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夫が幼馴染を女主人の席に座らせたので、羊毛の販路も軍馬も引き上げて離縁します。侯爵家の稼ぎ頭は私でしたのに。  作者: P__4


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第二話 書斎の証文

翌朝、書斎の扉を開けると、夫は先客と談笑していた。ミレーヌ嬢だった。


「来たか」


セドリックは私を見て、わずかに眉をひそめた。まるで招かれざる者を見るような目で。ミレーヌ嬢は慌てて立ち上がり、「わたくし、席を外しますわ」と言いながら、けれど扉の脇に留まった。出ていく気はないらしい。私が何を言われるのか、見届けたいのだろう。


私は促されもしない椅子には座らず、机の前に立った。


「昨夜の続きだ、アデライド」


夫は羽根ペンを弄びながら切り出した。


「はっきり言おう。私はミレーヌを、この家の女主人として迎えたい。お前には……そうだな、離れの別棟にでも移ってもらう。籍をどうするかは追って考える。お前の実家の顔もあるからな、すぐに追い出したりはしない。悪い話ではないだろう」


悪い話ではない。私を屋敷の隅に押し込め、幼馴染を妻の座に据えることが。


「理由を、お伺いしても」


「理由か」夫は面倒そうに息を吐いた。「この屋敷は冷たい。お前が来てから、数字と証文ばかりが飛び交って、人の情がなくなった。使用人はお前を恐れ、私はお前と話すたびに算盤の音が聞こえる気がする。ミレーヌといると、私は昔の、明るいロウェルを思い出す。それだけで十分だろう」


私は黙って、机の上に目を落とした。そこには領地の帳面が広げてあった。夫が広げたのではない。私が毎朝、目を通しているものだ。夫は、それが自分の机の上に毎朝どうやって現れるのかすら、考えたことがないのだろう。


情がない、と夫は言った。けれど、去年の飢饉の冬、蔵を開いて領民に麦を配れと差配したのは私だ。凍える孤児たちに、羊毛の売れ残りで肩掛けを縫わせたのも、橋が落ちて往来が絶えたとき、石工を手配して十日で架け直させたのも。そのどれもが「情」でなくて、何だというのだろう。夫は暖かい暮らしの果実だけを受け取り、その根を張った手を、冷たいと嗤う。根が冷たいのではない。果実しか見ない目が、根の温度を知らないだけだ。


「セドリック様」私は静かに言った。「この家の温もりのことは、後で伺います。まず、いくつか確かめさせてください。今年の羊毛の売り先が、どこか、ご存じですか」


夫が眉を上げた。


「羊毛だと? そんなもの、商人が勝手に買っていくだろう」


「いいえ。ロウェルの羊は山羊の血が混じり、毛足が短く、そのままでは安く叩かれます。私が嫁いできた年、羊毛は屑同然の値でした。私は実家のダルク商会を通し、北方の織元に掛け合いました。毛足の短い羊毛は、目の詰んだ外套地には向く。王都の冬に売れる、と説いて回ったのです。三年かけて、ようやく相場の一割五分高で買い上げてもらえるようになりました。その約定は、私個人の署名で結んでいます」


「……署名など、書き換えればいい」


「北の織元は、ダルク商会の娘だから取引しているのです。相手は、私の顔と、これまでの三年を見て契約を続けています。書き換えのきく紙ではありません。名を変えれば、相手は明日にも取引をやめます」


夫の指が、羽根ペンを止めた。ミレーヌ嬢が、扉の脇で不安そうに二人を見比べている。


「軍馬も同じです」私は続けた。「ロウェルの牧が育てた軍馬を、王国騎馬隊が毎年三十頭、買い上げています。その値の交渉も、納める馬の目利きも、私がしています。隊が求めるのは、戦場で御しやすく、長駆に耐える馬です。気の荒い馬をそのまま納めれば、検分で撥ねられ、値がつきません。どの馬をどう仕込み、どの馬を隊に出すか――それを見極められるのは、この牧でもう私しかおりません。トビアスは老いて目が霞み、若い厩番はまだ脚を見る目が育っておりません」


「お前がいなくとも、馬は馬だろう」


「ええ、馬は馬です。ですが、暴れる名馬を隊に納めるわけにはいきません。買い手が求めるのは、乗りこなせる馬です。シャンドルのような馬を落ち着かせて、隊の検分に出せるのは――」


「もういい!」


夫が机を叩いた。帳面の頁がめくれ、私が書き込んだ細かな数字が、朝日の中に晒された。売上、仕入れ、領民への賃金、来季の種羊の手当、橋の修繕にかかる石工の手間賃。どれも私の筆跡だった。この屋敷の暮らしを支える骨組みが、一枚の紙の上に並んでいた。


「お前はいつもそうだ」夫は吐き捨てた。「数字を盾に、自分がいなければ何も回らないと言いたいのだろう。だが、この家の主は私だ。お前ではない。お前がいなくとも、ロウェルは回る。ミレーヌと二人で、もっと温かく、円満に回してみせる」


ミレーヌ嬢が、誇らしげに微笑んだ。彼女は、羊毛の毛足の話も、軍馬の検分の話も、何ひとつ分かっていない顔だった。ただ「温かく円満に」という響きだけを、我がことのように喜んでいた。


私は、それ以上何も言わなかった。


言っても無駄だと分かったからではない。言う必要が、もうなくなったからだ。夫は、私が担ってきた支えの中身を、ひとつも知らなかった。羊毛の織元の名も、騎馬隊との約定の条件も、この牧で名馬を扱える者が誰かも。知らないまま、それを「大したことのないもの」だと信じている。


ならば、確かめてもらうしかない。


私が抜けたあと、この家が、本当に回るのかどうかを。


「承知いたしました」私は頭を下げた。「離れへ移る件、少し支度のお時間をいただけますか。実家とも、話をつけねばなりませんので」


夫は、勝ち誇ったように鷹揚に頷いた。私が折れたと思ったのだろう。ミレーヌ嬢が、ほっとしたように微笑んだ。


けれど私が頭を下げたのは、屈したからではない。支度の時間が要る、というのは本当のことだった。羊毛の織元に事情を伝え、軍馬の買い手に引き継ぎの段取りを立て、この牧の年寄りたちの身の振り方を考える。放り出して去れば、困るのは何も知らぬ領民たちだ。去るにも、筋を通す。それが、私が私であるための、最後の仕事だった。感情に任せて扉を叩きつけるのは、たやすい。だが、そうしないことが、この五年を無駄にしない唯一の道だった。


書斎を出て、私は長い廊下を歩いた。窓の外、牧の彼方に、朝靄が晴れていく。シャンドルの嘶きが、遠くから風に乗って届いた。不思議と、足取りは軽かった。長いあいだ肩に載っていた石を、そっと下ろせるような気さえした。


その日の午後、王都から早馬が着いた。ギュンターが、一通の封書を私のもとへ運んできた。差出人は、王国騎馬隊。蝋の印には、剣と馬の紋。


――今年の軍馬の検分を、半月早めたい。隊長みずから、ロウェルへ出向く。


封を切った私の指が、ほんの少しだけ、震えた。よりによって、この時に。けれど、震えたのは不安ではなかった。むしろ、時が来たのだという、静かな覚悟のような震えだった。この検分が、私がロウェルの女主人として果たす、最後の務めになる。ならば、悔いのないよう、最良の馬を選ぼう。私は封書を胸に、まだ暗い牧へと歩き出した。

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