15 ベルドの街に迫る食糧危機
ジェルドとの戦いを終えた俺たちは、村人たちに囲まれていた。
「本当に申し訳ありませんでした!」
村長が深々と頭を下げる。その隣では、ほかの村人たちも申し訳なさそうに俯いていた。
「皆さんを何度も同じ場所へ戻し、足止めしてしまったこと。それに、毒入りのスープで命まで奪おうとしたこと……何とお詫びすればいいのか」
村長の声は震えていた。
「なるほど……。何度も同じ場所を行き来していたのも、そういうことだったんですね」
俺が納得すると、村長は苦しそうに頷いた。
「……はい。私たちの中に、空間を歪めるチート能力を持った者がいるんです。闇の組織の連中は、その能力を使って皆さんを足止めするよう命令してきました。逆らえば、家族やほかの村人を殺すと脅されていたんです。毒入りのスープも、私たちが用意させられました。皆さんを騙すつもりなど、本当はなかったんです……!」
村長は悔しそうに唇を噛んだ。
「闇の組織の連中は、普段から村人として生活していました。私たちも、まさかあんな連中だとは思いもしなかったんです。今日、皆さんが戦っている音が聞こえてきて、何事かと様子を見に行ったんです。すると、突然態度を変え、私たちを脅して村人たちを捕らえてしまいました」
「そういうことか……」
普段は何食わぬ顔で村に溶け込み、機会をうかがっていたわけだ。
ジェルドが俺たちのランクを知っていたのも、おそらく、ここへ来るまでの戦いを見ていたからだろう。同じ闇の組織に所属する能力者から情報を得て、俺たちの中にDランク冒険者がいると察した。そして、あらかじめ俺たちを始末する準備を整えていたのかもしれない。そう考えると、背筋が冷たくなった。
「……もういいですよ。みんな無事だったんですから」
俺がそう答えると、村長は驚いたように顔を上げた。
「ですが……!」
「あなたたちだって、好きで協力していたわけじゃないんでしょう? 家族や仲間を人質に取られていたなら、逆らえなくても仕方ありませんよ」
もちろん、毒入りのスープを飲まされそうになったことを、簡単に水に流せるわけじゃない。それでも、目の前の人たちがどんな思いで命令に従っていたのかを考えると、責める気にはなれなかった。
「それより、皆さんが無事でよかったです」
村長はしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて再び深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その時、村長が何かを思い出したように顔を上げた。
「それと、皆さんが乗ってきた騎獣の馬車ですが……すでにベルドの街へ向かって出発しています」
「えっ、もう行っちまったのか?」
「はい。あの御者は普段からこの村にも立ち寄っています。村の異変に気づき、ここも危険だと判断して先に進んだのだと思います」
「マジか……」
せっかくベルドへ向かう馬車に乗れたと思ったのに、また歩くことになるのか。この世界に来てからというもの、どうにも移動ひとつ満足にいかない。
そんなことを考えていると、村長が申し訳なさそうに続けた。
「今夜も、次の街へ向かう馬車が来るはずです。よろしければ、それに乗っていかれてはどうでしょうか」
「本当ですか?」
リナがぱっと顔を明るくした。
「ええ。それから、せめてものお詫びに謝礼もお渡ししたいと思っています」
「いや、謝礼はいりませんよ」
俺は首を横に振った。
「俺たちの方こそ、すみません。ここに立ち寄ったせいで、皆さんが危ない目に遭ったんですから」
「そんなことはありません!」
村長は強く否定した。
「皆さんに悪気があってしたことではないでしょう。それに、私たちはあの連中に逆らえず、何もできなかった。そんな私たちを助けてくださったのは、皆さんです」
