大切なことはメールで伝えるべきじゃない
夢から目覚めた時、僕が一番最初に感じたのは、哀しみではなかった。ただ、心から安堵したのだ。
これが、夢じゃなくて良かった、と。
灰色の夢からようやく逃れられたのだ、と。
僕にとって、二つとも現実で、二つとも夢であった。それが、どれだけ自分の存在をぐらつかせるか、僕は身に沁みて知った。僕は自分の存在を周りの人たちの存在によって、支えられていたのだ。そういう意味で、夢の僕は今の僕よりも孤独だった。
ベッドに仰向けになったまま少しぼーっとした後、腹に力を入れて、体を起こす。階段を降り、洗面台で顔を洗う。冷たい水が僕の頭を目覚めさせる。そう。僕には未来が残っている。既に涼しくなったリビングには、いつも通り母さんが、いつも通り台所にいた。
「今日は遅いのね」
「母さんは、仕事は?」と、僕は言って、冷蔵庫から残りわずかとなったペットボトルを取り出し、麦茶をラッパ飲みした。
「今日は日曜日じゃないの」
「休みが長いと曜日感覚がなくなるんだ」
「お母さん、買い物行ってくるから。お昼、素麺でいいわよね」
「うん。でも、夜は要らないから」
「そう、どこかに行くの?」
「西三河のお祭りに行ってくる」
『誰と』は言わなかったが、分かりきったことだった。僕は空になったペットボトルを勝手口のゴミ箱に投げ入れた。今日も暑くなりそうだった。
「ふーん、そう。楽しんでらっしゃい。でも、ちゃんとお金を持っといて、彼女の分は奢ってあげないとだめよ」
「母さん。古いよ、その考え方は」
「いーや、だめよ。実際に奢るかどうかは別にして、誠意は見せないと」
「そんなもんか」
「それに、普通は奢りたいと思うものよ」
「なんでさ?」
「教えない。でもね、自分で気づけないようじゃ、いつまで経っても子供のままってこと」
そう言うと、母さんはカバンを持ち上げだ。
「じゃあ、買い物行ってくるから」
今日、初めて真正面から見た母さんの表情は、女性同士の秘密を共有してるような、そんないたずらっぽさの残った顔だった。
昼までの時間は補講の復習に費やした。赤本は開かずに飾ってある。まだ、過去問をやる時期ではない。モチベーション維持にはなる。効果は分からないが、受験が近づいてきたら、表紙の写真をスマホのトップ画像にしてみようかとも思っていた。
母さんが帰ってきて、僕は勉強を切り上げた。素麺をすすり、再度歯を磨いて、少しだけ念入りに服装をチェックしてから、家を出る。今日の最高気温は三八度。
きっかり五分前行動で、僕は西浦駅の駐輪場についた。自転車を止めて、少し突き出た後輪たちを避けながら、駅舎に向かう。駅舎前の日陰で手を振る美希を見つけ、僕は足をとめた。
そういうことか。
彼女は浴衣姿だった。白を基調とした素地に青い朝顔が散りばめられている。派手すぎず、かと言って地味すぎないその柄は彼女によく似合っていた。いつもより高い位置にまとめられたポニーテールは、少し大人の雰囲気を感じ、僕は自分が子供っぽく思えた。
反則だ。彼女の前に立った時でも、僕はなんで言えば考えていなかった。
「時間通りだね」と、美希は言った。
僕は声が出なかった。僕の異変に気づいたのか、美希はくすっと笑った。その様子すら大人びて見えた。
「どう?」と、手を広げ、その場でくるりと一回転する。ふわりと浴衣が浮き上がった。
「どうしたんだ?」
「レンタルしたの。私も初めて知ったんだけど、高校の近くにね、着物屋があってね。調べたらレンタル可能だって」
「それが、昨日だったのか」
「予約して取りに行ったの」
「着付けは自分で?」
「一応、教えてもらったし、後は自分で調べたの」
「そうか」
「それで、感想は?」
僕は頑張って話題を逸らしていたのだが、これ以上逃げ場はなかった。
「お疲れ様」
「えっ、それだけ?」
僕は「かわいい」と言えるほど若くもないし、「綺麗だ」と言えるほど大人にもなっていないのだ。
「でも、まあ、似合ってる」
「よろしい」と、彼女は子供っぽく笑った。
だから、そのギャップも反則なのだ。
電車の時間が近づき、パラパラと駅舎に人が集まる。二人組のスーツを着た男性が、暑いなぁと言って、僕らの前を横切っていった。
