第一話 女主人の椅子
収穫祭の夜、私は自分の席を失った。
ロウェル侯爵家の大広間には、金色の蝋燭が数え切れないほど灯っていた。刈り入れを終えた領民への感謝を示す、年に一度の宴だ。長卓の上座には侯爵と、その隣に女主人の椅子がある。五年前に嫁いでから、私はずっとその椅子に座り、領民の一人ひとりに杯を回し、今年の麦の出来を尋ねてきた。
けれどその夜、私の椅子には別の女性が腰かけていた。
「ミレーヌ、こちらへ」
夫のセドリックが、蜂蜜色の髪の令嬢の手を取って、私の椅子へと導いた。ヴェルニ男爵家のミレーヌ嬢。夫の幼馴染で、半月ほど前から「療養のため」と言ってこの屋敷に滞在していた女性だ。
今思えば、兆しはいくつもあった。この半月、夫は私と目を合わせなくなった。家令への指図に私の知らぬものが増え、宴の席順を私ではなく夫が決めると言い出した。そのどれもを、私は「忙しいのだろう」と流していた。数字を合わせ、商いの文を書くのに追われて、足元の綻びを見ないふりをしていたのだ。
ミレーヌ嬢は頬を染め、遠慮するそぶりを見せながら、けれど当然のように私の椅子に座った。絹の裾がふわりと広がり、卓の銀器に灯が跳ねた。
広間がざわめいた。領民たちの視線が、立ち尽くす私に集まる。
「皆に紹介しよう」
夫が杯を掲げ、よく通る声で言った。
「この家を長く支えてくれるのは、彼女だ。ミレーヌは幼い頃からこのロウェルの土地を知っている。明るく、優しく、皆に慕われる女主人になる。今宵はそのお披露目だと思ってくれ」
拍手が起きた。まばらな、けれど確かな拍手だった。ミレーヌ嬢は目を伏せて微笑み、夫は満足そうに頷いた。給仕の娘が、どうしていいか分からぬ顔で、私と椅子とを見比べていた。
私は――正妻である私は、上座から少し離れた場所に、椅子もなく立っていた。
胸の奥が、妙に静かだった。怒りよりも先に、腑に落ちてしまう自分がいた。ああ、そういうことか、と。この半月の違和感が、ひとつの糸に繋がっていく。夫は、私を厭っていたのではない。私のいる暮らしそのものを、疎ましく思っていたのだ。
「アデライド」
夫がようやく私を見た。困ったような、それでいて咎めるような目で。
「そんな怖い顔をするな。お前は昔から気が張りすぎる。帳簿だ、取引だと、女主人が算盤ばかり弾いているから、屋敷が冷えるのだ。少しは楽になればいい」
楽に。私は五年間、この家を冷えさせないために算盤を弾いてきたのに。この屋敷の暖炉に薪を絶やさぬのも、領民の冬を凍えさせぬのも、その算盤があってのことだったのに。
言い返す言葉はいくらでもあった。けれど私は、それを飲み込んだ。ここで取り乱せば、領民の前で女主人が醜態を晒したという話だけが残る。夫はそれを望んでいる。私が感情的になって、自分から出ていくことを。醜聞を残して、幼馴染に椅子を明け渡すことを。
広間の隅で、古参の農夫が一人、腰を浮かせかけた。去年の飢饉の冬、私が蔵を開いて麦を分けた家の主だ。何か言おうとする彼を、私は目顔で押しとどめた。あなたが庇えば、あなたの立場が危うくなる。この家の主は、まだ夫なのだから。農夫は唇を噛み、ゆっくりと腰を下ろした。その悔しげな横顔だけが、この夜、私の胸に確かに残った。
だから私は、裾を持ち上げ、静かに頭を下げた。
「お心遣い、痛み入ります。少し外の風に当たってまいります」
広間を出た。背中で楽師の弦が鳴りはじめ、笑い声が戻っていく。私がいなくなった方が、宴は明るいらしかった。
