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夫が幼馴染を女主人の席に座らせたので、羊毛の販路も軍馬も引き上げて離縁します。侯爵家の稼ぎ頭は私でしたのに。  作者: P__4


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第三話 嘘のない選び

軍馬の検分は、三日後と決まった。


私は普段どおり、朝の暗いうちから牧へ出た。離れへ移れと言われた身であっても、騎馬隊との約定は私の署名で結んだものだ。最後まで、私の責で務めを果たす。それが商家に生まれた者の筋だと、父に教わってきた。信用は、貸し借りではない。積み上げるものだ、と。


その合間に、私は静かに手を動かしていた。実家のダルク商会へ、一通の文を送った。離縁が近いこと。羊毛の織元との約定を、私個人の名で預かり直したいこと。父はきっと、事情を察してくれる。娘が嫁ぎ先で数字の陰に隠れて働いてきたことを、父だけは知っていた。嫁がせるとき、父は「向こうで泣くようなら、いつでも帰ってこい。お前の帰る商いは、ここにある」と言った。あの言葉が、今になって、静かに背を押してくれる。私は、帰る場所を持っている。それは、椅子ひとつを失うより、ずっと確かな財産だった。


返事を待つあいだも、私は北の織元への口上書を、自分の手で書き改めておいた。ロウェルの家名ではなく、ダルクの娘アデライドの名で。文面を練りながら、私は奇妙な清々しさを覚えていた。支えを引き剥がすのではない。私が持ち込んだものを、私が持って出るだけだ。盗みでも、意趣返しでもない。ただ、名と物の持ち主を、正しい場所に戻すだけのこと。


検分の日、王国騎馬隊の一行が牧に着いた。先頭で馬を下りたのは、隊を束ねるハルト伯爵だった。隣領の若き領主で、みずから馬を見る目を持つと評判の武人だ。レイフ・ハルト。日に灼けた精悍な顔立ちに、静かな灰色の瞳をした人だった。腰の剣は飾りではなく、使い込まれて鞘が擦れていた。


夫は、ミレーヌ嬢を伴って伯爵を出迎えた。愛想よく酒と馳走を勧め、牧のことは何ひとつ語らなかった。語れなかったのだ。伯爵が「今年の三十頭は、いずれも去年より脚がよいと聞くが」と水を向けても、夫は曖昧に笑うばかりで、「まあ、馬のことは牧の者が」と口を濁した。ミレーヌ嬢は困ったように扇で口元を隠し、「わたくし、馬は少し怖くて」と小さく笑った。


検分の柵の前に、私は選び抜いた馬を一頭ずつ引き出した。


ハルト伯爵は、私が引く馬の歩様を、瞬きもせず見つめていた。前脚の運び、繋ぎの角度、息の深さ、鼻孔の広がり。私が「この馬は長駆に向きます。胸が深く、息が続きます。こちらは瞬発に優れますが気が荒く、御しやすい乗り手を選びます。若い兵には向きません」と告げるたび、伯爵は短く頷いた。世辞ではない、値踏みするような頷きだった。ときおり彼は自ら馬の脚に手を這わせ、私の言葉を確かめた。そして、いつも同じ結論に辿り着いた。


「よく見えている」


伯爵が、ふと呟いた。誰にともなく。けれど、その一言は私の耳に届いた。


一頭、栗毛の若駒を引いたとき、私は正直に告げた。「この子は、まだ隊には出せません。脚は良いのですが、大きな音に驚く癖があります。あと一年、慣らす時をください」と。買い手に良い馬ばかりを見せたい者なら、隠す欠点だ。夫が「余計なことを」と顔をしかめた。けれどハルト伯爵は、かえって深く頷いた。


「欠点を隠さぬ売り手は、稀だ」彼は言った。「戦場で驚いて棹立ちになる馬は、乗り手を殺す。その一年を惜しまぬあなたのほうを、私は信じる」


私は、少し驚いて彼を見た。武人でありながら、この人は、馬より先に人を見ている。馬の脚を見る目と、人の嘘を見抜く目は、どこかで同じものなのかもしれなかった。


最後に、私はシャンドルを引き出した。


月毛の牝馬は、見慣れぬ人の群れに耳を伏せ、前掻きをした。騎馬隊の若い兵が思わず後ずさる。夫が「その馬は気が触れている、下げさせろ、伯爵の御前だぞ」と苛立った声を上げた。


