2-3
肯定。この日、俺は変態となる。
「……はむっ」
「……………………は?」
「……ちゅー」
「……………………………………」
有栖川の歯型のついたあんパンを食み、有栖川の噛み跡がついたストローをすすった。
「う、うんめええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ――――!!」
喝采を上げる俺。虚勢だった。後悔していた。味なんてわからなかった。口に含んだ瞬間、すべてが吹き飛んだ。計画ではもっと惨たらしいことをするはずだった。無理だった。
そう、無理だったのだ。だから、俺は変態ではないのだ。かろうじて免れたのだ。
見れば、呆けたように口を開いて硬直する有栖川の姿。
なに、この不意の静寂。とか思ったのも束の間――、
「「いやあああああああああああああああああああああああああぁぁぁ!!」」
俺の耳をつんざくふたつの悲鳴。口を開いて呆けていたのは、絶叫の充電中だったらしい。
「あ、ああああ、あなた正気なの!? い、いま、なにをしたのかわかっているの!?」
ひとつは口元をわなわなさせながら顔面蒼白となった有栖川。
「ア、アサ兄!! な、なにしてんの!? 家に帰ればいくらでも夜明のがあるのに!?」
もうひとつは駆け寄りながらも相変わらずなにを言っているのかわからない夜明。
正気かどうかと問われれば、ある意味、正気ではなかったさ。
自分がいったいなにをしでかしたのかだって、存分に理解しているさ。
「……し、死にたいのなら素直にそう言いなさい? すぐに楽にしてあげるから」
「アサ兄がしたいっていうのなら、べつにその……か、間接でなくてもいいんだよ?」
「苦しみたい? あっさりがいい? ……いいえ、あなたに選択する資格なんてなかったわね。苦しみ悶え、生まれてきたことを後悔しながら朽ち果てなさい」
「さっそく今夜とかいいんじゃないかな? ちょうどパパとママはディナーで遅くなるし? ま……まあ? 夜明はいつでもオッケーだけどね!」
ベクトルの異なった想定外の気迫に圧倒される俺。
「ちょ、ちょっとふたりとも、落ちついてくれ」
「ど、どうしてあなたが冷静な風なわけ!? お、お、落ち着けるわけないでしょ!? あなたいま、私とキ……キキキキ………………間接キ……キ…………キエエエエェェェェェ!!」
「アサ兄……夜明は、べつにふつーだし?」
えーと、うん。そうだな、有栖川はちょっと、マジで落ち着いてくれ。なにかに進化しそうだ。夜明は夜明として矯正が必要な気がするが、当座の問題は魔物になりそうな有栖川だろう。
俺の頭のなかには、いろいろな言葉が浮かんだ。様々な謝罪方法が考えられた。
しかしいまのこの状況に置いての最適解は、シンプルに限られる。どれだけの言葉を並べ立てるより、いくらほどの手管を尽くすのではなく、素直に頭を下げて謝罪するのだ。
「まあ、その……ほんっっっとうに!! すんまっせんでしたああぁぁ!!」
平身低頭。俺はがばっと勢いをつけて腰を綺麗な90度に折り曲げ、謝罪の言葉を口にした。
第三者のなかには土下座をすればいいと提言してくる輩がいるかもしれないが、いまのこの場合においては、その行為は逆効果である。わざとらしさというか、大袈裟というか。
そもそも他人に土下座を要求する人間っていうのは、たいがい頭がおかしいに違いない。
「土下座しなさい」
ここにいた。頭のおかしい人間が、ここにいた。
頭の上から聞こえてきたその言葉に、心底から吃驚した。なんて言った、こいつ。ドゲザ? あまりの驚きに腰の角度を90度に保った状態のまま顔だけを上げて、有栖川の顔を見た。
腐乱ゴミでも見るかのような冷たい瞳が、そこにはあった。
「あ、あの、いま、なんておっしゃいましたかね?」
あくまでも低姿勢で己の立場をわきまえたまま、しかし滑稽な体勢で俺は問い尋ねた。