秋の夜気は冷たく、私の火照った頬にはちょうどよかった。長い回廊を抜け、私は迷わず厩へ向かった。こういう夜、私の足はいつもそこへ向く。嫁いできた最初の冬、屋敷に馴染めず泣いた夜も、行き着いた先はこの厩だった。
厩の一番奥、藁の匂いのする薄闇の中で、月毛の牝馬が首をもたげた。シャンドル。ロウェルの牧が産んだ、気性の激しい名馬だ。三年前、誰も乗りこなせず、脚を折るぞ、いっそ処分をと言われていたこの馬に、私だけが手を伸ばせた。誰もが鞭で抑えようとする中で、私はただ、毎朝その傍らに立ち、名を呼び続けた。ある朝、シャンドルが自分から私の手に鼻先を寄せた。あれが、私がこの家で初めて「信じられた」瞬間だった。
思えば、この五年、私を本当に信じてくれたのは、人ではなく、この馬と、羊と、牧の年寄りたちだけだったのかもしれない。嫁いできた頃、ロウェルの財政は火の車だった。私は実家の商いで培ったものを、ひとつずつこの土地に注いだ。羊毛の売り先を探し、軍馬の買い手を繋ぎ、領民の冬支度の帳面を組み直した。そのどれもが、夫の目には映らなかった。彼が見ていたのは、豊かになった食卓と、増えた蔵の中身だけ。それがどこから来るのか、彼は問わなかった。問う必要を、感じなかったのだろう。私は、金を生む便利な道具ではあっても、隣に座る妻では、ついになかったのだ。
「ただいま、シャンドル」
私が近づくと、シャンドルは低く鼻を鳴らし、大きな頭を私の胸に押しつけてきた。栗色の瞳が、蝋燭のない闇の中で濡れて光る。この子は私の機嫌を、言葉より先に読む。
手綱には、私が結んだ銀の飾り房が揺れていた。嫁いできた年、実家の商会が扱っていた端切れの銀糸で、自分で編んだものだ。夫は「みすぼらしい」と笑ったけれど、シャンドルはこの房を舌先で確かめると必ず落ち着く。今も、ざらりとした舌が房に触れ、それから私の指を撫でた。
「大丈夫。私は大丈夫よ」
そう言いながら、私は自分の声が少しも震えていないことに気づいた。悲しくないわけではない。ただ、心のどこかが、もうとうに答えを出していたのだ。
この家は、私の家ではなくなった。いや、初めから、私の家ではなかったのかもしれない。
厩番頭のトビアスが、灯りを手に奥から現れた。白髪頭の老爺は、私の顔を見るなり、宴のことを察したらしかった。何も聞かず、ただ湯気の立つ器を差し出した。温めた葡萄酒だった。
「奥さま。夜は冷えます」
「ありがとう、トビアス」
葡萄酒は、蜂蜜と丁子の香りがした。冷えた指先に、温もりがじんわりと戻っていく。器を受け取る手に、彼の節くれだった指がそっと添えられた。その手は、四十年この牧の馬を世話してきた手だった。飾りのない、けれど嘘のない手だ。
「……この牧の羊も馬も、奥さまが来てくださってから、生き返りました。痩せて売り物にならなかった羊に毛艶が戻り、暴れ馬が隊に納められるようになった。それが誰のおかげか、あっしら、忘れちゃおりません。旦那様がどうお言いになろうと」
私は湯気の向こうで、少しだけ笑った。忘れないでいてくれる人がいる。それだけで、失った椅子より、ずっと温かいものが手に残る気がした。
シャンドルが、私の肩越しに厩の戸口を見て、耳を伏せた。誰かが来る。
戸口に立っていたのは、家令のギュンターだった。彼は蝋燭を掲げ、深く沈んだ声で告げた。
「奥さま。旦那様が、明朝、書斎へお越しいただきたいと。……お話が、あるそうにございます」




