誠実なる敗北と予想外の招待
扉を開けると、そこに立っていたのは、やはり深い紺色の外套をまとった若者――レイナード・ヴァルターだった。
「……レイナード様」
私は一瞬、身体を硬くした。少しだけ、嫌な予感が胸をよぎったのだ。
彼は大金を払って私のレシピを買っていった。もしかして、「レシピ通りに作ったのに、全然うまく作れないから金を返せ」とでも言いに来たのだろうか。あるいは、大商会の力を使って、私の街での販売を差し止めにきたのか。
私の警戒を察したのか、レイナードは困ったように眉を下げ、優しく微笑んだ。
「こんにちは、エルサさん。突然押しかけてしまって申し訳ありません。……少し、お話しする時間をいただけますか? 怒鳴り込みに来たわけではありませんので、ご安心を」
彼の穏やかな声に少しホッとして、私は彼を家の中へと通した。
おざなりの丸椅子に座ってもらい、今回は少し奮発して、市場のハーブ商から仕入れた上質なカモミールティーを淹れて差し出す。湯気と共に、甘い香りが部屋に広がった。
レイナードは器を両手で包み込み、一口すすると、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「相変わらず、あなたの淹れるお茶は、ただのハーブなのに驚くほど心が落ち着きますね。……さて、単刀直入に本題に入りましょう。あの時、買い取らせていただいた、あなたの『レシピ』についての報告です」
私はゴクリと唾を飲み込んだ。レイナードの瞳が、真摯な光を宿して私を見つめる。
「まず、事実からお伝えしますね。……あなたの書いたレシピ通りに手順を踏んで調合したところ、見事に『秘薬』が完成しました」
「え……」
私は嬉しいような、けれど同時に、どこか寂しいような、複雑な感情に胸を締め付けられた。
やはり、私の技術は大商会の手によって再現されてしまったのだ。私の唯一無二の価値が、薄れてしまったような、そんな切なさが頭をもたげる。
しかし、レイナードは言葉を止めなかった。彼は首をゆっくりと横に振り、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「ですが――話はここからです。まずは当日すぐに、我がヴァルター商会が抱える、数百人の錬金術師たちに同じレシピを渡し、大量生産を命じました。結果は、どうだったと思いますか?」
「……どう、だったのですか?」
「全滅です。ひとりとして、まともな保存ペーストを作ることができませんでした。大釜を爆発させるか、ただの焦げカスを作るか……。あなたの忠告通り、ただの手順書では、彼らにはまったく再現できなかったのです」
レイナードの言葉に、私は思わず目を見開いた。
「そ、そんなはずは……。手順は詳しく書いたはずですし、魔力の流し方も……」
「ええ、完璧なレシピでした。だからこそ、私は躍起になった。次に私は、我が商会が誇る、最高の『高位の名錬金術師』たちを十名の精鋭チーム集め、最高級の最新設備で挑戦させたのです。その結果……ようやく成功作が生まれたというわけです。ですが、その成功率は、今日まで行なって、わずか『2割』に満たなかった」
レイナードは、信じられないものを見るような目で私を見つめた。
「さらに、我が商会が雇っている、高名な錬金学者たちにも、そのレシピを提出しました。『誰もが作れるように、もっと簡易的なアレンジレシピにできないか』とね。彼らは今日まで研究し尽くし、そして、こう結論づけたのです」
レイナードは、ハーブティーのカップをテーブルに置いた。
「『このレシピは、素材の性質、魔力の流動、熱量の変化が、驚異的なバランスで噛み合っている。一箇所でも手順を省略したり、簡略化したりすれば、全体の調和がドミノ倒しのように崩壊する。このエルサという人物のレシピこそが、すでに極限まで計算され尽くした【究極の最適解】だ。これ以上のアレンジは不可能である』……と」
部屋の中に沈黙が降りた。
「つまり、私はあなたから買い取ったレシピに、さらに多額の研究費と人件費をつぎ込んだ挙句……現状、何も得られなかったということです。成功率2割の、高給な名錬金術師達の貴重なリソースを使い、更に高価な材料を使わせて作らせても、出来上がるのはわずかな量。そんなものを市場に出せば、コストが跳ね上がり、金貨数枚でも赤字になる。――ビジネスとして、まったく成り立たないのです」
