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【連載完結】どうぞ、ご勝手に。その真実の愛とやらで、精々人生を楽しんで下さい【↗】  作者: 逆立ちハムスター


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5/7

琥珀色の契約と、新天地への鍵

少し寝不足気味の翌日正午ちょうど。


我が家の前に現れたのは、下町の泥道には到底似合わない、漆黒の美しい馬車だった。

磨き上げられた車体には、ヴァルター商会の紋章である「天秤と翼」が銀色の細工で施されている。御者台から降りてきたのは、仕立ての良い制服を着た物腰の柔らかい初老の男性で、私を見るなり帽子を取って深く一礼した。


「エルサ・モルツ様ですね。レイナード様より仰せつかり、お迎えに上がりました」


「あ、はい……よろしく、お願いします」


緊張のあまり声が裏返りそうになるのを必死に堪えながら、私は用意していた中で一番綺麗な、しかし実用的な若草色のワンピースの裾を整えて馬車に乗り込んだ。

車内はふかふかの革張りのシートで、かすかに高級な白檀の香りが漂っている。窓の外を流れる下町の汚れた路地、そして徐々に中央通りの壮麗な石畳へと変わっていく景色を眺めながら、私の心臓は朝からずっと、早鐘を打ち続けていた。


────


馬車が止まったのは、王都の貴族街の一角にある、隠れ家のような佇まいの邸宅だった。

看板すら出ていないが、ここが王都の食通たちがこぞって足を運ぶという完全紹介制の最高級レストラン「レーヴェン」であることは、庶民の私でも聞いたことがある。


「お待ちしておりました、エルサさん」


エントランスをくぐると、そこにはすでに外套を脱ぎ、洗練された白いシャツに深紅のベストを合わせたレイナード様が待っていた。彼の灰色の瞳が私を捉えた瞬間、パッと花が咲くような優しい笑みがこぼれる。


「……レイナード様。このような素晴らしい場所に、私のような者が来てしまってよかったのでしょうか」


「何をおっしゃるのですか。今日のあなたは、我が商会が社運をかけて口説き落としたい、世界で唯一無二の技術を持つ偉大な職人であり、未来のビジネスパートナーです。このレーヴェンを貸し切っても足りないくらいですよ」


スマートに私の手を取り、案内されたのは、美しい中庭が見渡せる静かな個室だった。

ガラス窓の向こうには、季節外れの見事な薔薇が咲き誇り、柔らかな木漏れ日がおろしたての白いテーブルクロスを照らしている。格式高い雰囲気に、私は背筋が伸びる思いだった。


席に着き、澄んだ金色のスープと新鮮な季節の野菜を使った前菜が運ばれてくると、レイナード様の表情から、先ほどまでの柔らかい「青年」の気配が消えた。

代わりに現れたのは、大陸一の商会を背負って立つ、怜悧で冷徹な「プロの商人」の顔だった。


「では、エルサさん。食事を楽しみながらで恐縮ですが、ここからは真面目なお堅い話を始めましょう。お互いの未来のために、極めて現実的で、シビアな交渉です」


「はい。よろしくお願いいたします」


私もスプーンを置き、居住まいを正した。

レイナード様は手慣れた手つきで、鞄から数枚の羊皮紙と、魔導インクのペンを取り出し、テーブルの上に広げた。そこには、驚くほど緻密に計算された「ヴァルター商会×エルサ」の事業計画書が記載されていた。


「まず、最も重要な【利益の分配】についてです。我が商会としては、あなたが開発する『長期食品維持の秘薬』の総売上のうち、ベースとなるペーストの製造対価及び、技術提供として、あなたに【35パーセント】のロイヤリティを永久に支払い続けることを提案します」


「さんじゅうご……!?」


私は思わず声を上げそうになった。通常の職人と商会の提携であれば、技術提供者は多くて10から15パーセントが相場だ。35パーセントというのは、破格という言葉すら生ぬるい、対等以上の条件だった。


「驚かれるのも無理はありません。ですが、これには理由があります。私たちは、あなたに『ただの労働者』になってほしくないのです。あなたは開発者であり、この事業の魂だ。この数字は、それに対する私たちの敬意です。……ただし、その代わりと言ってはなんですが、今後の【生産体制】については、少しこちらのやり方(既存システム)に合わせていただきます」


レイナード様はペン先で計画書の一行を指し示した。


「現在、あなたは畑仕事から、食品加工、ハーブの注入、調整、抽出、精製、改良、実験、乾燥、個包装など、そして市場での直売まで、すべてを一人でこなしていますね。これでは、どんなに新しい設備を使っても、あなたの身体がいつか壊れてしまう。そこで、提携後は【工程の完全分離】を行います」