僕の町から直接、西三河に行く路線はない。一旦、地方線を上がり、東海道本線を繋ぐ、大府駅で乗り換えるしか方法はないのだ。だから、遊びに行くときは基本的に自転車なのだが、今日はそういう訳にもいかない。
二両編成の電車が到着し、乗り込むと冷房の風が顔に当たる。いつもなら手元のスマホから顔を上げようともしない乗客たちは、美希の浴衣姿が視界の端にでもに入ったのか、ちらりと顔を上げ、スマホに顔を戻した。空いているボックス席に並んで腰を下ろすと、窓の外を見て美希は言った。
「珍しいのかな、浴衣」
「向こうに着けば、いやでも見ることになるさ」
「目移りしないでね」
「僕としては、迷子にならないかが心配だよ」と、僕は彼女の手を見て言った。
予想通り、西浦駅では珍しかった浴衣姿も、東海道本線に乗り換えると珍しいものではなくなり、過半数は浴衣姿だった。
西三河駅に近づくにつれ、さらに割合は増し、駅に着く頃には色とりどりの浴衣に、僕の目は痛くなっていた。
「どこを睨んでるの?」と、美希が訊ねる。
「僕の目には刺激が強いんだ」
「そんなんじゃ、祭りに出られないよ」
電車がホームに入る。観光客か地元民かホームにも人は多い。
「んっ」と美希が手を差し出す。何も言わず、僕はその手を握った。冷房が当たる場所にいたのか、彼女の手は少し冷たかった。
僕らは手を繋いだまま、人混みを抜け、ホームの階段を登り、南口から駅舎を出た。駅構内も混み合っていたが、二階のデッキにも人だかりが出来ていた。地上のロータリーでは何やら催し物が行われており、デッキから見下ろす人たちが集まっている。駅の周辺は中心市街地になっており、南口から一直線に商店街がのびている。今の商店街には、屋台や露店が立ち並んでいた。地上で拍手と歓声が上がると、波が二階で観ている人たちに伝播する。僕にも伝わってきて、理由もなくテンションが上がる。
「こんなの初めて」と、ほんのりと上気した顔で美希が言った。繋いでいる手にきゅっと力が入る。
「うん。僕の知っている祭りは藤江神社のやつだけだから」と、僕も合わせて言った。
お祭りのピークは、河川敷から花火が上がる始める日が落ちる時間のはずだが、商店街も既に人で溢れている。
商店街の入り口でパンフレットをもらい、ぱらぱらとめくってみる。町を代表する企業の協賛に溢れており、市全体を挙げての催しらしい。
「とりあえず、西河神社が終点みたいだ」
「そう? じゃあ、ぐるっと見てみない?」
「ああ。ぐるっとね」
人々の流れは左側通行で、僕らは人だかりの中を流れに沿って歩き始める。
美希も僕も背が高いわけじゃない。はぐれたら面倒だが、今の時代はスマホがある。便利な世の中になったものだ。商店街のスピーカーからは、祭りらしい和楽器の音が流れていた。
「丹野くん、昔、神社のお祭りで横笛吹いてなかった?」と、美希が言った。
「小学校の頃ね」
「そんな柄じゃなかったのに」
「特別にね、拝殿に入れたんだよ。それに、親から自由になれた。夜遅くまで遊んでも何言われなかったし」
「自由が欲しかったんだね」と、言われ、僕は思わず吹き出した。
「そんな、大袈裟な話じゃないさ」
「いらっしゃい」と、下から子供たちの声が聞こえた。昔遊んだカードゲームが並ぶ。露店をやっているようで、子供たちだけでも出店できることに僕は驚いた。真ん中に座る子と目が合い、にかっと笑われた。
「懐かしいな」と、僕は屈んで並べられたカードを見た。
「お兄さん、やってたの?」
「昔な。持ってたな、これ」
「もうやってないの?」
「随分前に辞めた」
「ふーん」
「カード売ってるのか。子供たちだけで出店できるのか?」
「無理だよ。親に頼むんだ。フリマみたいにね」と、別の少年が言った。
僕が子供の頃は何かを売り込むなど、考えたこともない。ただ、町のお祭りに参加するだけだった。土地柄の違いなのだろうか。
「あっ、綿菓子だ」と、美希が僕を引っ張っていき、別れを告げることもなく僕は離れた。美希の手にはいつの間にか赤い風船が握られていた。
「いつ貰ったんだ」
「さっき、丹野くんが話してる間にね」
