高校生がビジネスホテルに泊まるには親の許可がいるらしい
「帰りたくない」と、幼い子供のように美希は言った。
それはそうだ。あんなのを見た後に家に帰りたいと思うほうが、どうかしている。
僕は呆然と川を眺めている美希をなんとか立ち上がらせ、体を支えながらゆっくりと川岸から離していく。美希は泣き止んでいた。それとも、もう涙は出ないのか。ただ、僕に手首を引っ張られるまま、歩いている。足場が悪く途中何度も転びそうになるが、ここで転んでは美希も転んでしまう。焦らず急ぐ。なんて無茶な話だ。それでも僕はただ、美希を繋ぎ止めるため、その一心で土手に登った。
祭りの賑やかさは夢だったかのように消え、生温い空気が僕の顔を撫でる。掴んでいた手を離し、代わりに手を繋いだ。
駅の方角はあっちだ。
「美希、コンビニ寄ろうか」
「うん」
「アイス買おう」
「うん」
「今日は楽しかった。……最後はあれだったけど」
「……うん」
それ以上、言葉は続かなかった。大通りを抜け、駅に向かって歩く。
下を向いたまま、美希が言った。
「ごめんね」
――なぜ、美希が謝るのさ。
「私のせいで台無しになっちゃた」
――いや、違うだろ。そうやって、君は自分のせいにしちゃいけないんだ。
「似合ってるって言ってくれたのに」
――そうじゃない。そうじゃないんだ。
「私じゃ、」
「そうじゃない」
僕はついに我慢できなくなって、大声を出してしまった。隣でびくりと体を震わせたのを繋がった手のひらで感じた。
「そうじゃないんだ。僕は、今、悲しんでいるわけでも、落ち込んでいるわけでもない。ただ、嬉しくて、安心しているだけだ」
「嬉しくて、安心している、の?」
「そうさ。こうして今でも、美希が隣にいる。それが僕には嬉しいんだ」
こんな恥ずかしい台詞は二度と吐くとこはないだろうと僕は思った。
「そっか」と、美希はつぶやいて、もう一度泣き始めた。全身から吐き出す感情だった。僕はただ、抱きしめて背中をさすっていた。駅に向かう通りで人は少なくないが、僕らのことは横目で見るぐらいで通り過ぎていく。しばらくそうしていただろうか。美希の呼吸が落ち着いてくると、僕は訊いた。
「帰るか?」
美希は顔を僕の肩に押し付けたまま、首を振り、はっきりと言った。
「今日は帰らない」
「そうか。じゃあ…… 泊まれるとこ、探さないとな」
美希は顔を上げた。泣き腫らした顔は朱を帯びて、見開いた目が合わさって幼く見えるものだから、僕はちょっと笑いそうになる。
「なに驚いているんだ?」
「いや、てっきり、丹野くんの家に連れて行くのかと思った」と、鼻をすすって美希が言った。
「僕も帰りたくない気分なんだ。家に行ったら、たぶん、親がうるさい」
「そう」と、また俯いて美希は言った。その表情は良く見えなかった。
駅前に戻り、南口から北口へと抜ける。駅の北側はテナントビルやビジネスホテルが並んでいた。コンビニでお菓子やアイスを買い込んで、僕は迷うことなく、目当てのビジネスホテルに入る。就活で使っていたホテルと同じ系列だったからだ。
「今日、一泊可能ですか?」と、ロビーのお姉さんに話しかける。僕らより年上には違いない。お姉さんは僕らを交互に一瞥した後、手元のキーボードを叩いた。
「可能ですよ。今からで宜しいでしょうか?」
「はい」
「それでは、身分証を見せてください」
僕らは顔を見合わせた。仕方なく、財布から学生証を取り出す。僕らが出せる身分証はこれしか無かった。
「学生さん、ですか」と、学生証を見たお姉さんは声を落として言った。
「だめなんですか?」と、美希が訊いた。
「だめではありませんが、保護者への確認のお電話をしてもよろしいでしょうか?」
「僕はかまいませんが」と言って、ちらりと隣を見た。
「できません」
「なぜですか?」
「どうしても、言わないといけませんか?」
「申し訳ございませんが、未成年の方にはそのようにお願いしております」
「――したからです」と、僕も聞き取れない小さい声で言った。
「え? なんと言いました?」
繋いだ手に力が込められる。僕は励ますように握り返した。
「離婚したからです。両親が。だから、今日は連絡を取りたくありません」
ビビの入ったスマホを受付に置いた。メッセージが表示されている。
「それは、すいません」
少しバツの悪そうな顔をして、ロビーのお姉さんは謝った。なぜこの人は謝っているのだろう。なぜか、僕も保護者の確認をされず、四一二号室のキーカードを渡された。エレベーターの前に立った僕は、渇いた笑いしか出なかった。
僕らの部屋は四階のエレベーターを降り、少し歩いた位置にあった。キーカードをタッチし、部屋に入ると、ケースに入れて、灯りを付ける。僕も使ったことがないツインルームだった。
「へぇー、こうやって使うんだね」と、僕の後ろからひょいと顔を出して、美希が感心したように言った。吹っ切れた、そんな表情をしていた。
「よく知ってるね」
「ああ、たぶんこうだろうなって思っただけだよ」
「お風呂入りたいな」
「一階に大浴場があったはずだけど」
「えっ、そうなの? すぐ行こうよ」
僕らは館内着を持って一階に戻る。大浴場は更に奥に歩いた場所にあった。白色灯から電球に変わり、切れかかっているのか時折、ちかちかと点滅している。
「じゃあ、上がったらここで」