「工程の分離……?」


「ええ。エルサさん、あなたには『最も核心となる部分』、つまり、普段通り錬金台を使って、核の秘薬生産、すなわち、素材の旨味を閉じ込め、魔力を循環させる『ベースペーストの製造』だけに専念していただきます。そこから先の、均一に小分けし、こちらの専用の魔法瓶でパック化し、ラベルを貼って梱包する……という単純作業は、すべて我が商会が雇用する信頼できる作業員たちに任せます。もちろん、改良研究など、希望であれば、会議に議題として出しても構いません。最初、利益が出るまでは、これと言った権利を与えることは父と役員の承認が必要なので無理ですが、すぐに証明されると思うので、然程、心配はいりません」


私の肉体的な負担は劇的に軽減される。私は錬金台の前に立つだけで、それに専念できて、以前の何倍もの保存食の「素」を生み出すことができるのだ。


「そして、あなたが一番懸念していた【価格と流通】についてです」


レイナード様の瞳が、鋭く光る。


「あなたが今まで通り、下町のお客さんたちに銅貨数枚で売りたいという理念は、100パーセント尊重します。綺麗事ではなく、正直な話、高利少売は限界を迎えていて、薄利多売の時代が到来すると見ているからです。それに、庶民の味方というのは、とても大きなブランド力であり、同時にヴァルター商会の理念に合致している。なにより王都の下町エリアに関しては、ヴァルター商会の直営店の一部を使い、あなたが決めた『特別価格』のまま据え置きで販売しましょう。適当に発売記念や、ペネトレーション・プライシングといえば、会議は通るでしょう。ここでの利益はほぼゼロになりますが、それは我が商会の『社会貢献』としての宣伝費で相殺します」


「本当ですか……!?」


「ええ。ですが、その代わり――王都の外、遠方の街や、国境を守る騎士団、さらには隣国への輸出に関しては、我が商会の設定する『適正な商業価格』で販売させていただきます。遠方への輸送には、商品の品質を完全に保つための船や馬車、コンテナを使用しますし、また関税や護衛の私兵コストもかかります。それらを加味した上で、富裕層や軍、地方の商人たちからは、しっかりと利益を回収させていただきます。……この『二段階価格制度』でなければ、ビジネスとして持続しません。更に研究費用なども。これについて、あなたの意見は?」


レイナード様の問いかけは、非常に現実的で、一切の甘えを許さないものだった。

私は頭の中で、彼の言葉を必死に咀嚼した。


下町のみんなへの安価な供給は守られる。その上で、商会の流通網を使い、遠方の人々には相応の価格で届ける。それは、私の技術が本当に必要とされている場所へ届くための、最も確実で、最も持続可能な方法だった。


「……異議はありません、レイナード様。むしろ、そこまで私の理念を汲み取った上で、完璧な商業ベースに乗せてくださったことに、感謝しかありません」


私が真っ直ぐに彼を見つめて答えると、レイナード様は「ふぅ」と緊張の糸をほどくように息を吐き、プロの商人の顔から、いつもの優しい青年の顔へと戻った。


「よかった。あなたなら、この小難しい話や条件を理解してくれると信じていました。……さあ、お堅い話はこれで本当におしまいです。書類は一度片付けましょう。せっかくのメインディッシュ、極上のローストビーフ(カトブレパス)が冷めてしまいますから」


レイナード様がパチンと指を鳴らすと、絶妙なタイミングで温かい料理が運ばれてきた。先ほどまでの張り詰めた空気が、一瞬にして、薔薇の香る穏やかな空間へと溶けていくのを感じた。


美味しい料理を口に運びながら、私たちは少しずつ、お互いのプライベートな話へと移っていった。

レイナード様は、私が下町の小さな農家に生まれ、両親の背中を見ながら育ったこと、そして、祖父母が遺してくれた農園や理念をどうしても守りたかったことなどを、とても熱心に、愛おしそうな目で聞いてくれた。ルカスとの間にあった泥沼のような出来事については、言葉を濁して「色々と大変な時期があって……」とだけ伝えたが、彼はそれ以上深く追及せず、ただそっと私の手元にお代わりの温かい飲み物を注いでくれた。その細やかな配慮が、とても心地よかった。


