第2話 百万回再生された誤鑑定
翌朝、目を覚ますと、私は三種類の人間になっていた。
ひとつ。七億円の婚約指輪を偽物扱いした無能な見習い。
ふたつ。触れただけで過去を読む、玻璃ヶ浦の美少女霊能鑑定士。
みっつ。有名女優の公開プロポーズを妨害した、姉への嫉妬で狂った妹。
どれも私ではない。三つ目に至っては、姉への感情が嫉妬程度で済むなら、たぶん人生はもっと簡単だった。
拡散された三十秒の動画は、私が「その指輪を、彼女にはめないでください」と叫ぶところから始まり、姉が「証明不能な感想です」と切り捨てたところで終わる。
その間に私が「母さんがいた」と口にした部分は、きれいに削られていた。
誰が編集したのかは分からない。けれど、切り取られた映像は、切り取られた宝石と似ていた。不要な部分を削れば、事実はもっとも売りやすい形になる。
コメント欄には、私の通っていた中学校や、母の事故の記事まで貼られている。画面を閉じても、一度見た文字はまぶたの裏に残った。
「百八十七万再生。おめでと」
神代澪は、私の机で勝手にノートパソコンを開き、炎上動画の数字を読み上げた。
「何がおめでたいの」
「無名のD級が一晩で全国区。広告換算したら、そこそこのサファイア買える」
「人の社会的死亡を宝石に換算しないで」
「じゃあ鉱物にする? 今のあんた、圧力だけかかって結晶化してない炭素」
昨夜、競売場から追い出された私を、澪は当然のようについてきた。
ここは港に近い古い雑居ビルの三階、《御影宝石鑑定室》。師匠の御影宗一郎先生が営む、二部屋だけの小さな鑑定所だ。華乃の《黒百合商会》とは、玄関に並ぶ傘の値段からして違う。
壁には、御影先生が四十年かけて集めた合成石の標本が並んでいる。高価な天然石より、騙すために工夫された偽物の方が教材になる、というのが先生の持論だ。
『間違いを見たことのない鑑定士は、正しさを見分けられない』
母を亡くしたあと、華乃と暮らせなくなった私を、先生は見習いとして拾ってくれた。力のことも知っている。それでも一度も、石へ触れて答えを出せとは言わなかった。
御影先生は応接用のソファに座り、何度目かのため息をついた。六十代の穏やかな人だが、鑑定書の誤字には宝石泥棒より厳しい。
「東雲。協会から通知が来た」
「資格停止、ですか」
「審査が終わるまで、単独で石に触れるな。正式には業務制限だ」
少しだけ息が戻る。首の皮一枚と言えば聞こえはいい。実際には、首の皮を鑑定士協会がピンセットでつまんでいる状態だ。
「《白妃の涙》は第三者機関へ移送された。九条氏はプロポーズ演出の中止損害、天城氏の事務所は名誉毀損を主張している」
「私が払います」
「お前の生涯賃金を全部ルーペの下に置いても足りん」
御影先生は一枚の書類を差し出した。
損害保証契約書。
保証人の欄には、東雲華乃の署名があった。
「姉さんが……?」
「昨夜のうちに全額保証を申し出たそうだ。協会への事情説明も、処分決定まで待つよう要請している」
「口封じでしょ」
言った瞬間、澪がスティック状の菓子で私の額を小突いた。
「雑」
「何が」
「考え方。口を塞ぎたいなら、炎上中の妹に七億案件の再検査権なんか残さない。借りを作って従わせたい可能性はあるけど、少なくとも今は、あんたの首を切らせてない」
澪は机の上へ、昨夜撮ったらしい画像を表示した。《白妃の涙》のガードル。拡大すると、C―01の刻印が白い傷のように浮かんでいる。
「この番号、旧王家の管理符号じゃない。競売会社の修復番号でも、国際鑑定機関のレーザー刻印でもない」
「どうして分かるの」
「フォントが嫌いだから」
「理由になってない」
「宝石オタクに『どうして覚えてるの』って訊くの、魚に『どうして泳げるの』って訊くくらい野暮」
澪は胸を張った。黒いパーカーの袖から、右手の火傷痕がのぞく。
私は昨夜の言葉を思い出した。
――その石に入ってる絶望、私のだから。
「あなたは、あの石を知ってるの」
「知ってる」
「母さんとも?」
「質問は一回一個。石を雑に扱う人、会話も雑」
「じゃあ最初の質問。あなたは誰?」
「神代澪。女盛りの十九歳。無職ではなく自由研究者。好きな内包物は三相インクルージョン。嫌いなものは、権威とパクチーと、泣けば説明を省略できると思ってる人」
「最後の、私に言ってる?」
「今ここに泣きそうな人、ほかにいる?」
腹が立つ。なのに、澪が私の前へ温かい缶ミルクティーを置いたことには気づいてしまった。
「C―01が何かは?」
「仮説はある。でも証拠がない。だから先に、石そのものを再鑑定する」
澪はパーカーのポケットから、小さな丸缶を三つ取り出した。中身は色別に分けた研磨片、模造石、正体不明の透明な薄片。
「それ、全部持ち歩いてるの?」
「普通でしょ」
「普通の十九歳のポケットからは、石英の薄片と屈折液は出てこない」
「普通の十八歳は、七億の指輪に触って絶叫しない」
言い返せない。
澪は薄片の一つを光へ透かした。無色なのに、角度を変えると縁だけが淡い紫に光る。
