01 十年ぶりの異世界行き
俺の名前は、綾瀬タツヤ。34歳。元会社員で――現在はニートだ。身長はそこそこ高く、体格も普通。黒髪は少し伸び気味で、寝癖がついていることも珍しくない。顔立ちは、特別イケメンというわけじゃない。かといって、そこまで酷いわけでもない。要するに――どこにでもいる普通の男だ。
そんな俺が仕事を辞めたのは、数年前のことだった。以前勤めていた会社は、いわゆるブラック企業だった。新卒で入社してからというもの毎日のように続く長時間労働。休日にまで鳴り響く電話。そして、過労で倒れていく同僚たち。中には、二度と職場に戻ってこなかった人もいた。それでも会社は止まらない。誰かが倒れれば、残った人間がその分まで働かされる。頑張れば状況がよくなるわけでもなく、頑張るほど自分の首が締まっていく。そんな環境だった。
俺は、そんな毎日に必死に耐えていた。だが、ある日ふと思った。
……こんな生活、いつまで続けるんだ?働いて、疲れて、眠って、また働く。その先に何があるのか、俺には分からなくなっていた。もちろん、すべての会社が同じだとは思わない。世の中には、まともな会社だってあるはずだ。だが、次の会社も同じだったら――そう考えると、また一から仕事を探す気力すら湧かなかった。
結局、俺は仕事中に過労で倒れ、そのまま会社を辞めることになった。最初は一か月ほど休んでから、また仕事を探すつもりだった。ところが、仕事を辞めたことで毎朝早く起きる必要がなくなった。目覚ましに叩き起こされることも、疲れた身体を引きずって出勤することもない。今まで当たり前だった苦痛が、一気になくなったのだ。
そこで始めたのが、ゲームだった。
「……あと一時間だけ」
そう言ってゲームを始める。気づけば朝になっている。昼頃に起きて飯を食べ、またゲームをする。そんな生活を続けているうちに、一か月が過ぎ、半年が過ぎ――気づけば何年もの時間が経っていた。最初のうちは、いつでも仕事に戻れると思っていた。少し休めば気力も回復するだろうし、働こうと思えば働ける。そう考えていたのだ。だが、時間が経っても失った気力は回復せず、時間が経つほど、仕事を探すこと自体が億劫になっていった。働かなければいけないことは分かっているのに、行動に移せなかった。親からは何度も「そろそろ働いたら?」と言われた。そのたびに、俺はこう答えてきた。
「……そのうち」
便利な言葉だと思う。いつ働くのかも、何をするのかも決めなくていい。相手をひとまず納得させて、自分は何も変えずに済む。もちろん、そんな返事を繰り返している自分が情けないことくらい分かっていた。いつまでもこの生活を続けられるわけではないことも理解している。それでも、一度失った気力は、簡単には戻らなかった。そして今日も――俺は自分の部屋でゲームをしている。
「……なんか、面白いこと起きねぇかな」
ベッドに寝転がりながら、ゲームを起動する。画面に映っているのは、剣と魔法の世界。巨大な城、広大な草原、空を飛ぶドラゴン。魔法を使う美少女に、勇者と魔王。現実とは正反対の世界だった。
「異世界に行けたらいいのにな……」
ゲームを操作しながら、そんなことを考える。
「……まあ、そんなことあるわけないけど」
そう呟いた、そのときだった。
「……これ、美味しいですね」
「…………」
知らない女の声がした。
俺はゲーム画面から目を離し、ゆっくりと顔を上げる。
「……え?」
部屋の窓枠。そこに――女が座っていた。しかも、俺の机の上に置いてあった飯を勝手に食べている。
「…………」
「…………」
目が合った。
……いや、待て。なんで女がいるんだ? しかも、窓枠に座って飯を食っている。あまりにも意味が分からない光景に、俺の思考が一瞬止まった。
「……それ、俺の晩飯なんだけど」
「はい」
女は何でもないことのように答え、もう一口食べた。
「美味しいですよ?」
「いや、感想を聞いてるんじゃないんだけど」
