奇跡的な功績と、狂騒の市場
ウー、と低く唸るような駆動音が、静まり返った台所に響いている。
私の目の前に鎮座しているのは、届いたばかりの最新式魔導錬金台だ。鈍い銀色に輝く金属のボディ、精密に刻まれた青い魔導回路、そして温度や魔力圧を正確に示す結晶板。どこからどう見ても、一介の街の農家には不釣り合いな最高級品だった。
これがあれば、私の保存食ビジネスはもっと軌対に乗る。もっとたくさんの人に、安くて美味しいスープを届けられる。
そう確信していた。……使い始める、その瞬間までは。
「――嘘でしょう? また焦げ付いた……!」
大釜の底からのぞくのは、琥珀色とは程遠い、ドロドロとした黒い立方体の塊だった。水分を飛ばしすぎるか、あるいは魔力の循環が途中で途切れた証拠だ。これで、今週に入って何度目の失敗だろう。
正直に言って、新しい錬金台を導入してからの1ヶ月間は、私の人生の中で最も苦渋に満ちた日々だった。
原因は、私の「感覚(技)」が、この最新式の機械にまったく通用しなかったことにある。
これまでの古い錬金台は、良くも悪くも慣れだった。私の魔力の出力が少し揺らいだり、素材の水分量に多少のバラつきがあったりしても、長年連れ添った相棒のように、その「ブレ」を調整できる範囲で成功させていた過ぎなかったのだ。私はその不完全な機械に合わせて、自分の身体に染み付いた感覚だけで完全にコントロールしていた。
しかし、この最新型はあまりにも違いすぎた。
私がほんの少し微調整を変化させただけでは、以前の錬金台への暗黙のルールようなものが通じない。機械はそれを「数値」として強制的に変化させてしまう。簡単にいうと、調合時の僅かな振動や温度だけでなく、温度変化の速度すらもだ。私の感覚を数値化するのに苦戦してしまっていた。また、根本的に、この最新の錬金台の使い方が不慣れということ、このレシピ自体への使い方の相性問題もあった。機械が自動で勝手に調整する熱量と、私が手作業で混ぜ合わせるタイミングがコンマ数秒ズレただけで、素材の物質が変化してしまい、まったく異なる反応を叩き出してしまうのだ。良くも悪くも、以前の錬金台は、編み出した技が以前の錬金台専用で、余計な事をしなかったと言える。
「ダメ、これじゃ今回も使い物にならない……。成功率が、半分以下まで下がってる……」
山積みになった失敗作の山を前に、私は頭を抱えた。これでは振り出しと同じ状況だった。
レシピをレイナード様に渡した手前、私自身の生産効率が落ちているなど、大商会に知られたらどんな目を向けられるか分からない。弱みに付け込まれる可能性すらあるかもしれない。何より、お客さんたちに届ける数が圧倒的に足りなくなってしまう。
「こんなところで、立ち止まっていられないわ。私が選んだ道なんだから」
私は頬を両手で強く叩き、気合を入れ直した。
それからは、文字通り「死に物狂い」の日々だった。昼間は畑を耕し、夜は眠い目をこすりながら、街の古本屋で買い漁ってきた『現代魔導回路の基礎と応用』や『精密錬金術における魔力流動論』といった専門書を貪るように読んだ。まずは最新錬金台の使い方を徹底的に学んで、それから自身のアレンジを、どう落とし込めるか考えることにした。
本を片手に、最新の錬金台とひたすら対話を続ける。
機械の癖を覚えるんじゃない。私の技術の精度を、この精密な機械のレベルと同化させるんだ。
感覚に頼っていた魔力循環を、すべて理論として脳内で再構築する。また同じ錬金台ごとに管の凹凸具合の僅かな変化だけで物質が変化することや、周囲の環境、この土地の気温や季節、魔力濃度や流用変化、水質至るまで、ありとあらゆる要素が複雑に絡み合う、果てしないものだと判明してきた。同時に、自身の生み出した物が、如何に奇跡的だったかを思い知らされた。