「C番号の試作を、昔一度だけ見た。天然石の上に、感情の残響を一時保管する合成結晶を重ねる技術。理屈が正しければ、《白妃の涙》の表面には、ダイヤとは別の層がある」
「誰から見せてもらったの」
「今は言わない」
「母さん?」
澪は薄片を缶へ戻し、蓋を閉めた。その音が返事の代わりになった。
「私は触るなって言われたばかり」
「だから向こうから触らせに来る」
澪が画面を切り替えた。
派手な赤いジャケットの女性が、配信スタジオで笑っている。宝生ルカ。二十歳でA級へ上がった人気鑑定士。専門的な鑑定を短い動画で説明し、登録者は三百万人を超える。
『昨夜の件、業界として見過ごせません。天然石に“別人の記憶が上書きされた”という東雲凛香さんの主張が、科学的に検証可能なのか。公開再鑑定を申し込みます』
画面下に、大きな文字が踊った。
――逃げれば偽者。受ければ真実。
「炎上へ灯油を持ってくる才能、すごいね」
私が呻くと、御影先生は眼鏡を外した。
「公開鑑定は協会が管理する。受けるなら、業務制限下でも観察者として参加できる。お前の発言が誤りなら、正式に訂正する最後の機会でもある」
「正しかったら?」
「証明してから考えろ」
師匠らしい答えだった。
私はもう一度、C―01の画像を見る。刻印の末尾、一の縦線だけがわずかに揺れている。機械で刻んだ文字なのに、そこだけ人の手でなぞったようだった。
「受けます」
御影先生がうなずくより先に、澪が小さく笑った。
「そうこなくちゃ。泣き虫のわりに、崖から飛ぶ判断だけ速い」
「一緒に来て。あなたの仮説も聞かせてもらう」
「助手扱いはお断り」
「じゃあ何」
「共同研究者。あと、昼食支給。ミネラルウォーターを経費にしていいなら考える」
「ただの水でしょ」
「水晶だってただの二酸化ケイ素って言うタイプ?」
面倒くさい。
けれど、昨夜から初めて、私は一人ではないと思えた。
公開再鑑定は翌日の午後に決まった。それまでに、協会から《白妃の涙》の公開可能な資料が送られてくる。
受諾書へ署名する前、御影先生は私の手を止めた。
「東雲。お前は何を証明したい」
「石に処理があることです」
「母親の死の真相ではないのか」
答えに詰まる。
「公開鑑定へ私情を持ち込むな、とは言わん。鑑定士も人間だ。だが、石に自分の欲しい答えを言わせた瞬間、力は証拠ではなく信仰になる」
先生はペンを返した。
「明日は、母親を探すな。見えている石を見ろ」
私はうなずいた。できるかどうかではなく、そうしなければ鑑定士でいられない。
重量、寸法、旧王家の台帳、過去三十年の落札記録、再研磨歴。私は画面を追いながら、違和感を探した。
母の名前がどこかにあると分かって資料を見るのは、霧の中で足音を追うようだった。
雫は、鑑定書の余白へ小さな丸をつける癖があった。天然石の内包物を見つけた場所ではなく、依頼人が石について語った言葉の横へ丸を描く。
『この傷は、祖母が毎日つけていた証拠』
『売らない。値段を知って安心したかっただけ』
価格にならない言葉を、母は鑑定書からこぼさなかった。
送られてきた《白妃の涙》の記録は整いすぎていて、その丸が一つもなかった。
澪は隣で、資料をめくる速度だけは異常に速い。
「止めて」
同時に声が出た。
表示されていたのは、七年前の修復記録だった。
当時、《白妃の涙》は長期保管による台座の腐食で、一度リングから外されている。再研磨は〇・〇二カラット未満。処理なし。修復後、個人保管庫へ返却。
「これ、ページ番号が飛んでる」
私が言うと、澪は首を横へ振った。
「そこじゃない。担当者」
修復責任者の欄には、最初は黒塗りがかかっていた。協会の公開処理が甘かったのか、コピーされた別レイヤーを澪がずらすと、その下から文字が現れる。
主任鑑定士――東雲雫。
呼吸が止まった。
母の名前だった。
しかも日付は、母が事故で死んだ日の前日。
「凛香」
澪の声が低くなる。
修復記録には続きがあった。
備考欄。
《感情負荷の一時移送。試作媒体C―01を使用》
「やっぱり、あの石はただのダイヤじゃない」
私は澪を見る。
「C―01って、何?」
澪は答えなかった。
代わりに、右手の火傷痕を左手で隠した。
その沈黙だけで、答えの一部を知っていることが分かった。
パソコンが着信音を鳴らす。
差出人は東雲華乃。
本文は一行だけだった。
《明日の公開鑑定で、母の名前を口にしないで》
鑑定士のメモ帳:石の「側面」に刻まれた極小の暗号
宝石のカットにおいて、上部と下部の境目にある一番分厚いフチの部分を「ガードル(Girdle)」と呼びます。
* 肉眼では見えないシリアルナンバー: 現代の高級ダイヤモンドのガードルには、鑑定機関(GIAなど)のロゴやレポート番号がレーザーでミクロン単位で刻印されています。10倍ルーペや顕微鏡を使わないと読めないほど極小です。
* 偽造防止と追跡: この刻印があることで、万が一盗難に遭ったりすり替えられたりしても、「これが自分の石だ」と証明できます。