レイナードは両手を上げ、肩をすくめてみせた。
「この件に関しては、あなたに報告する義務は一切ありません。契約はすでに完了していますし、私が勝手に失敗しただけですから。ですが……私は商人である前に、誠実な人間でありたい。あなたに『レシピは意味がない』と忠告されていたのに、それを甘く見ていた己の傲慢さを恥じ、その非を認めに来たのです。これは、私の独断での訪問です」
彼は椅子から立ち上がると、私の前に立ち、洗練された動作で、しかし今までで最も深く、頭を下げた。
「エルサさん。私はあなたの才能を、単に『珍しいアイデアを思いついた、運の良い下町の女性』だと思っていました。しかし、違った。あの素晴らしい保存食は、あなたの血の滲むような類稀な『技』と、そして何より、下町の人々を救いたいという純粋な『心』……その2つが揃って初めて完成する、あなただけの『奇跡』だった。……私の完全な敗北です。参りました」
大商会の御曹司であり、次期ギルドマスターとも噂される若者が、一介の農家の娘である私に、ここまで真っ直ぐに敗北を認め、称賛の言葉を贈ってくれている。
その誠実さに、私の胸の奥が、トクン、と小さく跳ねた。
ルカスはいつも、私を見下し、私の技術を「泥臭いゴミ」と罵った。でも、この人は違う。私の努力を、私の技術を、誰よりも正当に評価し、敬意を払ってくれている。
「レイナード様……」
「お騒がせして申し訳ありませんでした。ですが、これでスッキリしました。あなたの技術は、やはりあなただけのものです。これからも、その素晴らしい技術で、あなたの救いを求める人々を救い、心を温めてあげてくださいね。……では、これで失礼します」
レイナードは爽やかな微笑みを残し、踵を返して扉へと歩き始めた。
その背中を見つめていた私の脳裏に、さっきまで抱えていた「不安」が、猛烈な勢いでフラッシュバックした。
(待って。レイナード様の今の報告は……私にとって、恐ろしい宣告でもあるんじゃないの?)
宮廷レベルの錬金術師たちですら、2割しか成功しない。学者たちがお手上げの技術。ビジネスとしては大失敗の類い。
それはつまり、私に万が一のことがあった時、この大陸で私の保存食の「代わり」を作る人は、どこを探しても存在しないということだ。私が倒れたら、あの人々はどうなってしまうの?
それに、遠くの家族に届けたいと言っていた、あのお客さんたちの願いは?
私ひとりの力じゃ、生産量にも、輸送網にも限界がある。
でも……もし、この人と手を組むことができたなら?
「レイナード様! 待ってください!」
私の声が、静かな部屋に響いた。
レイナードが驚いたように足を止め、振り返る。その灰色の瞳が、丸く見開かれていた。
────
「……エルサさん? 何か、まだ私に御用でしょうか?」
呼び止めてしまったものの、心臓がバクバクと激しく鐘を鳴らしている。
一介の農家の娘が、大陸一の大商会の若旦那に向かって、こんな提案をするなんて、身の程知らずもいいところだ。客観的に見たら「身の程を知れ」と誰もが大笑いするに違いない。
でも、ここで縮こまっていたら、私のビジネスはいつか限界を迎えて潰れてしまう。
私は拳をぎゅっと握りしめ、レイナードの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「レイナード様。……私と、【ビジネス提携】をしていただけませんか?」
「……提携ですって?」
レイナードの眉がピクリと動いた。私は緊張で震えそうになる声を必死に抑えながら、胸にある想いを一気に吐き出した。
「はい。今、レイナード様がおっしゃった通り、私の技術は私ひとりに依存しています。でも、それって、私にとっても、すごく危険なことなんです。市場では今、私のスープを求めて毎朝騒動が起きています。もし私が病気で倒れたら、彼らは冬を越せる気力がなくなってしまうかもしれない。私ひとりの力では、これ以上の増産も、万が一の時のストックの大量確保も不可能です」
私は一歩、彼に近づいた。