人の流れを止めないよう、少し脇に避けて並ぶ。砂糖が焼ける香ばしい匂い。さっきまでは感じられなかったのに、一度意識を向けると離れなくなるのだから、人の五感とは不思議なものだ。 『わたあめ』と書かれた屋台の看板。そして、隣では美希が唸っていた。
「わたあめ? 綿菓子じゃないの?」
「同じじゃないのか? 僕も綿菓子って言うけど」
「地域性みたいなものかな」
調べてみたら、両方とも同じ意味で地域によって言い方は変わるらしいが、境界は曖昧だった。美希は僕に風船を渡すと、一つ注文する。出来上がった綿菓子は空に似た水色だった。
「んー、甘い」と言って、僕に向ける。「んっ」
僕は向けられるまま一口。
「甘い、甘すぎる。昔はよくこんなの食べれたな」
「いやー、昔も最後の方は我慢して食べてた気がするけど」と、美希が言い、僕が持つ風船にちらりと目を向けた。
「ねぇ、これ持ってみて」
僕は差し出された綿菓子を右手で持つ。左手には赤い風船。右手には空色の綿菓子。真ん中には僕。美希がくすっと笑った理由も、次に何を言い出すかも大体予想がついた。
「信号機みたい」
「僕は黄色か」
鳥居がある交差点を境に人の数が急に減る。人混みを抜けると今度は疲れが押し寄せた。ただ、ぶらぶらと歩いているだけなのに、人混みの中というのはどうしてこうも疲れるのだろう。
「動きづらくないのか、浴衣は」
「そんなことはないけど、人が多くて、ちょっと疲れたね」
「向こうに行こうか」
神社脇にあったゴミ箱に割り箸を捨て、交差点を渡る。交差点の奥には市役所と、併設された市民会館があった。
僕らと同じく人混みから逃れてきたのか、浴衣を着た人たちがぽつぽつと外を歩いている。
誘われるように市民会館に入り、ロビーの窓際でソファに座る。体を包む感覚が気持ちいい。ガラス張りになった窓から、日差しが入り込む。近代的な建物はどうしてガラス張りにしたがるのだろう。室内の冷房に日差しの暖かさが合わさり、軽く目を閉じただけで寝てしまいそうだった。
唐突に喉に乾きを感じ、僕は目を開けた。美希は隣で船を漕いでいた。
「何か買ってこようか?」
「ん」
言葉にならない声を発し、美希は肘掛けを枕にして眠っていた。朝からずっと緊張していたのだろう。慣れない服装で、心も体もずっと緊張しっぱなしだったに違いない。静かな涼しい場所に来て、気が緩んだのだろう。僕は隣に座り、規則的に上下する浴衣を見て、もう少し遅い時間にすれば良かったな、と一人反省していた。
一時間もすると、日は傾き、冷房が日差しを勝る。美希はびくりと体を震わせ、体を起こした。
「ごめん、寝てた?」
「まあまあ」
美希は恥ずかしそうにはにかんで、その場で立ち上がり、んーっと伸びをして、くるりと振り返った。
「ねぇ、川辺に行ってみない?」
通りを抜け、橋を渡る。川沿いは体感温度が少しだけ下がった気がした。河川敷ではいい席で花火を観ようと既に場所取りが始まっている。僕らは土手を一往復して、打ち上げ場から少し遠め位置に場所を取った。近すぎると首が痛いだろうと言ったのが、僕。綺麗なものは少し遠くから見るのが良いと言ったのが、美希。理由は違えど結論は一緒だった。
場内のアナウンスが空へと抜けていき、スマホの時刻を見ると、そろそろ開始の時間だった。会場がしだいに静かになり、緊張感が僕らの位置まで伝わってくる。川のせせらぎが聞こえるようになった時、開幕を知らせる大きな花火が打ち上がった。予定通り、時刻は十九時だった。
会場から大きな拍手が起こる。それを皮切りにして、次々と花火が上がる。赤色、黄色、緑色、そして青色。何が燃える色か。青色の花火が一番難しいと教科書のコラムに書いてあったことを思い出した。
「不思議ね」と、空に顔を向けたまま美希が言った。
「なにが?」と、僕が訊いた。
「なんか、夢みたい。同じクラスになった時に私がこうして浴衣を着て、こうして花火を見ているなんて、夢にも思わなかった」
「それは、僕もそう思う」
「教室で初めて話した時のこと覚えてる?」
「ああ」
「あの時ね、ずっとなんて呼べばいいか分からなかったの。昔の様には呼べないもんね。でも、『中里さん』って呼ばれた時、ちょっと悲しかった」