村長は俺たち一人ひとりの顔を見た。
「被害に遭った私たちが、助けてくださった皆さんを責める理由などありません。どうか、ご自分を責めないでください」
「……ありがとうございます」
俺は小さく頭を下げた。
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。けれど、完全に気持ちが晴れたわけではなかった。俺たちがこの村に立ち寄らなければ、ジェルドたちが正体を現すこともなかったのだろうか。そんな考えが、頭の片隅に残っていた。
村人たちに見送られながら、俺たちは村の入口へ向かった。しばらくすると、遠くから騎獣の足音が聞こえてくる。
「おっ、来たみたいだな」
ヴィルが顔を上げた。
やがて、角の大きな鹿型の魔獣――ホーンディアに引かれた馬車が姿を現した。俺たちは御者に事情を説明し、ベルドまで乗せてもらうことになった。
「皆さん、本当にありがとうございました!」
「どうかお気をつけて!」
村人たちが手を振ってくれる。俺たちも手を振り返し、馬車へ乗り込んだ。
「それじゃあ、元気でな!」
馬車がゆっくりと動き出す。村の姿が少しずつ遠ざかっていった。
こうして俺たちは、次の街ベルドへ向かうことになった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
馬車に揺られながら、俺は窓の外を眺めていた。ジェルドを倒せたことはよかった。村人たちも無事に助けられた。それでも、胸の奥には妙な重さが残っていた。
「……なあ、二人とも」
「ん? どうした、タツヤ」
隣に座っていたヴィルが振り向く。向かいに座るリナも、こちらを見た。
「俺ってさ……本当に、この世界に存在していていいのかな」
「……え?」
リナが目を見開いた。
「急にどうしたんですか?」
「いや……」
俺は自分の手を見つめた。
「俺がこの世界に来てから、いろんなことがあっただろ。ゴブリンに襲われて、冒険者としては最低ランクだって言われて、今度は村で殺されかけた」
思い返せば、ろくなことがない。もちろん、楽しいことだってあった。リナやヴィルと出会い、一緒に依頼をこなし、くだらないことで笑い合う時間もできた。それでも、危険な目に遭うたびに、どうしても考えてしまう。
「それに、俺を狙っている闇の組織がいる。あいつらは俺を捕まえるためなら、仲間や関係のない人たちまで巻き込むかもしれない」
今回の村だってそうだ。俺たちが立ち寄ったことで、ジェルドたちに正体を現すきっかけを与えてしまったのかもしれない。
「俺がこの世界にいなければ、みんなが危険な目に遭うこともなかったんじゃないかって……そう思うんだ」
口にしてみると、思っていた以上に情けない言葉だった。自分のことを守るだけでも精いっぱいなのに、誰かを危険に巻き込む原因にまでなっているのだとしたら。俺は、本当にここにいていいのだろうか。
「……タツヤさん」
リナが、そっと俺の顔を覗き込んだ。
「タツヤさんは、私のおじいちゃんを助けようとしてくれているじゃないですか」
「……」
「聖命草を手に入れるために、危険な場所へ向かおうとしてくれている。それだけでも、私は本当に感謝しているんです」
リナはまっすぐ俺を見つめた。
「それに、さっきの村の人たちだってそうです。タツヤさんたちが助けたから、みんな無事だったんですよ?」
「でも……」
「闇の組織が悪いことをしているのに、どうしてタツヤさんが自分の存在を責めるんですか?」
リナの言葉に、俺は何も返せなかった。