こいつ、いったい何者なんだ?そもそも、どうやって部屋に入ってきた?ドアの鍵は閉めていた。窓だって閉めていたはずだ。そもそも俺の部屋に勝手に入ってくる奴なんていない筈だ。
女は食べ物を置くと、俺の方を向いた。
「私は女神です」
「…………」
「本物ですよ?」
「いや、急に女神って言われても……」
女は少し困ったように笑った。
「では、証明しましょう」
そう言って右手を軽く上げた。すると、指先に小さな光が生まれる。光はふわふわと宙を漂い――やがて、一羽の白い鳥へと姿を変えた。白い鳥は部屋の中を一周すると、女の手の上へ戻ってきて光の粒となり消えた。
「……おお」
思わず声が漏れた。手品、という可能性も考えた。だが、光が鳥へと変わる様子は、どう見ても普通の手品とは違う。少なくとも、俺には仕組みがまったく分からなかった。
「これで信じていただけましたか?」
「まあ……普通の人間には無理そうだな」
「でしょう?」
女神は満足そうに笑った。
まあ少なくとも、ただの不審者ではなさそうだな。……いや、勝手に人の部屋へ入って飯を食べている時点で、不審者なのは間違いないのだが。
だが、俺は別のところが気になった。白い服。金色の装飾。どう見ても女神らしい格好だ。ただし――
「……だけど、随分と小汚い格好だな」
「…………」
女神の視線が足元へ落ちる。
白い服の裾には土がついている。靴は泥だらけ。髪には葉っぱまで絡まっていた。肩には草までついている。どう見ても、長い間どこかを歩き回っていたような姿だった。女神というからには、もっと神々しくて、近寄りがたい存在を想像していたのだが……。目の前の女は、どちらかというと山道で遭難してきた人に見える。
「……何してたらそんなに汚れるんだ」
「仕事です」
「仕事?」
「はい」
女神は真面目な顔で答えた。
「私は人間界へ行って、異世界へ行ってくれる人を探しているんです」
「……異世界へ行ってくれる人?」
「そうです」
女神は頷いた。
「私は自分で人間界へ行って、候補者を探しています」
「へえ……」
「ですが私、ものすごく異世界に適合する人を見つけるのが苦手でして……」
「……うん」
「気づけば十年経っていました」
「十年!?」
「はい」
女神は真顔で頷く。
「十年間、誰一人として見つけられていません」
「そんなことある?」
「あります」
「自信満々に言うことじゃないだろ」
目の前の女神は、少し俯いた。
「そのせいでノルマも達成できず……」
「ノルマあるんだ」
「女神にも仕事はあります」
「大変だな……」
「はい……」
女神は深いため息をついた。
「ノルマを達成できないので、給料も十年間もらえていません」
「……え?」
「貯金もありません」
「…………」
「食べるものもありません」
そう言って女神は、俺の机の上を見る。
「だから、これをいただきました」
「それ俺の飯だからな?」
「すみません……」
女神は申し訳なさそうに頭を下げた。
「……まあ、飯くらいならいいけど」
「本当ですか!?」
女神の顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「そんなに喜ぶ?」
「久しぶりにまともな食事にありつけるので……」
「それは……大変だったな」
女神は少しだけ笑った。
女神は改めて俺の部屋を見回した。机の上に置かれたゲーム機やモニター、棚に並んだ漫画。そして、先ほど部屋の前に置かれていた冷めた晩飯。最後に、モニターに映し出された剣と魔法の世界へと目を向けると、しばらくそのゲーム画面を眺めていた。
「……」
「何?」
女神は俺を見る。
「異世界生活、興味ありませんか?」
「……は?」
あまりにも突然だった。
「剣と魔法の世界ですよ」
女神はゲーム画面を指差す。
「魔物がいて、冒険者がいて、魔法があります」
「……まあ、興味はあるけど」
「でしたら――」
女神は俺を見る。
「異世界、行ってみませんか?」
「…………」