けれど私は、手綱の銀の房を、そっとシャンドルの鼻先に触れさせた。ざらりと舌が房を確かめる。それだけで、牝馬は大きく息を吐き、四肢を落ち着けた。私が首筋を撫でると、シャンドルは私の肩に頭をもたせかけ、栗色の瞳を細めた。


一瞬、柵の周りが静まり返った。


ハルト伯爵が、ゆっくりと歩み寄ってきた。


「その馬を、あなたが仕込んだのか」


「仕込んだのではありません」私は答えた。「この子が、私を選んだのです。人が馬を鞭で御するのではなく、信を交わすだけです。時をかけて、こちらが先に相手を信じる。それだけのことです」


伯爵は、灰色の瞳を細めた。感嘆とも、値踏みともつかぬ光がそこにあった。武人が、戦場で信の置ける者を見定めるときの目だ、と後になって私は思った。


「侯爵夫人。不躾を承知で問う。この牧の馬の目利きも、羊毛の売り先も、あなたが一人で担っていると聞いた。まことか」


私が答える前に、夫が割って入った。


「伯爵、女の道楽を真に受けられますな。この家を回しているのは、この私です。妻は少々、馬に構うのが好きなだけで」


ハルト伯爵は、夫を一瞥した。何も言わなかったが、その沈黙は雄弁だった。彼は視線を私に戻し、静かに言った。


「検分は、確かに受け取った。三十頭、いずれも良い。……とりわけ、あなたの選びには、嘘がない。馬は、人の嘘を映す。御し方に無理のある馬は、必ず戦場で乗り手を裏切る。あなたの馬には、それがない」


その言葉は、五年間、数字と証文の陰で誰にも見られなかった私の仕事に、初めて差した光のようだった。誰かに「見えている」と言われたのは、嫁いで以来、初めてだった。


  ◇


その頃、屋敷の裏では、小さな綻びが生まれていた。


ダルク商会から遣わされた番頭が、羊毛の約定を確かめに訪ねてきていた。例年なら女主人のアデライドが応対する。だがこの日、取り次いだのはミレーヌ嬢だった。


「まあ、羊毛のことでしたら、旦那様にお任せくださいな。わたくしたち、これから仲良くやっていくのですから。細かい証文のことなんて、商人の方で良きに計らってくださいませ」


番頭は、深く皺の刻まれた顔で、幼馴染の令嬢をじっと見た。それから、女主人の椅子に見慣れぬ人が座っていることに気づき、静かに眼を伏せた。長年この屋敷を出入りしてきた番頭には、何が起きているのか、言葉にせずとも分かったのだろう。


「……左様でございますか。では、旦那様に、ひとつだけお伝えを。北の織元は、来月の初めまでに、こちらの署名を改めて頂きたいと申しております。アデライド様の署名を。それが叶わねば、今季の外套地の買い付けは、見送りになると。値も、他所ではこの高では引き取れぬ、と」


「署名くらい、どなたが書いても同じでしょう」


番頭は、それには答えなかった。深く一礼し、去り際に一度だけ、牧の方を振り返った。月毛の馬の隣に立つ、かつての女主人の後ろ姿を、確かめるように見つめた。


商人は、義理を売り買いしない相手を、誰より知っている。名を書き換えれば済むと思う者に、北の織元は二度と扉を開かない。三年かけて積み上げた信は、一枚の署名を軽んじた瞬間に、砂のように崩れる。そのことを、この屋敷でただ一人分かっていた女主人は、もう間もなく、ここを去ろうとしていた。番頭は屋敷を出ると、待たせていた馬に跨り、まっすぐ王都のダルク商会へと戻った。主に、伝えねばならぬことがあった。「ロウェルは、もう長くありませんな」と。

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