確かに、俺がこの世界に来なければ、今回の事件に巻き込まれることもなかったかもしれない。だが、それは逆に言えば、村人たちを助けることもなかったということだ。俺がいたから危険が生まれたのか。それとも、俺がいたから救えたのか。そんなこと、簡単に答えが出るはずもなかった。
今度はヴィルが口を開いた。
「俺だって、お前と一緒に仕事をするようになってから、結構楽しいんだ」
「……楽しい?」
「ああ。お前がいなかったら、あんなふうにトランプやオセロで遊ぶこともなかっただろうしな」
「……そんなことでいいのか?」
「そんなことって言うなよ。俺にとっては大事なことなんだ」
ヴィルは少しだけ真面目な顔になった。
「そりゃあ、失敗することもあるだろうさ。でも、それでお前がこの世界にいちゃいけないなんて話にはならないだろ?」
「……」
「お前はお前だ。Dランクだろうが、闇の組織に狙われていようが、俺たちの仲間であることに変わりはねえよ」
二人の言葉が、胸に染み込んでいく。
俺はまだ弱い。できないことも多いし、誰かに頼らなければならないことだってある。それでも、俺がこの世界で過ごした時間まで、間違いだったことにする必要はないのかもしれない。
「……ありがとう」
俺は小さく笑った。
「少し、気が楽になったよ」
「それならよかったです!」
リナが嬉しそうに笑う。ヴィルも満足そうに頷いた。
窓の外では、夕暮れの光が草原を照らしていた。その景色を眺めていると、遠くに広がる畑が目に入った。どこまでも続く緑の畑。整然と並んだ作物が夕日に照らされ、風に揺れている。
「……あれ、すごいな」
「ベルドは農作物が有名な街ですから、当然ですよ」
リナが笑みを浮かべながらそう言った。
「へえ。じゃあ、街に着いたらうまいもんが食えるかな」
「ヴィルさんは、結局食べ物のことなんですね」
「そりゃあ大事だろ! 腹が減ってちゃ、戦いだってできねえんだからな」
「それはそうですけど……」
二人のやり取りを聞きながら、俺は思わず笑みをこぼした。さっきまで胸の奥にあった重苦しさが、ほんの少しだけ薄れていく。この時間を守りたい。
そう思った、その時だった。
「……ん?」
畑の上空に、黒いモヤのようなものが見えた。最初は遠くに煙でも立ち上っているのかと思った。だが、よく見ると、黒い影は不規則にうごめきながら、畑の上を飛び回っている。
「なんだ、あれ……?」
目を凝らした瞬間だった。
バタバタバタバタッ!
「うおっ!?」
馬車の外から、ホーンディアの悲鳴が響いた。直後、車体が大きく傾いた。俺たちは座席から転げ落ちそうになり、慌てて手すりにつかまる。
「な、なんだ!?」
御者が手綱を引きながら叫んだ。
「バッタだ! とんでもない数が来やがった!」
「バッタ!?」
窓の外を埋め尽くしていた黒い影。その正体は、一匹一匹が手のひらほどもあるバッタの大群だった。数えきれないほどの個体が、羽音を響かせながら馬車へ押し寄せてくる。
ガブッ!
「ブオオオオッ!」
一匹がホーンディアの首に噛みついた。さらに別の個体が脚へ食らいつき、硬い皮膚をものともせずにかじり始める。ホーンディアは痛みに暴れ、馬車が激しく揺れた。
「こいつら、噛みついてきやがる!」
俺はとっさに剣を抜き、窓から身を乗り出してバッタを払い落とした。だが、一匹を追い払っても、すぐに別の個体が飛びかかってくる。倒しても、倒しても、きりがない。
「おいおい、なんなんだよ、この数!」
ヴィルも武器を振るい、車内へ入り込んできたバッタを叩き落とした。しかし、開いた窓から次々と侵入してくる。座席の下を這い、壁に張りつき、隙を見つけては俺たちの身体へ飛びつこうとしていた。
「うわっ、危ねえ!」
顔へ飛んできた一匹を、俺は剣の柄で叩き落とした。別の個体が腕に食らいつこうとしたが、間一髪で振り払う。鋭い顎が服をかすめ、布が小さく裂けた。