「うん。たぶん、私の方が遅くなると思うけど」
「いいさ。待つのは嫌いじゃない」
僕は湯を掬い上げ、顔にかけた。とんでもない一日だった。こんなことは人生でそうそうあるもんじゃない。湯泉に浸かりながら僕は思った。神経が擦り切れそうだ。そもそも、未来の僕は本当に死んだのだろうか。
一人になり思考が回りだす。ここにいる僕が現実? 現実と夢の違いはなんだろうか。死と眠りの違いはなんだろうか。死が眠りと同じならば、なぜ僕らは死を恐れるのか。答えは死ぬまで分からないかもしれないし、案外近くにあるのかもしれない。
少しのぼせている自分に気づき、僕は慌てて湯泉から上がる。館内着に着替え、自販機でコーラを買って、美希が上がってくるのをベンチで待つ。美希はまだ、出てきてはいないようだった。とりあえず、母さんにメッセージを入れ、既読がついたのを確認すると、僕はスマホの電源を切った。
「おまたせ」と、頭の上から美希の声が聞こえ、僕は顔を上げた。
血色が良くなったその顔に、まだ少し湿った黒髪がひとつ結びになっている。男湯と置いてあるシャンプーが違うのか、シトラスの香りがした。
僕が死を恐れる理由は今のところ目の前にある。
「あー、うん、行こうか」
ちょっと頭を掻いて、目を逸らした。僕らは無言で部屋に戻る。
部屋の窓からは西三河駅が見える。二十一時を過ぎているのに人通りも、駅を出入りする電車も多い。窓際のベッドに座りながら、美希は言った。
「でも、丹野くん、よく分かったね。私が河川敷にいること」
「美希はびっくりするほど速かった。陸上やってたのかと思ったぐらいだ」
「あのときは必死だったから」
「運良く、見ていた子がいて、教えてもらった。それに、予感があった」
「……僕は四月からずっと夢を見てたんだ」と、僕は隣に座って話し始める。この話を立って話すには、長過ぎる。
「夢? 昨日みたいな?」と、美希は顔だけをこちらに向けて訊いた。
「いいや、あれはただの夢だった」
「うん? 何か違うの?」
「夢の中じゃ、僕は二十三歳で、大学院生で、就活中で大変そうだった。ああ、大学生も楽じゃないなって思ったよ。そんな大学生活と、今を一日ずつ交互に繰り返す夢だった」
「なんか、すごい夢ね。予知夢的な?」
「近いかな。とにかく現実感があって、僕は混乱した。もっと混乱したのは、その後さ。美希が高校の頃に自殺をしていたことを知ったんだ」
防音対策がしっかりしているのか、部屋の中に音はない。僕は少し寒くなって、エアコンの温度を上げた。
「もしかして、それが今日なの?」
「いいや、昨日さ。八月二十七日。それで、もう大丈夫だと勘違いした。美希がいなくなって、方角を教えてもらったとき、夢を思い出した。今日の記事は、矢作川での水難事故だったんだ」
「それじゃあ、丹野くんはずっと私のことを見てくれてたの?」
「高木には、ストーカーって言われたさ」
美希はくすっと笑った。
「ねぇ、その夢って今も続いているの?」
「分からない。昨日までは続いていた。もしからしたら、昨日までかもしれないし、今日も続くかもしれない」
「そのあと、家は、お母さんたちはどうなったの?」
「美希の母親は九州に戻ったらしいけど、父親は分からない。美希の家は『宮下』って名前に変わっていた」
美希は体を震わせて、僕の方に顔を向けた。見つめられた表情を見て、僕はたじろいた。何をそんなに驚いているんだ。
「宮下、なのね? 本当にそう?」
「それがどうかした?」
「お父さんの旧姓が宮下なの」
「そう、なのか?」
「うん。お父さん、婿養子だから」
つまり、あの家にはまだ父親が住んでいると。
「ちょっと待って。じゃあ、美希の苗字はどうなるんだ?」
僕の問いに美希は首を振る。
「分からない。でも、親権がお父さんに移ったら、名前は『宮下美希』に変わるの。学校でいきなりよ。それって、とっても怖いことだと思わない?」
「そういうことか。だから、名前で」
僕は頭を押さえた。突き刺すような痛みがした。
「えっ? 大丈夫?」
美希の声が聞こえる。しかし、壁で隔てられたかのように、反響して聞こえた。頭痛が酷くなるにつれて周りの音は遠くなっていく。代わりに頭の中では、消えたはずの、聞こえるはずのない声が聞こえてきた。
――そうだったのか。あの家には、まだ父親が住んでいるのか。六年という隔たりのせいで勘違いした。そうか。だから、お墓は見つからないんだ。彼女はたぶん、宮下家のお墓に納められている。何を、今更。後悔したって遅い。それに、僕はもう……
――だったら、早く起きたらどうだ?
別の声が聞こえた。少し苛立ちが混じった聞き慣れた声だった。
――なんで……
――もう、分かってるだろう。起きたいなら、起きれるんだよ、お前は。
――僕は……
「――――」
美希が何かを叫んでいる。もう、周りの声は聞こえない。だめだ。心配をかけちゃいけない。
「ごめん、美希。僕はまだ夢を見る必要があるらしい」
僕は本当に言葉を発することができたのか。美希に届いているのか。自分の声すら僕には届かない。美希は少し目を見開いたかと思うと、頷いて、ふわりと僕の頭を抱き寄せた。
僕は痛みが残ったまま眠りに落ちていく。二日酔いはこんな感じなのか。だとしたら、僕はお酒は好きにはなれそうにない。
――起きろ。
僕は目を覚ました。