「ほんとうに悪いと思っているのなら、土下座くらいできるものでしょう?」
土下座に『くらい』という助詞は適当だろうか。そんな軽々しいものだろうか。
腰を折っている関係で自然と俺を見下ろす形になっている有栖川。台詞に加えて憤然と腕を組んでいる様子が女王様然としていて、まるで下僕にでもなったのかと錯覚させられる。
「土下座すれば、さっきの俺の行為を許してくれるのか?」
「さあ? それはわからないわ。満足するかどうかじゃない?」
「いや、満足って。まさかおまえ……俺に足でも舐めさせる気か?」
「は、はあっ!? あなた、いったいどこまで変態なのよ! そんなことしたら、あなたにとってのご褒美になっちゃうじゃないのよ!!」
「ならねーよ!?」
女王ないし悪役令嬢然とした印象のせいで頭に浮かんで、つい口に出しちゃっただけだ。
「ア、アサ兄……?」
隣から聞こえてきた夜明のどこか物憂い気な声に戦慄した。兄の威厳が消失しかねない。
「よ、夜明ッ、俺はべつに足を舐めることをご褒美だ……な……んて…………」
必死の弁明はしかし、尻すぼみになって消えていく。夜明が靴下を脱ごうとしているのを目撃したからである。なぜそんなことをしているのか、わかるような、わかりたくないような。
「……夜明、なにしてんだ?」
「ご褒美? あげようかと思って?」
「あ、ああ、あなた、妹になんてことさせてるの!? やっぱりそういう性癖なのね!?」
「おまえらはいったいなんなんだ!?」
お互いにお互いの発言で同じような勘違いするなよ。しかも、おまえまで『やっぱり』ってなんだよ。俺ってそんなに変態って雰囲気が出てんのか。なんだよそれ、悲しすぎるだろ。
そして有栖川よ。かわいい顔して『性癖』とか口にするな、はしたない。これまでのやり取りで確信したが、おまえ、学校では猫かぶってるな? 楚々とした――とまではいかないが、もう少し落ち着いた常識のある人間だと思っていたわ。
「言っておくけれど、私は絶対に舐めさせないわよ!?」
この有栖川のバカというか単細胞というか、ちーとばかしネジの足りていない本性を見ることができるやつはいないだろうな。加えて変態だし。努めてポジティブ思考すれば、俺だけが有栖川の秘密を知っている特別感。……こんな特別、べつに嬉しくねーけど。
「というか、言いたいことがあるんだが」
俺は気持ち居住まいを正して、ちらと周囲を睥睨してから言った。
「俺たち、少なくない注目を浴びているわけなんだが」
「あ、あなたが変態的な行為を要求してくるからでしょ!?」
「俺がいつ要求したよ!? 大声でそういうこと言ってっから衆目を集めてんだろーが!」
「だから責任転嫁しないでって言ってるでしょう? そもそも私は――…………」
なにかを思い出したように言葉を切って、がばっと後ろを振り返る有栖川。
「あなたのせいで見失ったじゃない!!」
ああ、そういえばこいつ、バカで変態なだけじゃなくてストーカーだった。役満だな。
「俺が知るか。ってか、だれを見失ったってんだよ」
「私のかわいいかわいい弟よ!」
「…………は?」
有栖川が「あああ」とうめきながら頭を抱えて慨嘆する。
「いまごろあの女に騙されて…………」
あの女? 俺らと同じ高校の制服を着ていた女子のことか? 後ろ姿だから学年は判然としないが、とにかくこいつは、弟が年上の女と一緒にいるところを尾行していたってことか。
なるほどわからん。意味が不明だ。
「どういう経緯でそうなったのかは知らんが、いくら身内とはいえストーカーはよくないだろ」
「ス、ス、ス、ストーカーですって!? ひ、人聞きの悪いこと言わないでくれないかしら? これは家族としての……いいえ、お姉ちゃんとしての義務よ! 弟が不純異性交遊……年上の女に騙されないように見守っているの! そ、そうね。いわば探偵の調査みたいなものよ!」
「へえ、探偵か」
――あなた、高校生になってまで探偵のつもり?