「こいつら、本気で俺たちまで食うつもりか!」
「タツヤさん、後ろです!」
リナの声に振り返る。
頭上からバッタが迫っていた。俺はとっさに身を伏せ、剣を振り上げる。刃が命中した個体は床へ落ちたが、その直後、別の一匹がリナの肩へ飛びついた。
「きゃっ!」
「リナ!」
リナが肩を払う。バッタは服にしがみつき、鋭い顎を彼女の首元へ伸ばしていた。
「もう、しつこいですね……!」
リナは身をひねって振りほどくと、迫ってきた別の個体を手で払い落とした。だが、その間にもホーンディアの悲鳴が響き続けている。このままでは、馬車が止まるのも時間の問題だ。
「リナ、俺たちとホーンディアの回復を頼む!」
「分かりました!」
リナは飛びかかってきたバッタを避けながら、両手を広げた。
「ヒールゥゥゥウウウウウウウウッ!!」
その瞬間、彼女の身体から淡い光が溢れ出した。光は馬車の中だけにとどまらず、窓を抜けて外へと広がっていく。俺たちの身体を包み込み、噛み傷や細かな裂傷を癒やしていった。さらに光はホーンディアにも届き、傷ついた首や脚を優しく包み込む。
「助かる! リナ、そのまま頼む!」
俺は窓から伸びてくるバッタの脚を剣で払い落とした。ヴィルも武器を振るい、飛びかかってきた個体を次々と弾き飛ばす。しかし、バッタの群れは途切れる気配がなかった。
治癒の光が広がる一方で、リナの呼吸が少しずつ荒くなっていく。
「……っ、まだ……!」
額から汗が流れ落ちる。
「リナ、大丈夫か!?」
「だ、大丈夫です! このくらい……!」
そう答えながらも、彼女の声には明らかな疲労が滲んでいた。無理もない。これだけの人数とホーンディアを同時に回復し続けているのだ。魔力だって無限にあるわけじゃない。そして――。
「……あっ」
突然、周囲を包んでいた光が弱まった。
「リナ?」
「すみません……MPが……!」
言い終わるより先に、治癒の光が消えた。
「なっ……!?」
その直後、ホーンディアの脚にバッタが食らいつく。さらに一匹が窓から飛び込み、リナへ向かって一直線に迫った。
「危ない!」
俺が剣を振るうより早く、リナは身をひねってバッタをかわした。床に落ちた個体を踏みつけ、悔しそうに唇を噛む。
「……もう、回復魔法が使えません」
まずい。
今の状態で回復手段を失うのは、あまりにも危険だ。俺たちもホーンディアも、すでに何度も攻撃を受けている。このまま傷が増えれば、馬車を進めるどころではなくなる。俺は腰に下げていた荷物へ手を伸ばした。
「リナ、これを飲め!」
「えっ?」
荷物の中から小さな瓶を取り出し、彼女へ投げ渡す。その瓶は、MPを回復するためのポーションだ。旅の途中で必要になるかもしれないと思い、買い込んでいたものだった。
「MP回復ポーションだ! それを飲めばまだ回復魔法が使えるだろ?」
「は、はい!」
リナは瓶を受け取ると、すぐに蓋を開けた。その間にも、バッタが次々と飛びかかってくる。
「リナ、急げ! こっちは俺たちが何とかする!」
「お願いします!」
俺は剣を振るい、ヴィルと並んで馬車へ入り込もうとするバッタを迎え撃った。数匹を叩き落としたところで、リナがポーションを一気に飲み干す。
「……よしっ!」
リナは空になった瓶を握りしめ、顔を上げた。
「MPが戻りました!」
「よし! 頼む!」
「はいっ!」
リナは再び両手を広げた。
「ヒールゥゥゥウウウウウウウウッ!!」
淡い光が、再び馬車の中と外へ広がっていく。傷ついた俺たちの身体が癒やされ、噛み跡だらけだったホーンディアにも光が降り注いだ。
「助かった……!」
俺は思わず息を吐いた。
「ありがとうございます、タツヤさん!」
「礼は後だ! 今はこいつらを何とかするぞ!」
「はい!」
