第12話 砕かれた首飾り
首飾りは、身につける前から人を破産させる。
歴史には、王妃が受け取ってすらいないダイヤモンドの首飾りが、国の信用まで傷つけた事件がある。
東雲家の首飾りは国を滅ぼさなかった。
代わりに、私たちの家を七つに砕いた。
華乃が十五歳で私の側石を買い戻したと知った翌日、黒百合商会へ一人の老人が訪ねてきた。
倉橋征一。父の破産処理を担当した、元競売人だった。
「十年近く、預かりっぱなしで申し訳なかった」
老人は、古い革箱を鑑定台へ置いた。
中から現れたのは、石のない首飾りの枠だった。
黒ずんだプラチナと金。中央に大きな楕円形の座。その周囲へ、六つの小さな爪座が花弁のように並ぶ。すべて空で、歯の抜けた口のように見えた。
「東雲家伝来《七星環》の台座です。債権者の保管庫から、先月になって見つかりました。ただ、解体後に模造された枠だという異議が出ている」
「本物なら?」
私が訊く。
「歴史資料として、美術館が引き取る用意がある。偽物なら地金として処分です」
「石が一個もないのに、鑑定するの」
澪は枠を覗き込み、すぐに目を輝かせた。
「する。むしろ石がないから面白い。爪の摩耗、半田、改作痕。黒歴史が露出してる」
「さっきまで興味なさそうだったのに」
「宝石の抜け殻を侮辱しないで。脱皮殻から生態を読むタイプのオタクもいる」
「分類が増えた」
華乃は私たちの会話を無視し、古い家族写真を台へ並べた。
曽祖母が《七星環》をつけている写真。母が結婚式で借りた写真。父が散逸した石を集め直し、完成直前まで組んだ仮留め写真。
同じ首飾りなのに、年代ごとに姿が違う。
中央石は無色のダイヤモンドから黄色いサファイアへ。側石の一つは、私が生まれた年に淡桃色のサファイアへ入れ替えられている。
「伝来品って、変えていいの?」
「家族が使う宝飾品です」
華乃が答えた。
「博物館の標本ではない。修理も改作もされます。変わらないことを本物の条件にすれば、百年使われた品ほど偽物になる」
私は台座をライトへ傾けた。
右端の爪だけ、ほかより金色が濃い。異なる時期に足された爪だ。写真では、私の桃色サファイアが留まっていた場所と一致する。
裏面には、古い半田の流れ。四十年以上前の修理写真と同じ形をしている。
中央座の内側には、細い二本の傷が交差していた。
「石を外すときについた傷?」
「違う」
澪が先端の丸い探針を当てる。
「傷の上に古い酸化膜がある。解体時より前。たぶん、最初の中央石が回らないよう、職人が内側へ目印をつけた」
写真を拡大すると、中央ダイヤモンドのパビリオンに小さな欠けがあり、傷の交点と向きが合う。
さらに私は、左下の爪の裏に、針先ほどの丸いくぼみを見つけた。
母の癖だ。
鑑定書の余白へ丸をつけたように、母は自分が修理した家族の品へ、見えない場所に一つだけ丸を残していた。
「本物です」
私は言った。
「少なくとも、母が使い、父が石を戻そうとした《七星環》と同じ台座。あとから作った模造品ではありません」
華乃は黙って私の所見を読み、署名した。
倉橋は安堵するより、申し訳なさそうに枠を見た。
「完成品として売れば、歴史的な価値がついたかもしれない。だが当時は、所有権争いと借金が重なって、首飾りのまま買う者がいなかった」
「だから、壊したんですか」
「石ごとなら買い手がついた。債権者へ一円でも多く返すには、それが正しかった」
正しい。
その言葉が、空の爪座より冷たく響いた。
「父は、どうしてそこまで集めたんです」
倉橋が華乃を見る。
姉は止めなかった。
「最初は、奥様への贈り物だった」
老人はゆっくり話し始めた。
父が子どもの頃、《七星環》は相続争いで石ごとに売られた。家族が離れるたび、一石ずつ遠くへ行ったという。
母と結婚した父は、いつか全部を買い戻すと約束した。
私が生まれた年、桃色サファイアを加えた。華乃の石も、母の石も、父自身の石もあった。
首飾りは、一族の権威ではなく、父にとって家族を一つの輪に留める形だった。
けれど、一石を見つけるたび相場より高く買った。
売り手は父が断れないと知り、値段を上げた。銀行が融資を止めると、父は灰色市場の金融業者から借りた。
「あと一つ」
父は何度も言ったらしい。
あと一つそろえば、母が笑う。
あと一つそろえば、華乃も凛香も離れない。
