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夫が幼馴染を女主人の席に座らせたので、羊毛の販路も軍馬も引き上げて離縁します。侯爵家の稼ぎ頭は私でしたのに。  作者: P__4


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第五話 諸侯の前で

ハルト領での日々は、水を得た魚のようだった。


私はレイフの牧で、馬の血統を見直し、羊毛の毛質ごとの選り分けを教えた。トビアスは若い厩番たちに脚の見方を仕込み、ギュンターは散らかっていた商いの帳面を、半月で見違えるように整えた。シャンドルは新しい馬房でも私の房を舌先で確かめ、すっかり落ち着いていた。北の織元は、私がダルクの名で送った口上書に、二つ返事で約定を更新してくれた。「あなたが続けてくださるなら、こちらも安心だ」と、文には添えられていた。買い手が信じるのは、家名ではなく人だ。父の言葉は、正しかった。


レイフは、忙しい合間を縫って、よく牧へ来た。馬のことを問い、私の答えに耳を傾け、時折、不器用に世間話をした。彼が差し入れる焼き菓子は、いつも少し焦げていた。「料理人に任せればよいものを」と笑うと、彼は「自分で選んだ小麦だ。焦げても、嘘はない」と真顔で言った。私は、その真っ直ぐさに、少しずつ絆されていった。


彼は、私が算盤を弾く姿を、飽きもせず眺めた。ロウェルで「屋敷を冷やす音」と厭われたその音を、レイフは「よい音だ」と言った。「数が合っていく音は、心地がいい。あなたが弾くと、なおさらだ」と。そんなふうに言われたのは、生まれて初めてだった。私は俯いて、頬が熱くなるのを隠した。


ある雨の日、帳面に没頭していた私の肩に、そっと外套が掛けられた。レイフのものだった。「冷えると、指が動かぬだろう」と、彼はそれだけ言って、また馬の様子を見に出ていった。焦げた焼き菓子と、掛けられた外套。彼の優しさは、いつも言葉が足りなくて、けれど、行いのほうが雄弁だった。ロウェルの屋敷で、私は五年、外套を掛けられたことなど一度もなかった。冷えていたのは、本当は、どちらの屋敷だったのだろう。トビアスが、私とレイフを遠くから見て、こっそり目尻を拭っていた。ギュンターは「奥さまが笑うようになられた」と、帳面の隅に小さく書き添えていた。


一方、ロウェル領は傾いていた。


軍馬の約定は白紙に戻り、羊毛の買い付けは止まった。家計の四割が消え、領民への賃金の支払いも滞りはじめた。女主人となったミレーヌ嬢は、社交と装いには長けても、帳面ひとつ読めなかった。数字の列を前にすると頭が痛むと言って、放り出した。屋敷は冷え、暖炉の薪は間引かれ、使用人は次々に暇を取った。名馬たちは新しい厩番の手に負えず暴れ、二頭が脚を痛めた。飢饉の冬に私が繋いだ麦の融通も、私がいなくなって途絶えた。あの古参の農夫の家からは、幼い子が熱を出しても薬を買えぬと聞こえてきた。それを伝え聞いたとき、私は胸が痛んだ。胸のすく思いよりも、巻き添えになる領民のことばかりが、心に掛かった。後で分かったことだが、その報せをこっそり私に届けてくれたのも、ギュンターの古い伝手だった。慕う者の網の目は、離れても、切れずに残っていた。


夫は、傾いた家計を立て直すどころか、それらすべてを私のせいだと言いふらした。妻が家の財産を盗んで出ていったのだ、と。自分が印を押さなかったことも、証文を読まなかったことも、都合よく忘れて。


そしてついに、夫は公の場で決着をつけようとした。


秋の終わり、王都で開かれた領主会議。諸侯が集うその席で、セドリックは声を張り上げた。


「ハルト伯爵! 貴殿は、私の妻を誑かし、我が家の商いを丸ごと奪った! 羊毛の約定も、軍馬の契約も、本来ロウェル家のものだ。それを、離縁に乗じて持ち去るなど、盗人の所業ではないか! 諸侯の皆さま、どうかご照覧あれ。これは家の財を守る戦いなのだ!」