リナは治癒魔法を維持しながら、飛びかかってきたバッタを蹴り飛ばした。ヴィルも負けじと武器を振るう。
「おいおい、いつまで続くんだよ、こいつら!」
「文句を言ってる暇があったら手を動かせ!」
「分かってるって!」
俺たちは互いに背中を守りながら、襲いかかるバッタを必死に払いのけた。ホーンディアも傷を負いながら、必死に脚を動かしている。御者は手綱を握りしめ、前方を見据えていた。
「御者さん! このまま進めますか!?」
「やるしかねえ! あんたら、どうしても先に進みてえんだろ! なら、突っ切る!」
ホーンディアが地面を蹴った。
馬車は大きく揺れながらも、少しずつ前へ進み始める。バッタたちは騎獣だけでなく、馬車の隙間にも入り込もうとしてくる。俺は窓から伸びてくる脚を剣で払い、ヴィルは車内に侵入した個体を叩き落とした。
リナも治癒魔法を維持しながら、襲いかかるバッタを必死に追い払う。ポーションのおかげで持ち直したとはいえ、いつまでも魔法を使い続けられるわけじゃない。俺たちだって、無傷のまま戦い続けられるわけではなかった。
腕が重い。剣を振るうたびに疲労が蓄積していく。それでも、止まるわけにはいかなかった。
「くそっ……! どこまで続くんだよ、こいつら!」
俺は窓の外へ目を向けた。黒い影の向こうに、何かが見える。建物だ。その奥には、街を囲む高い城壁。そして、巨大な門が夕日に照らされていた。
「……あれか!」
俺が指差すと、ヴィルも窓の外を覗き込んだ。
「見えたぞ! あそこがベルドだ!」
「あと少しだ! 踏ん張れ!」
俺は迫ってきたバッタを剣の腹で叩き落とし、窓から身を乗り出してホーンディアに群がる個体を払い続けた。リナも治癒魔法を維持しながら、襲いかかるバッタを必死に追い払う。御者が手綱を強く引いた。
「もう少しだ! 頼むぞ、ホーンディア!」
ホーンディアが大きく嘶き、最後の力を振り絞るように駆け出した。そして――。馬車は、何とかベルドの門をくぐり抜けた。
街の中へ入った途端、追いすがってきたバッタたちが見えない壁にぶつかったように弾かれ、門の外へ押し戻されていく。
「……結界か!」
街を守る結界が、バッタの侵入を防いでいるらしい。俺は剣を下ろし、ようやく息を吐いた。
「……はあっ、はあっ……。なんなんだよ、あの化け物みたいなバッタは……」
車内には、叩き落としたバッタが残した赤い結晶が散らばっていた。
「皆さん、大丈夫ですか!?」
リナが俺とヴィルを見回す。
「ああ、俺は大丈夫だ。ヴィルは?」
「なんとか……。あと少し遅かったら、顔に噛みつかれてたぞ」
そう言いながら、ヴィルは額を押さえた。
「……って、うおおおっ!? おでこに噛み跡があるじゃねえか!」
「今さら気づいたのかよ!」
「笑ってる場合か! 地味に痛えんだぞ、これ!」
ヴィルが慌てて額をさする。
「リナ、悪いけど、そっちも頼む!」
「はい、分かりました!」
リナは苦笑しながら、ヴィルの額にも治癒魔法をかけた。
「ホーンディアは大丈夫でしょうか?」
治療を終えたリナが、慌てて騎獣の様子を確認する。首や脚にはいくつも噛み跡が残っていたが、幸い、致命傷には至っていないようだった。
「……よかった」
俺は胸を撫で下ろした。
それにしても、あの数は異常だ。バッタという生き物が、あれほど大きな群れを作ること自体は不思議じゃない。だが、あの個体は明らかに俺たちを狙っているかのように襲いかかってきた。ホーンディアだけでなく、馬車の中にいる俺たちまで食い殺そうとしていたのだ。もし街の結界がなかったら、どうなっていたことか。
「……とりあえず、街に着けてよかったな」
俺がそう呟くと、ヴィルが大きく息を吐いた。
「まったくだ。もう二度と、あんなのはごめんだぜ」
「私もです……。さすがに、あの数は疲れました」