素材の細胞が熱で開く瞬間を、結晶板の数値ではなく、大釜から立ち上る微かな音の変化で捉える。こういったものは昔からの感覚だ。これらを変えたら、きっと永久に成功が見えなくなってしまう。シナモンやクローブなどのスパイスの香りが、魔力と結びつく一瞬を、1ピコ(精密錬金術学書引用)単位の魔力操作で、感覚を頼りに包み込む。自分の技術がどれほど難解なのかを、本を読み進めるほどに驚かされていた。
何度も指先が魔力焼けで痺れ、疲労で台所の床にそのまま倒れ込んで眠る夜もあった。
そうした日々を終え、1ヶ月が経った今日。
私の指先から流れる魔力は、最新型の青い回路と完全に調和していた。
「……できた。これは……連続成功の新記録達成ね」
大釜の蓋を開けた瞬間、台所中に広がったのは、かつてないほど濃厚で、それでいて驚くほど澄んだ未知の香りだった。
完成した秘薬ペーストを少し削り、お湯に溶かして口に含む。
「お、美味しい……! 前のものより、ずっと味が濃厚。それに、魔力の循環が均一だから、これなら今までの倍――いや、数年は絶対に腐らないはずだわ」
苦難の末に、私は新しい錬金台を完全に乗りこなしたのだ。
磨き上げた技のおかげで、スープの質は格段に向上した。それだけではない。最新型の高効率な錬金台のおかげで、一度に仕込める量が劇的に増え、生産量は以前の「3倍」にまで跳ね上がった。
私は疲れも忘れ、生まれ変わった琥珀色のペーストを見つめながら、達成感に震えていた。
────
しかし、私が技を磨くために試行錯誤していたこの1ヶ月間、市場への保存食の供給は激減していた。
週に数十個しか納品できない日々が続き、下町の人々の間では「エルサさんの秘薬がもう手に入らなくなるんじゃないか」「冬を前にして、あの神秘の保存食が消えるなんて困る」と、不安の声が急速に広がっていたらしい。
その飢餓感が、生産量が3倍になった途端に、恐ろしい爆発を引き起こした。
「ちょっと! 押さないでよ! 私は朝の4時から並んでるんだから!」
「うるせえ! 俺だって炭鉱の仲間全員分を買いに来たんだ、後ろに下がれ!」
「え、ええ……!? 一体……一体何が起きているの……?」
安定生産が再開された最初の市場の日。
自分の屋台の前に到着した私は、あまりの光景に荷車を引いたまま硬直してしまった。
まだ夜が明けたばかりだというのに、私の小さな屋台の周りには、下町の住人たちが幾重にも重なるような長蛇の列を作っていた。その数、ざっと数百人。売れ行きは以前の何十倍、いや、数え切れないほどの勢いだ。
並んでいる人たちの熱気と焦燥感は凄まじく、割り込みを巡って今にも殴り合いが始まりそうなほどの緊迫感が漂っている。
「全員静かにしろ! 列を乱す者は購入を禁止する! 順番に並べ!」
さらに驚いたことに、列の前後には、衛兵が何人も立ち、大声で群衆を誘導していた。
「ああ、エルサさん! やっと来たか。あんたのところの商品を巡って、小競り合いが絶えなくてな。執政官の命令で、しばらくこの店の警備につくことになったんだ。さあ、早く店を開けてくれ!」
衛兵の一人が私に気づき、苦笑しながら声をかけてきた。
まさか、自分の作った素朴な保存ペーストが、役人や衛兵を出動させるほどの騒動を起こすなんて、夢にも思っていなかった。私は呆然としながらも、大急ぎで商品を並べ、夢中で接客を開始した。3倍に増やした在庫は、午前中が終わる前にすべて跡形もなく売り切れてしまった。
それから毎日、毎日、市場はそんな狂騒に包まれた。
誰もが私の秘薬や秘薬入り保存食を求め、手に入れた人々は「これで安心だ」「聖女、エルサ様だ」と、涙ぐみながら私に感謝の言葉を投げかけてくれた。忙しくて目が回りそうだったけれど、自分の作ったものがこれほど必要とされている事実は、純粋に嬉しかった。