俺はゲーム画面に目を向け、それから自分の部屋を見渡した。
仕事を辞めてから、何年も同じ場所で足踏みしてきた。自分を変えようとしても、結局何も変えられなかった。このまま何もせず、うだうだと生きていても、きっとくだらない人生になるだけだろう。それなら、異世界に行ってみるのも悪くない。そこなら、今までとは違う生き方ができるかもしれない。何より、本当に異世界へ行けるのなら、そこは俺がずっと望んでいた世界だ。何が起きても後悔はしない。そう思えるほど、このチャンスに賭けてみたい気持ちがあった。
俺は女神へと視線を向けた。
「……じゃあ、行ってみるか」
半信半疑ながらも、俺はそう答えた。
「…………」
女神が固まった。
「え?」
「だから、行ってみる」
「本当に?」
「うん」
「本当に本当ですか!?」
「なんでそんなに確認するんだよ」
次の瞬間、女神の顔がみるみる明るくなった。
「やった……!」
小さく拳を握る。
「やりました……!」
そして――。
「十年ぶりです!!」
「そんなに!?」
「十年ぶりの候補者です!」
女神は嬉しそうに俺の手を握った。
「ありがとうございます!」
「いや、俺も異世界には興味あったし……」
「ありがとうございます!」
「だから、そんなに喜ばなくても」
「十年間、誰ともろくに話を聞いてもらえなかったんです!」
「……それはまあ、頑張ったな」
女神は嬉しそうに笑った。
「では、さっそく異世界へ行きましょう!」
「もう?」
「もちろんです!」
女神が両手を広げる。すると、部屋の中に白い光が集まり始めた。
「あ」
俺はふと思い出した。
「異世界に行ったら、俺は何をすればいいんだ?」
「好きなことをすればいいですよ」
「冒険者とか?」
「はい。冒険者でも、商人でも、自由に生きてください」
「へえ……」
女神が俺を見る。
「それでは、異世界へ行く前に――あなたの望むものを一つ、授けましょう」
「なんでも?」
「はい。あなたが望むものなら、なんでも構いません」
「じゃあ……チート能力とかも?」
「もちろんです」
女神は笑顔で頷いた。
「能力でも、武器でも、特殊な力でも。あなたが望むものを一つだけ授けます」
「……じゃあ、チート能力がいいな。便利で強そうなやつ」
俺は少し期待した。
「分かりました」
「ほんとにいいの? どんな能力?」
女神はニコッと笑った。
「それは――着いてからのお楽しみです♪」
「え?」
「大丈夫ですよ」
女神は自信満々に胸を張る。
「ちゃんとチート能力を授けますから!」
「……ほんとにチート?」
「はい!」
それを聞いて、俺は少し笑った。
「じゃあ、楽しみにしとく」
「はい!」
白い光が、さらに強くなる。視界が真っ白に染まっていく。
「ようこそ――」
女神の声が聞こえる。
「異世界へ!」
次の瞬間、俺の身体は光に包まれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目を開ける。そこにあったのは、見たこともない景色だった。青い空。広い草原。遠くには巨大な森。そして――。
「……ドラゴン?」
空を飛ぶ巨大な生物。ゲームの中でしか見たことのなかった光景が、目の前に広がっている。俺は思わず周囲を見回した。草の匂いがする。頬を撫でる風も感じる。画面越しに見ていた景色とは違い、ここには実際の空気があり、音があり、匂いがある。
夢ではない。そう思いたいところだったが、あまりにも現実離れした光景だったので、俺は疑心暗鬼になり頬をつねってみたがやはり感覚は現実だった。
「本当に……異世界だ」
こうして俺は、女神から与えられたチート能力とともに、異世界での新たな人生を歩み始めた。ただし、その能力が後に「チート能力の中でも最低ランク」と呼ばれることになるとは、このときの俺は知る由もなかった。
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