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夫が幼馴染を女主人の席に座らせたので、羊毛の販路も軍馬も引き上げて離縁します。侯爵家の稼ぎ頭は私でしたのに。  作者: P__4


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第四話 離縁の署名

検分から数日後、夫は私を再び書斎へ呼んだ。机の上には、一枚の書状が用意されていた。離縁状だった。


「話を早めよう」セドリックは羽根ペンを差し出した。「ここに署名を。持参金は返す。それで綺麗に別れよう。お前も、実家に帰れば楽になる。もう算盤を弾かずに済む。それが、お前のためでもあるのだ」


ミレーヌ嬢が、今日も扉の脇に控えていた。もう隠す気もないらしい。彼女の指には、見覚えのない指輪が光っていた。ロウェル家に代々伝わる、女主人の指輪だった。私が一度も、身につけさせてもらえなかったものだ。


私は、離縁状を手に取り、静かに読んだ。持参金の返還のほかは、何ひとつ私に与えぬ内容だった。この五年で私が増やした領地の富も、私が結んだ商いの縁も、すべてロウェル家に残す、と。細かな文言まで、夫が自分で書いたらしい。私を一刻も早く追い出したい一心が、拙い筆致に滲んでいた。


「承知しました」私は言った。「署名いたします。ですが、その前に、確かめておくべきことがございます」


私は懐から、二通の証文を取り出し、机に並べた。


「こちらは、北の織元との羊毛約定。こちらは、王国騎馬隊との軍馬納入の約定。どちらも、結んだのは私、アデライド・ダルクです。ロウェル侯爵家ではありません。相手方が信を置いているのは、ダルク商会の娘である私個人。離縁により私がダルクへ戻れば、この二つの約定は、私とともにロウェルを離れます」


夫の顔から、ゆっくりと余裕が引いていった。


「……何を、馬鹿な。約定は、この家のものだ。妻が家のために結んだものだろう」


「いいえ。証文をご覧ください。買い手の署名の隣にあるのは、私の名だけです。ロウェル侯爵家の印はどこにもありません。あなたが『女の道楽』と笑い、印を押すことすら煩わしがったからです。証文に目を通してほしいと三度お願いして、三度とも、後にしろと仰いました。覚えておいでですか」


夫は、答えなかった。覚えているはずがなかった。彼にとって、それは記憶に残す価値もない些事だったのだ。


「羊毛の織元は、来月までに私の署名の更新がなければ買い付けを見送ると申しております」私は静かに続けた。「軍馬は、私が目利きを離れれば、来季から半分も検分を通らないでしょう。シャンドルをはじめ、この牧の名馬は、私にしか御せません。――離縁は、承知いたします。けれど私は、私が持ち込んだものを、持って出るだけです」


書斎が、しんと静まり返った。ミレーヌ嬢の扇が、かたりと床に落ちた。


夫は、離縁状と、二通の証文を、交互に見つめていた。彼の中で、初めて数字が像を結んだのだ。羊毛の一割五分高の差益。軍馬三十頭の値。領民の賃金。橋の修繕費。それらを支えていた金の流れが、来季から丸ごと消える。ロウェルの家計の、実に四割が。冷えた屋敷どころか、暖炉の薪すら買えなくなる。


「待て……待て、アデライド」夫の声が掠れた。「そういう話なら、離縁は、少し考え直しても――」


「考え直すのは、私ではありません」


私は、離縁状に署名した。迷いのない筆で。インクが乾くのを待って、そっと机に戻す。五年分の重みが、その一筆で、私の肩から滑り落ちた。


「五年間、お世話になりました。羊毛と馬の引き継ぎは、来月の初めまでに済ませます。それまでは、女主人としてではなく、商いの相手として、務めを果たします。引き継ぎ先が見つからねば、相手方には正直にそう伝えます。――どうぞ、ミレーヌ様と、温かい家をお築きください」