けれど、その華やかな大盛況の裏で、私は一つの「胸の痛み」を抱えていた。
市場があれほど殺気立った大行列になってしまうと、本当に私の保存食を必要としている人たちが買えなくなってしまうのだ。
例えば、ひとりで小さな子供を3人も育てている洗濯婦のお母さん。病弱で、朝から冷たい風の中に立つことができない老夫婦。人混みを歩くことすらままならない孤児だった女の子。
彼らは、あの荒々しい行列に並ぶことなんて絶対にできない。
「……よし、これはあの人たちの分」
私は毎日、3倍になった生産量の中から、全体の2割ほどの量を市場には持っていかず、こっそりと自宅の物置にストックとして、在庫調整をすることにした。
そして、市場が終わった後の夕暮れ時、そのストックを抱えて、行列に並べなかった昔からの常連さんたちの家をひと軒ずつ回った。あるいは、夜遅くに彼らが我が家の裏口をトントンと叩き、個別に販売する時間を設けたのだ。
「ごめんね、エルサちゃん……。市場があんなことになってるって聞いて、もう私は諦めてたんだよ。それなのに、わざわざ家まで届けてくれるなんて……」
足の悪い一人暮らしのおばあちゃんが、私の差し出した秘薬入りの袋を抱きしめ、枯れ木のような手で私の手を握りしめた。その目には、じわりと涙が浮かんでいる。
「いいえ、おばあちゃん。この秘薬は、元々おばあちゃんたちみたいな人に、冬を元気で過ごしてほしくて作ったものだから。行列なんて並ばなくていいわ。私が、ずっと確保しておくからね」
「ありがとう……本当に、ありがとうねえ……」
行く先々で、そんな風に手を合わされ、あたたかい感謝の言葉をかけられた。
心がじわじわと満たされていく。凍えるような夜の傷が、みんなの笑顔によって完全に癒されていくのが分かった。
しかし、感謝されればされるほど、私の胸の奥には、小さく、けれど無視できない「不安の影」が、ゆっくりと広がっていった。
(もし……もし私が、突然重い病気で倒れてしまったら、どうなるんだろう?)
この保存食は、私ひとりの手で作られている。私が動けなくなれば、生産は完全にストップする。
あの市場の行列に並ぶ何百人もの人々、そして私を命綱のように頼ってくれているおじいちゃんやおばあちゃんたちは、一瞬にして、あの凍えるような冬の寒さと、カビ臭い干し野菜の生活に逆戻りしてしまう。
みんなが私を頼ってくれる。それは嬉しいけれど、同時に、彼らの命を私ひとりの両肩に乗せているような、恐ろしいほどの責任だった。
(私ひとりの力じゃ、ストックを大量に置く場所もない。それに……)
常連さんたちから、よく言われる言葉があった。
「エルサちゃん、この保存食、遠くの街に住んでる私の娘夫婦にも送ってあげたいんだけどねえ。下町の運送屋じゃ、運賃が秘薬の何倍もしちゃうし、届くまでに何日もかかって荷物が迷子になっちゃうかもしれないでしょ? だから諦めてるのよ」
郊外や遠方へ、この保存食を必要としている人の元へ届ける力は、今の私にはない。
輸送路を広げる、信頼できる運送網を築く。そんなこと、一介の農家の娘がやろうとしたら不可能。奇跡的にできたとしても、何年、いや何十年かかるか分からない。現実的ではなかった。
「私は、どうすればいいんだろう……」
忙しくも激しい変化の中で、私は自分の限界という壁にぶち当たり、人知れず深い溜息をついていた。
────
そんな、不安と狂騒が入り混じったある日の夕暮れ時。
仕事を終え、静かになった我が家の台所で、私が片付けをしていると、あの時と同じ、規則正しい上品なノックの音が響いた。