「それに、常連さんたちから何度も言われるんです。『遠くに住む家族にもこの保存食を送りたいけれど、輸送費が高すぎるし、途中で紛失するのが怖いから諦めている』って。……私には、王都の外へ商品を届けるための、安全で安価な輸送ルートなんてありません。それを築く力も、決して手に入らないでしょう」
レイナードは何も言わず、私の言葉を、じっと、深く、吸い込まれるような瞳で聞き入っている。
「でも、ヴァルター商会なら違います。大陸全土に広がる強固な流通網、商品を安全に管理するノウハウ、そして優秀な人材がいる。……私の『生産技術』と、ヴァルター商会の『組織力』を組み合わせるんです。私が最新の錬金台でベースとなる魔導ペーストを、助手などのアシストの元、今より遥かに大量に作り、それを商会の管理下で街、さらには遠方の国々へと流通させる。そうすれば、私達は技術を独占したまま、なにより私は多くの人を救うことができる。……これは、お互いにとって、悪い話ではないと思うのですが……」
最後の方は、自分の大胆さに怖くなってしまい、少し弱気な声になってしまった。
大商会の御曹司に対して、生意気な口を利いてしまった。断られて、呆れられてしまうかもしれない。
不安に駆られ、俯きそうになった私の視界に、レイナードがゆっくりと歩み寄ってくるのが見えた。
彼は私の目の前で足を止めると――フハッ、と、本日一番の、心からの笑い声を漏らした。
「……レイナード様?」
「失礼、驚きました。本当に驚かされてばかりだ、あなたという人は」
レイナードは顔を上げると、その瞳に、商人としての――いや、それ以上に、一人の男としての、熱く、ギラギラとした、しかし酷く綺麗な光を宿していた。
「エルサさん。私はレシピの買い取りに失敗し、あなたとの縁が切れてしまうことを、心の底から惜しいと思っていたのです。まさか、あなたの方から、これほど完璧で、魅力的な提案をしていただけるなんて。……ビジネス提携、喜んで、喜んでお受け致します!」
「え……! ほ、本当、ですか……!?」
予想外の簡単な快諾に、今度は私の方が呆然としてしまった。
レイナードは嬉しさを隠しきれない様子で、私の手を取り、優しく包み込んだ。彼の大きな手の温もりが、私の指先から心臓へと直接伝わってくるようで、顔がカッと熱くなる。
「ええ、本当です。あなたの言う通り、我が商会の流通網を使えば、あなたの保存食を技術を王都全域、いや、多くの国々にまで最高の状態で届けることができる。あなたの負担を減らしつつ、より多くの利益と、より多くの人々の笑顔を生み出せる。最高の事業になりますよ」
彼はそっと手を離すと、悪戯っぽく微笑んだ。
「ただ、具体的な利益の分配や、今後の生産体制、輸送ルートの選定など、決めるべき事は山のようにあります。こんな押しかけて立ち話として続けるには、あまりにも大きくて素晴らしいほどのビジネスの話です」
レイナードは外套の襟を正し、私に向かって優雅な一礼をした。
「明日、正午に、我が商会の最高の馬車をこの家に迎えに寄越します。私の行きつけの、静かで美味しいレストランを予約しておきますので、そこで食事でもしながら、私たちの『未来』について、じっくりとお話ししませんか?」
食事。レイナード様と、ふたりで。
それは、私が唯一行ったことのある騒がしい大衆酒場ではない。本物の、洗練された紳士からの、特別な招待。
「……は、はい。喜んで、お伺いします」
私が頬を赤らめながら棒読み気味に答えると、レイナードは満足そうに微笑み、「では、また明日」と言い残して、我が家を後にした。
────
夜の帳が下りた静かな部屋で、私は自分の胸に手を当てた。
ドクドクと、心臓がうるさいくらいに鼓動を刻んでいる。
それは、これからのビジネスへの期待と不安。
そして何より――レイナードという誠実で魅力的な男性と、明日ふたりで会食ということへの、甘く、経験したことのないような「ドキドキ」だった。
ルカスと別れて以来、すっかり忘れていた「誰かを想って胸が躍る」という感覚。
その夜、私はベッドに入っても、遠くで鳴る馬車の音や、レイナードの瞳が頭から離れず、久しぶりに遅くまでどうしても眠ることができなかった。