私は頭を下げ、書斎を出た。背後で、夫が名を呼ぶ声がした。けれど私は、振り返らなかった。振り返る理由が、もう何ひとつなかった。


  ◇


屋敷を辞する支度は、驚くほど早く整った。


家令のギュンターは、「奥さまが行かれるなら、私も暇を頂きます。この屋敷の帳面は、もう私には読めません。奥さまの筆でしか、書かれてこなかったのですから」と静かに言った。厩番頭のトビアスは、「シャンドルは奥さまについていきます。あの子を置いていけば、また誰も御せぬ暴れ馬に逆戻りだ。あっしも、あの子の世話係として、ついてまいります」と、皺だらけの目を潤ませた。慕う者は、椅子ではなく人につく。私は、そのことを、この日はっきりと知った。


門を出るとき、あの古参の農夫が、家族総出で見送りに立っていた。飢饉の冬に麦を分けた家の者たちだ。彼らは深く頭を下げ、麻袋いっぱいの焼き栗を、私の馬車に積んでくれた。「奥さまがいなくなったら、この土地の冬はどうなるんだ」と、末の子が泣いた。私は膝を折り、その子の頭を撫でた。「新しい旦那様と、ミレーヌ様がいる。困ったことがあれば、遠慮なく訴えなさい。あなたたちには、その権利がある」と。そう言いながら、私は胸の奥で祈っていた。どうか、この人たちだけは、冷えた冬を越せますように、と。去る者にできるのは、それくらいだった。


そして、屋敷の門を出た私を、思いがけぬ人が待っていた。


ハルト伯爵――レイフだった。彼は自領へ帰る途中、わざわざ馬を止め、私を待っていたのだという。噂は、もう隣領まで届いていた。


「侯爵夫人。いや、もう夫人ではないのだったな」彼は灰色の瞳で、まっすぐに私を見た。「不躾を承知で申す。あなたの目利きと、商いの手腕を、私の領で活かしてほしい。ハルトの牧は広いが、馬を見る者がいない。羊毛の商いにも、伝手が要る。……住まいも、馬房も、望むだけ用意しよう。無論、あなたの厩番も、家令も、共にだ」


「私は、離縁されたばかりの女です。世間の目もございます。伯爵のお名にも、傷がつきましょう」


「世間が何と言おうと」彼は少し目元を緩めた。武人には珍しい、不器用な微笑みだった。「私は、嘘のない選びをする人を、信じる。あの月毛の馬が、あなたを選んだようにな。名や体裁で人を選んで、私はこれまで一度も、後悔せずに済んだためしがない」


「ひとつ、伺っても」私は言った。「なぜ、そこまでしてくださるのです。私は伯爵に、何の義理もございません」


「義理ではない」レイフは即答した。「損得だ。あなたのような目利きを、みすみす手放す侯爵は愚かだ。その愚かさに、私は付き合わぬというだけのこと。……と、言えば、聞こえはいいが」彼はふと言葉を切り、視線を逸らした。「本当のところは、あの検分の日から、あなたの馬の引き方が、頭を離れないのだ。信を交わす、と言ったな。私は、その言葉を、ずっと考えている」


不器用な人だ、と思った。けれど、その不器用さが、証文の裏を読むより、ずっと信じられた。


シャンドルが、私の背後で、応えるように低く嘶いた。手綱の銀の房が、秋の風に揺れた。


私は、久しぶりに、心の底から笑った気がした。断る理由を探そうとして、ひとつも見つからなかった。


その頃、ロウェルの屋敷では、夫が青い顔で帳面を繰っていた。私がいなくなったあとの数字が、どうしても合わないのだ。どの頁を開いても、来季の欄が空白のまま埋まらない。そこへ、王都から一通の書状が届いた。差出人は、王国騎馬隊。


――軍馬納入の約定者が代わると聞いた。事実か。事実なら、来季の契約そのものを、白紙に戻す。目利きなき牧の馬に、兵の命は預けられぬ。


夫は、その一行を、幾度も読み返した。文字が、意味を結ぶまでに、長い時がかかった。そして意味が像を結んだとき、彼は初めて、自分が何を手放したのかを知った。けれど、屋敷の門を出ていく馬車の車輪の音は、もう遠く、追いつける距離にはなかった。

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