「エルサさんの生い立ちを聞いていると、なんだか、私の父の若い頃を思い出します」


デザートの焼き林檎を前にして、レイナード様がふと、遠い目をして呟いた。


「レイナード様のお父様ですか? ヴァルター大商会の、あの高名な会長様ですよね」


「ええ。今でこそ『大陸一の大商人』なんて呼ばれて、貴族たちからもお世辞を言われていますが……元々は、ただのしがない、地方の貧しい行商人だったのですよ。馬車一台に安い雑貨を積み込んで、明日の食事のために泥にまみれて走るような、そんな泥臭い生活をしていたんです」


大商会の御曹司であるレイナード様から、そんな言葉が出るなんて思いもしなかった。驚く私に、彼はどこか誇らしげに話を続けた。


「私がまだ本当に小さかった頃、私の母……父の妻が、隣国で大流行した重い流行り病に倒れたのです。地方を回っていた父は、その報せを聞いて、母のために特効薬となる高価なハーブをかき集めました。しかし……当時のこの国の輸送網は、今よりもずっと脆弱で、不完全だった」


レイナード様の瞳に、かすかな痛みが走る。


「道は荒れ果て、 盗賊も多く、何より『食品や薬品を、良好な状態のまま遠方へ運ぶ手段』なんて、どこにも普及していなかった。父は必死で馬を走らせましたが、王都に辿り着いた時には、ハーブはすっかり枯れ果て、薬としての効能を失っていたのです。母は……一命は取り留めたものの、適切な治療が遅れたせいで、何年もベッドから起き上がれないほどの病弱な身体になってしまいました」


「そんな……そんな悲しいことが……」


「その時、父は絶望し、そして誓ったそうです。『この世界の流通が不完全なせいで、届くべき命の綱が届かない。そんな悲劇を、二度と繰り返してはならない。どんなに遠くの病人の元にも、生きた薬を、新鮮な食べ物を、必要なその瞬間に届けられるような、完璧な流通網をこの手で創り上げるんだ』と」


レイナード様は、ご自身の胸元にそっと手を当てた。


「それからの父は、人が変わったようにビジネスに全てを注ぎ込みました。輸送網を徹底的に強化し、安全なルートを確保するために、次第に傭兵達を訓練し、私兵にまで変化させた。これは運の問題でもありましたが、輸送網や安全なルートが次第に重宝されていき、大きな問題も起きず、莫大な利益を生み出す事ができた。そして母の治療費と事業の開発資金を調達した。時に泥水をすすり、貴族達に頭を下げ、冷徹な悪魔だと同業者から酷く罵られながらも、ただ一つの目的のためにビジネスを大きくし続けたのです。……その結果、父は大成功を収め、世界最高峰の治癒師と治療物資を揃えることができ、数年前に、母の病は奇跡的に完治しました。今では信じられないほど元気に、父の愚痴を言いながら実家の庭園の手入れをしていますよ」


クスッと笑うレイナード様の目には、じんわりと温かい光が灯っていた。


「だから、私はこの『ヴァルター商会』の仕事を、心の底から誇りに思い、大切にしているのです。私たちの流通網は、ただお金を稼ぐための道具じゃない。誰かの命を、誰かの大切な人を守るための、繋ぐための力なんだ、と」


彼の言葉が、私の胸の奥に、ストンと真っ直ぐに落ちてきた。

ああ、この人は、だから私の保存食ビジネスに目を留めてくれたんだ。ただの金儲けの道具としてではなく、天候や不作、冬の寒さに凍える人々を守りたいという私の想いに、自身の、そしてお父様の「理念」を重ね合わせてくれたのだ。


「……だからこそ、エルサさん」


レイナード様が突然、私の目を真っ直ぐに見つめてきた。その灰色の瞳には、吸い込まれそうなほど真摯な熱が宿っている。


「私は、あなたのあのレシピを見た時、そしてあなたの話を聞いた時……胸が震えたのです。ただの利益のためではなく、下町の人々を守ろうとする、あなたのその『誠実さ』に……私は、強く惹かれた。あなたのその心ごと、私は我が商会に、いや、私の隣に、お迎えしたいと思ったのです」


「え……っ」


心臓が、跳ね上がった。

『私の隣に』。その言葉が持つ意味を考えてしまい、頭が一瞬で真っ白になる。それはビジネスパートナーとしての言葉なのか、それとも――。


ハッと我に返ったように、レイナード様が自分の言葉の重さに気づき、みるみるうちに耳の付け根まで真っ赤に染めていくのが見えた。彼は慌てて視線を泳がせ、手元のティーカップを包み込む。