リナも苦笑する。
こうして俺たちは、何とかベルドへ到着した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「よし、腹も減ったし、まずは飯にしようぜ!」
ヴィルの提案に、俺は大きく頷いた。
「賛成。もう腹ペコだ」
「私もです。実は、出発する前におじいちゃんから少しお金をもらってきたんです。これで酒場でご飯を食べて、それから宿に泊まりましょう」
「おおっ、マジか!」
その言葉を聞いた途端、俺の腹がぐう、と鳴った。
あんな目に遭ったのだ。せめて飯くらいは、腹いっぱい食いたい。
俺たちは急いで街の酒場へ向かった。ところが、店に入った直後――。
「……あれ?」
見覚えのある男が、店の隅で食事をしていた。
「あっ、あの人!」
リナが声を上げる。そこにいたのは、アルディアから俺たちを乗せてきた馬車の御者だった。
御者の服はあちこちが破れ、裾には泥や草がこびりついている。まるで何かに激しく噛みつかれたかのように、布地にはいくつもの穴が開いていた。
御者も俺たちに気づくと、慌てて席から立ち上がった。
「皆さん! ご無事だったんですね!」
「ああ。なんとかね」
俺が答えると、御者は申し訳なさそうに頭を下げた。
「先ほどは、本当に申し訳ありませんでした。あの黒いコートの男に襲われた時、皆さんを置いて逃げてしまって……」
「いや、あれは仕方ないだろ。あんな化け物みたいなやつが襲ってきたんだから」
「ありがとうございます……」
御者はほっとしたように息を吐いた。
「ところで……その服、どうしたんだ?」
俺は御者のボロボロになった服に目を向けた。
「ああ、これですか……。実は私も、ここへ来る途中でバッタの大群に襲われまして。なんとか逃げ切れましたが、服はこの有様です。怪我も負っていたんですが、先ほど街全体を包み込むように回復魔法が広がって、おかげで傷もすっかり治ったんですよ。誰が使ってくれたのかは分かりませんが、本当にありがたい限りですね」
御者は苦笑しながら、破れた袖をつまんだ。
「それにしても、皆さんもあのバッタに襲われたんですね」
「知ってるのか?」
「私も今日知ったんですが、最近、このベルド周辺ではバッタの大群が頻繁に現れるようになったらしいんです」
「最近?」
「はい。最初は畑の作物を食い荒らす程度だったそうですが、日に日に数が増えて、今では人間や騎獣にまで襲いかかるようになっているとか」
御者は深刻な顔で続けた。
「街には結界が張られているので、中まで入り込むことはできないそうです。ですが、結界の外にある畑はひどい有様で、収穫も思うようにできないうえ、街を行き来する馬車も次々と襲われているらしいです」
「それじゃあ、街の外に出るのも危険なのか?」
「ええ。あの数を相手にするのは、護衛をつけても難しいとのことです。最近では、ベルドへ向かう馬車も、ここから出ていく馬車も、ほとんど見かけなくなったそうですよ」
御者は疲れたように息を吐いた。
「このままでは、街の食料も尽きてしまうかもしれないそうです……」
「じゃあ、食料も入ってこないのか?」
「ええ。農作物が十分に収穫できないうえ、外からの食料も届かない。今ある食材がいつまで持つかも分からないそうです。そのせいで、どこの店でも値上がりが続いているとか」
俺は嫌な予感を覚えながら、店のメニューを開いた。
「……は?」
そこに書かれていた値段を見て、俺は固まった。
「おいおい、なんだよこの値段……」
パン一つですら、普段の何倍もする。肉料理に至っては、目を疑うような金額だった。
「すみません、どうしてこんなに高いんですか?」
リナが店主に尋ねると、店主は困ったように頭を掻いた。