諸侯の視線が、私とレイフに集まった。囁きが、さざ波のように広がる。私は臆さず、一歩前へ出た。震えはなかった。商家の娘は、証文の前では強い。


「ロウェル侯爵。ひとつ、皆さまの前で確かめさせてください」


私は、例の二通の証文を掲げた。


「この羊毛約定、そして軍馬契約。買い手の署名の隣にある名を、どうぞご覧ください。ロウェル侯爵家の印は、ここにありますか」


証文が諸侯の手を回った。誰もが、そこにロウェルの印がないことを確かめた。あるのは、アデライド・ダルクの署名だけ。何人かが、顔を見合わせた。


「これらは、私が私個人の信用で結んだ約定です」私は続けた。「侯爵は、これを『女の道楽』と呼び、印を押すことを拒まれました。約定が家のものであったなら、なぜ家の印が一つもないのでしょう。家のものにしたくなかったのは、ほかならぬ侯爵ご自身です」


王国騎馬隊の代表が、静かに立ち上がった。ハルト伯とともに軍馬を検分してきた武官だ。


「騎馬隊が軍馬を購うのは、アデライド殿の目利きゆえだ。我らは、ロウェル家と契約した覚えはない。アデライド殿と契約したのだ。彼女が牧を離れた以上、契約が動くのは道理。盗みではない。むしろ、彼女なくして納められた馬が戦場で兵を死なせれば、それこそが罪だ」


会議の間に、低いどよめきが広がった。潮目が、はっきりと変わった。


セドリックの顔が、赤から白へと変わっていく。彼は苦し紛れに叫んだ。


「だ、だが、あの女は、私の妻だったのだ! 妻の稼ぎは夫のもの! そうであろう、皆!」


「妻を、離縁したのはどちらですか」


私は、静かに問い返した。


「あなたは、私を『屋敷が冷える』と厭い、離縁状にご自分で条件を書き、私に署名させました。持参金のほかは何も要らぬと、あなたが書いたのです。私は、その離縁に従っただけ。私が持ち込んだ商いの縁を、持って出た。それだけのこと。――盗人と呼ばれる筋合いは、どこにもございません。それとも、離縁状を書き直しますか。今度は、私の稼ぎを家に残すと」


諸侯の何人かが、堪えきれずに笑みを漏らした。セドリックは、返す言葉を失った。ロウェル侯爵の名は、この日、静かに地に落ちた。


レイフが、私の隣で低く言った。「見事だ」と。ただ一言、けれど胸に沁みる声で。


会議の帰り道、私は久方ぶりに晴れやかな気持ちで馬車に乗った。窓の外を流れる王都の灯が、いつになく美しく見えた。シャンドルを気遣い、ゆっくりと進む車輪の音が、心地よかった。もう、誰にも怯えなくていい。私は、私の名で立っている。


けれど、その晩。ハルト領の宿へ、思いがけぬ客が訪れた。


宿の主が、青ざめた顔で私に告げた。


「アデライド様。ロウェルのミレーヌ様と名乗る御方が、使いを寄越されました。……侯爵は、明朝、王家の裁定所へ訴えを起こすと。奥さまが軍馬の血統書を偽り、粗悪な馬を騎馬隊に売りつけた――そう、証人まで立てて訴える、と。今度こそ、あなたを罪人にすると。……嘘でも、証人を金で買えば、罪はでっち上げられます、と、そう申しておりました」


宿の主の手が、微かに震えていた。私は、深く息を吸った。恐れは、なかった。ただ、どこまで堕ちるのだろう、というやるせなさだけがあった。名を奪われ、家を傾け、それでもなお、他人を貶めることでしか立てない人がいる。ならば、こちらは真実だけで立とう。嘘は、真実の前では、いつか必ず崩れる。父の言葉を、私はもう一度、胸の内で繰り返した。

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