「あ、いや! 今の、は、その……商人として、職人の姿勢に感銘を受けたという意味で、ですね! 決して、その、不埒な意味では……!」


いつも完璧で洗練されている大商会の若旦那様が、まるで恋を知ったばかりの少年のように、おろおろと狼狽えている。その姿が、たまらなく愛おしくて。

そして私自身の顔も、今までにないほどに、カッと熱くなっているのが分かった。胸の奥が甘酸っぱく、キュンと締め付けられるような、そんなあたたかな感覚。


「ふふ……はい。レイナード様のお気持ち、とても嬉しいです」


私が俯きながらそう答えると、個室の中に、なんとも言えない照れくさくて、けれど酷く甘い、心地よい沈黙が流れた。中庭の薔薇の香りが、私たちの間にそっと吹き込んできたようだった。


楽しい会食と、完璧なビジネスの約束。

それは、私とレイナード様の未来を繋ぐ、琥珀色のスープのように温かい、特別な始まりの日となった。


────


それから数日後。

私の愛した、下町の小さな家は木箱で埋め尽くされていた。


「よし、これでキッチンの小物は全部詰めたわね」


私は額の汗を拭いながら、荷札を貼った箱をポンと叩いた。

ヴァルター商会との正式な契約が締結され、私は王都の中央、商会が管理する特設工房兼住居へと引っ越すことが決まったのだ。そこは、最新のセキュリティーが施され、私の安全と、保存食の大量生産を完全にバックアップしてくれる、素晴らしい新天地だという。


「エルサ様、お荷物の運び出しを始めますね。足元にご注意ください」


レイナード様が手配してくれた、商会お抱えの職人たちが、手際よく我が家の家財道具を運び出していく。

彼らは、私が昨日まで死に物狂いで使いこなした最新の魔導錬金台を、まるで国宝でも扱うかのように厳重に布で包み、慎重に馬車へと積み込んでくれた。


そして――。


「エルサ様、こちらの……随分と古くて錆びついた錬金台も、お運びしてよろしいのですか?」


職人の一人が、台所の隅にぽつんと残されていた、あの思い出の詰まった古い錬金台を見て、不思議そうに尋ねてきた。部品もなく、完全に壊れて動かない、ただの鉄の塊だ。普通なら、ここに捨てていくか、鉄くずに売ってしまうような代物。


「はい。それは、私の大切な……思い出の品なんです。なので、それもお願いします」


「承知いたしました。では、こちらも傷がつかないよう、丁寧に梱包いたしますね」


職人たちは嫌な顔一つせず、その壊れた古い錬金台を、最新のものと同じように大切に包み、馬車へと積み込んでくれた。レイナード様の細やかな配慮が、こんなところにも行き届いている。その事実が、引っ越しの不安を優しく和らげてくれた。


作業は驚くほどスムーズに進み、わずか数時間で、家の中のすべての荷物が運び出された。


「……あぁ」


職人たちが外へ出て行き、一人残された私は、がらんとしたリビングの真ん中に立ち尽くした。


荷物がなくなり、これほど狭い場所で今までやっていたなんてと。

壁に染み付いた、大釜から立ち上った様々なハーブ野菜の香り。

床の傷は、いつのものなのだろうか。いや、幼い頃に私が転んでつけた傷だったかもしれない。

祖父母や両親がここで笑いながら野菜を刻んでいた姿。私が一人で、泣きながら大釜を混ぜていた夜。


新しい人生の始まりへの、胸が躍るような高揚感は、確かにあった。

けれど、この住み古した、泥臭くて、けれど私のすべてだった家を手放す瞬間、胸の奥から、言葉にできないほどの切なさと、深い感傷が込み上げてきた。


「ありがとう。私の大切なお城」


ぽつりと呟いた声は、家具のない部屋に寂しく反響して消えた。

これでいいんだ。私は過去を捨てるんじゃない。両親と祖父母が遺してくれたこの場所から、みんなの想いを胸に、もっと広い世界へ羽ばたくんだ。恋しくなったら、また帰ってくればいい。


私は最後の荷物が入った小さなトラベルバッグをしっかりと肩にかけ、振り返ることなく、一歩一歩、確かな足取りで玄関へと向かった。


パタン、と。

古びた木の扉を閉める。


一呼吸、置いて。


チャリ、と重い金属の音を立てて、玄関の鍵を閉めた。

カチャリ、というその静かな音は、私のこれまでの苦難に満ちた下町での生活への終止符であり、同時に、未来への扉を開けるための、新たなる新天地への鍵の音だった。


「エルサ様。忘れ物はないでしょうか? 問題なければ新居へ向けて、出発いたします」


迎えの馬車の扉が開かれる。

私は涙を拭い、満面の笑みを浮かべて、新緑の風が吹く王都の空へと、新しい一歩を踏み出した。

「はい、出発しましょう!」

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