「そりゃあ、今は仕方ねえよ。野菜は採れないし、外からの食料も入ってこないんだ。今ある食材だって、いつまで持つか分からねえからな」
「なるほど……」
事情は分かった。分かったけど――。
「……これしか頼めないのか」
俺たちが何とか注文できたのは、固いパンと具がほとんど入っていない薄いスープだけだった。
やがて、テーブルに料理が運ばれてくる。
「……これ、残飯じゃないよな?」
「文句言うなよ。今出せるのはこれくらいだ」
店主にそう言われ、俺は渋々パンを口に運んだ。
固い。とにかく固い。噛みちぎるのにも一苦労だ。スープも薄くて、味がほとんどしない。
隣ではヴィルも不満そうな顔をしていた。
「……なあ、タツヤ」
「なんだよ」
「俺、腹いっぱい食えると思ってたんだけど」
「俺だってそうだよ」
「……肉、食いてえ」
「同感だ」
思わずため息が漏れた。リナも申し訳なさそうに笑う。
「ごめんなさい。まさか、ここまで食料が高くなっているとは……」
「いや、リナのせいじゃないだろ」
俺たちは文句を言いながらも、何とか食事を済ませた。その間、御者は俺たちに、この街で起きていることを詳しく話してくれた。
「実は、バッタの群れの中に一匹だけ、普通の個体とは違うやつがいるらしいです」
「一匹だけ?」
ヴィルが聞き返す。
「はい。チート能力を持った個体だそうです」
「チート能力……?」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。御者は周囲を気にするように声を潜めた。
「そのバッタは、際限なく単為生殖ができるらしいんです。相手がいなくても、自分だけでいくらでも子孫を増やせる。そいつが能力を使って繁殖を繰り返しているせいで、あれほどの大群になっているのではないか、と」
「……際限なしってマジかよ。いくら一匹一匹の攻撃力が低くても、あれだけの数に襲撃されたら、人間だってひとたまりもないぞ」
ヴィルが顔をしかめる。俺も同感だった。
一匹だけなら、そこまで脅威ではないのかもしれない。だが、倒しても倒しても増え続けるのなら話は別だ。数の暴力というものは、それだけで十分すぎるほどの脅威になる。
「それに、モンスター図鑑にも載っていない新種だそうです」
御者は続けた。
「もし、このまま増え続ければ、ベルドだけでは済まないかもしれません。農作物が食い尽くされれば、ほかの街にも食料が行き渡らなくなる。そうなれば、国全体に影響が出るでしょうね」
「……世界の危機ってわけか」
ヴィルが呟いた。
「そこまで大げさな話になるかは分かりません。ただ、今のうちに本体を倒さなければ、取り返しのつかないことになる可能性はあります」
本体。その言葉が、妙に頭に残った。無限に増殖する能力を持つバッタが一匹いる。そいつさえ倒せば、この異常な事態も収まるのだろうか。確証はない。だが、放っておいていい問題ではないことだけは確かだった。
御者の話を聞き終えた俺たちは、酒場を出て宿へ向かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
宿の部屋に入ると、俺はベッドの端に腰を下ろした。
「……さて、どうするか」
「決まってるだろ。そのチート能力を持ったバッタを見つけて、倒すんだ」
ヴィルが腕を組む。
「でも、相手は新種なんですよね。どんな能力を持っているのか、まだ詳しく分かっていないみたいです」
リナが不安そうに言った。
「それに、あれだけの数を相手にするのは大変です。私の回復魔法にも限界がありますし……」
「確かに。普通に戦っても、キリがないだろうな」
俺はモンスター図鑑を取り出してページをめくった。だが、どこを探しても今回のバッタに関する情報は見つからない。
「……本当に載ってないな」