脳に去来する言葉。おまえは俺になんて言ったよ。……もはや呆れすぎて指摘しないけど。
「まったく。ストーカーだなんて、私をそんな性犯罪者みたいな――…………」
不意にはっとした顔となり、俺から距離を取る有栖川。
「……ねえ、あなた、なんで私の後ろを歩いているわけ?」
「そんなのたまたまだろ」
目的地の方向なだけだ。
「そういえば、ずいぶんと前から歩いているわよね」
「それこそたまたまだろ」
夜明と会話していたから、遅々とした進みではあっただろうな。
「私は尾行……じゃなかった。調査としてちょっと電柱に用があって立ち止まったりしていたのに、なぜ追い抜くことなく、ずっと私の後ろを歩いていたわけ?」
「知らねーよ。繰り返すが、たまたまだろ」
電柱に用ってなんだよ、おまえはセミか? 縄張りをマーキングしたい犬か?
「初対面なのに同じクラスだとか言い張ってるし……」
「いや、それは、ほんとうだって言ってんだろ?」
いい加減に信じろよ。信用にかかわる問題なので、端的に証明してやることにした。
「担任は高槻杏子。クラス委員は広瀬順と琴吹珠美。おまえの席は窓際から3列目の後ろから3番目だったか? こないだの席替えの前は、たしか廊下側だったな」
「ア、アサ兄……」
俺の説明を聞いた夜明までもが、なぜか距離を取る。いやなんでだよ。おまえは信じろよ。
有栖川は有栖川で末恐ろしいものを見たかのような形相をして、さらに距離を取りだした。そのまま胸元を隠すように両腕を移動させたのち、とんでもないことを言い放った。
「あなた、まさかストーカー!?」
「それはおまえだ!!」
なにを言いやがる、この女!?
「だ、だだ、だって! 私のことつけて歩いてくるし、やたらとクラスの事情に詳しいし、私の座席まで正確に把握してるじゃない!?」
「だから同じクラスなんだよ! 何回言わせんだ!」
有栖川の席を把握しているのは、こいつが美人で目立って、否応なく視界に入るからである。
「な、なら、どうして私が口をつけたあんパンと牛乳を飲んで幸せそうな顔をしてたのよ!?」
「……それに関しては、ほんとにすまんかった!」
幸せな顔をしていたかどうかは知らんが、俺だって強く後悔している。
「まさかとは思うけれど、スリーサイズまで把握してるとか言わないでしょうね?」
「言わねーよ!? おまえのその変態方向への被害妄想はたいがいしろよ!」
「言わないだけで知ってるっていうの!?」
「言葉の綾ってもんを知らねーのか!」
「なんか髪の毛を食べたら身体情報を知ることができるってキャラが少年漫画にいたわよ?」
「漫画の話だろ!? 俺がそんなハンターを生業にしてる念能力者に見えるか?」
「……強いて言えば、成年漫画の変態に見えるわね」
「ざっけんな!」
というか、おまえ少年漫画とか読むんだな。しかも成年漫画も知ってんのか。俺こそ再認識したぞ。やっぱりこいつ、とんだド変態野郎じゃねーか!
「ごめんなさい、訂正するわ。強いる必要なく変態だったわね」
「おまえ俺のこと舐めてんだろ!? 謝罪すべきはそこじゃねーからな!」
「し、失礼ね!! 舐めるのはあなたの得意分野でしょ!?」
「どんな分野だ! 俺はソフトクリームだってどちらかというと嚙む派だわ!」
「え……カニバリズム?」
「そんな趣味はねえ!」
くそう。どうして運動もしないで息切れしなくちゃいけないんだ。
俺は気持ち声を張り上げて、「とりあえず、だ」と切り替えるように有栖川に告げた。
「俺はストーカーじゃないし念能力者でもなければ、もちろん変態じゃない! お互いにいろいろ誤解しているみたいだし、釈明をするにも場所を変えたいんだが、構わないか?」
俺の提案を沈思するように顎に手をやってから、有栖川は大きく息を吐き出した。
「……まあいいわ。私だって知られてしまった以上、ただで帰すつもりはないもの」
いくらで帰すつもりだこいつ。――まったく、恐ろしい女だな、有栖川伊織。
恐怖する俺の横。いつのまにかそばに戻ってきた夜明がボソッと呟くのが耳に入った。
「変態が変態を――これが類は友を呼ぶ、か」
おいこら、妹よ。
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