、太い鎖が巻き付けられていた。鎖は手首を固定したまま、頭上へと伸びている。どうやら天井の岩に取り付けられているらしい。
「いや、なんだよこれ……」
慌てて鎖を引っ張ってみる。
ガチャッ。
金属音が洞窟内に響いた。当然だが、鎖は外れない。そこでようやく、自分の体の状態に気づいた。
「……あれ?」
足元を見る。地面が、妙に遠い。両足を伸ばしてみても、岩の床には届かなかった。体を動かすたびに鎖が揺れ、手首に食い込む。
「……俺、浮いてる?」
どうやら俺は、右手首を鎖で固定され、天井から吊り下げられているらしい。片手を吊られた状態では、体勢を立て直すことすら難しい。無理に動けば、手首に痛みが走る。
「いやいやいや……」
何がどうなっているんだ。異世界に来たばかりだぞ?まだチート能力の説明すら終わっていない。ログや持ち物の使い方を教わって、これから異世界生活が始まるところだったはずだ。それなのに、気を失ったと思ったら洞窟で目覚め、今度は鎖で吊るされている。
「なんで俺、こんなことになってんだよ……」
思わずため息が漏れた。あのゴブリンに襲われたことと、ここに吊るされていることには、何か関係があるのだろうか。もし、あいつに捕まったのだとしたら……。
「……異世界生活、始まったばっかりなんだけど」
俺は頭の中で、さっきまで聞こえていた女神の声を思い出した。あいつなら、何か知っているかもしれない。少なくとも、俺がこんな目に遭っている間も、のんきに食べ物を食べながら説明を続けていたはずだ。
「おい、女神。聞こえてるか?」
呼びかけてみる。だが……返事はない。
「おーい。説明の続きはどうしたんだよ」
もう一度呼びかけてみたが、やはり何の反応もなかった。まさか、通信が切れたとでもいうのか。それとも、俺が何かやらかしたせいで見捨てられたのだろうか。
「……勘弁してくれよ」
薄暗い洞窟の中、俺は天井から吊るされたまま途方に暮れた。異世界に来て、まだ一日も経っていない。なのに、俺の異世界生活は、どうやら想像していたものとは大きく違う方向へ進み始めているらしい。