「新種なんだから、当然だろ」
ヴィルが肩をすくめた。
「一匹ずつ倒していくにしても、数が多すぎる。仮に本体を見つけても、群れに紛れられたら厄介だぞ」
「そうですね……」
リナも考え込む。
「それに、毎朝やってくるんですよね。だったら、明日もきっと……」
「待てよ」
俺はふと、顔を上げた。
「毎朝、同じように押し寄せてくるんだよな?」
「え? ああ、そうらしいけど」
ヴィルが頷く。
「それがどうしたんだ?」
「いや、ちょっと待ってくれ……」
俺は頭の中で、これまで聞いた話を整理した。
バッタの群れは毎朝、街の外にある畑を襲う。そして、チート能力を持つ一匹が単為生殖で子孫を増やしている。つまり、あの大群はただ無秩序に飛び回っているだけじゃないはずだ。そもそも、なぜ毎朝、街の周辺に現れるのか。食料を求めているのなら、群れが集まる場所や、移動してくる方向には何かしらの傾向があるはずだ。もし、あいつらが毎朝同じ方向からやって来るのなら――。
「……そうだ!」
俺は勢いよく立ち上がった。
「群れを全部相手にする必要なんてないんじゃないか?」
「どういうことだ?」
ヴィルが首を傾げる。
「本体が一匹いるんだろ? だったら、まずは群れがどこから来て、どこへ向かうのかを調べるんだ。毎朝の動きを追えば、本体がいる場所も見つけられるかもしれない」
「……なるほど!」
リナが目を輝かせた。
「確かに、街に押し寄せてくる方向が分かれば、そこをたどっていけますね!」
「ああ。群れが来た方向をたどっていけば、繁殖している場所を突き止められる可能性がある。あとは本体を見つけて、群れから引き離せれば理想的だ」
もちろん、これで必ずうまくいくとは限らない。相手がどんな能力を持っているのかも分からないし、群れの中から本体を見分けられるかも分からない。それでも、一匹ずつ倒すよりは可能性があるはずだ。
「どうだ?」
俺が二人を見ると、ヴィルが感心したように笑った。
「やるじゃねえか、タツヤ! 闇雲に戦うんじゃなくて、まずは本体の居場所を探すってわけか」
「はい。タツヤさんの言う通りですね。これなら、無駄に群れと戦わずに済むかもしれません!」
リナも嬉しそうに頷いた。
「やっぱり、異世界とは違う世界から呼ばれてきただけのことはあるな。俺たちじゃ、最初から倒すことばかり考えてたぜ」
「いや、そこまで大したことじゃないって」
そう言いながらも、少しだけ嬉しかった。この世界に来てから、俺は何度も自分の無力さを思い知らされてきた。剣の腕だってまだまだだし、魔法を使えるわけでもない。俺のチート能力だって、攻撃を受けなければ成長しないという厄介なものだ。だが、剣や魔法だけが戦い方じゃない。相手の動きを考え、状況を整理し、どうすれば無駄な戦いを避けられるかを考える。前の世界で生きてきた俺だからこそ、思いつくことだってあるはずだ。
「よし。明日はまず、バッタが飛んでくる方向を調べよう。そこから本体の居場所を突き止めるんだ」
「ああ!」
「はい!」
俺たちは翌日に備え、作戦を確認した。
ベルドを襲う、黒いバッタの大群。その中に潜む、チート能力を持った一匹。そいつを見つけ出し、倒すことができれば、この街を救えるかもしれない。
「……よし、明日こそは美味い野菜と肉を食うぞ! 報奨金でたんまり買うんだ!」
「そこが目的かよ!」
ヴィルの突っ込みに、リナがくすりと笑った。俺も思わず笑みを浮かべる。だが、窓の外に広がる畑を思い出し、すぐに表情を引き締めた。
あのバッタたちが増え続ければ、畑だけでなく、この街の暮らしそのものが壊れてしまう。食料がなくなれば、人々は生きていけない。
明日、何が待ち受けているのかは分からない。それでも――俺たちはもう、動き出していた。