あと一つそろえば、壊れた家は元に戻る。
最後の一石を名乗る無色ダイヤモンドが現れた夜、父は家を追加担保へ入れる契約書まで用意した。旧写真と寸法が合い、再カットの説明もついていた。誰もが本物だと思った。
違うと言ったのは、十五歳の華乃だけだった。
写真の中央石には、羽根のようなフェザーと二つの小さな黒点があった。持ち込まれた石には、似せて削った表面傷しかない。内部の指紋が一致しなかった。
『同じ石だと書いてくれ』
父は娘へ頼んだ。
『この一個がそろえば、全部終わる』
『終わりません。別の石です』
華乃は、父が泣いても署名しなかった。
契約は止まり、家はその夜だけ守られた。けれど父は、夢を壊した娘をしばらく見ることができなかったという。翌朝になって、華乃の机へ一枚の紙を置いた。
《正しくてよかった。正しいお前が、私と同じものを信じ始めることだけが怖い》
けれど、最後の石を買う前に、すでに家そのものの大半が担保へ入っていた。
「お父様は強欲だったわけではない」
倉橋が言う。
「愛情の証明を、落札額でしか表せなくなった。だから止められなかった」
私は華乃を見た。
「姉さんは、止めようとしたの?」
「最初から」
答えは短い。
「でも、私の石だけ買った」
「あの石には、あなたの名前が刻まれていました」
「ほかの石にも家族の名前があったでしょ」
「私に買えたのは一個だけです」
その一個を買ったのは、十五歳の華乃が全国ジュニア鑑定賞の賞金と記念ブローチを売って作った金だった。
全部を救えないと分かったうえで、一個を選んだ。
「どうして、私に返さなかったの」
「当時、あなた名義の財産はすべて差押え対象でした」
「じゃあ、そのあと」
「石を渡せば、あなたは首飾りを探し始めた」
「決めつけないで」
「今のあなたを見ても、そう言えますか」
言い返せなかった。
母の名前があれば資料を追い、澪の悲しみがあれば競売へ飛び込む。私は父とは違うと思っている。でも、失ったものを全部つなぎ直せば家族が戻ると、心のどこかで信じている。
「首飾りを、また組み立てるつもりはないの」
華乃は空の台座を見下ろした。
「ありません」
「三個、買い戻してるんでしょ。標本箱に記録があった」
私の桃色サファイア。母が結婚式で身につけた小さなダイヤ。そして、華乃自身の名が刻まれた青いスピネル。
姉はSS級になってから、鑑定料の一部を使い、流通先が分かった石を一つずつ買い戻していた。けれど同じ箱へは入れず、それぞれ別の引き出しへ、別の所有者名で保管している。
「どうして一緒にしないの」
「石を並べれば家族が戻ると考えた時点で、父と同じです」
それが、三つを買い戻しながら一つに戻さない、姉の答えだった。
華乃の指が、石のない爪をなぞる。
「完成させれば家族が戻るという嘘を、私は父から継ぎません」
「父さんのこと、今も覚えてる?」
「記録は」
「記録じゃなくて。笑い方とか、声とか」
華乃はすぐに答えなかった。
「……笑い声は、もう思い出せません」
胸元のC―00へ、指が触れる。
「ですが、何をした人かは記録に残っています。それで十分です」
十分な人の声ではなかった。
その声には、もう味が分からない人とは思えないほどの痛みがあった。
倉橋は革箱の底から、もう一つ薄い書類箱を取り出した。
「破産財産に混ざっていた東雲家の私文書です。研究室の機器も一時、事業担保に入っていたため、事故後の記録が一部こちらへ移されていた。返還先が確定するまで保管していました」
華乃の表情が変わる。
「中身を確認したのですか」
「封は開けていません」
箱には母の赤い印が押されていた。
華乃は受領書へ署名し、急ぎの連絡が入ったと言って執務室を出た。
残された書類を整理する間、澪は一言も喋らなかった。
《七星環》の購入記録。
父の借入契約。
母の研究設備の保険証書。
最後に、焦げた透明袋が出てきた。
「凛香」
澪の声が固い。
中に入っていたのは、事故当日の実験管理票だった。
《対象者 神代澪》
《要請内容 感情負荷の永久消去》
《安全上限 二十五パーセント》
《設定値 百パーセント》
監督者――東雲雫。
承認欄は、空白。
そして実行担当者の欄には、姉の署名があった。
《東雲華乃》
母が許可しなかった永久消去を、華乃は実行していた。