悲しかったという割に美希の横顔には笑みさえ見えるようだった。
「流石に、高三にもなって、『みきちゃん』と呼ぶのはな」
「でもまぁ、今は名前で呼んでくれてるから」
美希はこちらに顔を向けて、首をちょっと傾けて言った。たしかに、夜の花火は全てが夢じゃないかと思わせる、不思議な魔力のようなものがある。僕は草むらに置かれた美希の手を握った。握られた手を少し引っ張って、美希が言った。
「ねぇ、お腹すいた」
「今?」
「うん。寝たからかな。今なら屋台の方も空いていると思う」
美希はすくりと立ち上がり、手を繋いでいる僕もつられて起き上がる。土手を歩きながら、後ろを見ると、僕らの座っていた場所には、既に別のカップルが座っていた。
「はい、あげる」
両手に持ったケバブを僕に渡して、美希が言った。
「美味しいけど、食べずらいね」
「食べ歩きには向かないって」
吊るされた大きな肉と匂いに誘われて、屋台に寄った僕たちは、その香りに負けてすぐ注文を済ませていた。子供の頃は無かったはずなので、最近の流行りか。美希の予想通り、昼過ぎのような混雑はないものの、歩きながら食べるほどには自由に動けるわけでもなく、僕は辺りを見回した。
「これが本日最後の花火となります」
アナウンスが入った。僕は河川敷の方角を見る。
「あっ」と、美希が言った。
最後に上がった花火は、いときわ大きく、そしていときわ儚く消えていった。
だが、隣を見ると、美希は顔を固めて、花火を見てはいなかった。
目線の先には、大人の恋人同士が手を繋いで固まっていた。女性の方はどことなく、美希に似ていた。隣にいる男性は綺麗にスーツを着こなした、長身の優男だった。たぶん、僕も同じような表情をしているはずだった。
そういうことか。
咄嗟に離れていた手を繋ぎ直そうとする。が、遅かった。
美希はもう駆け出していた。
「まって」
――誤った。
気づくのが一瞬早ければ、彼女を引き止めることが出来たかもしれない。むしろ、混んでいた方が互いに気づくことなく、通り過ぎていたかもしれない。
役に立たない『もし』が頭の中で回り始める。頭を振った。今はそれどころじゃない。手に持つケバブが邪魔だ。僕は一瞬の逡巡の後、近くの屋台からビニール袋を貰うと、ケバブを入れ、一応崩れないようにキツく縛ると、美希が走った方向に向かって走り出した。
彼女はどこに行ったんだ?
屋台の通りには人が戻り始めていた。この中じゃ見つけることは容易じゃない。
電話をかける。せめて、着信音だけでも聞こえないか。気づけば、あちらこちらで電話の音が鳴っている。
さっきまで聞こえなかったのに。
注意がそちらに向くと、全ての音が怪しくなる。
「美希」
どこだ。どこにいる。
人混みを掻き分けて進む。肩がぶつかった。
「いってーな」と、舌打ちが聞こえる。
謝る暇もなく、僕は走った。商店街の出口が見える。出口にいなかったらどうしようと頭の隅にそんな不安がよぎる。
「あれ? お昼の人だよね?」と、声をかけられ、僕はちょっとだけ足を止めた。
「えっ? ああ、カード売ってた子か」
「なに? お姉さんとはぐれたの?」
「いや、うん。そうなんだ。見てないかな?」
「やっぱり。さっき、あっちの方に走っていったよ」と、出口とは異なる商店街の細い通路を指差した。僕はその暗い通路を見る。
あっちの方にあるものは、なんだ?
唐突に美希の向かった場所の心当たりがついた。
「なんか、泣いてるみたいだったけど、ケンカでもしたの?」と、男の子は訊いた。
僕は首を振り、「ありがとう」とだけ言って走りだす。
路地裏を抜け、川辺に出る。祭りの音が遠くなる。人々が引き上げた河川敷は、明かりが消え、暗い川の音と虫の声が聞こえる。川岸にぽつんと小さく明かりが見えた。土手を駆け下りる。その明かりは、スマホの画面によるもので、照らされたその顔は、恐ろしいまでに無表情だった。
僕はふらつきながらも、ゆっくり静かに近づいて、はっきりと聞こえるように言った。
「美希」
肩を震わせた彼女の手からスマホが落ちる。僕は咄嗟に手を出すが、その手は空を切った。画面が下を向き、視界が暗くなる。美希は微動だにしない。僕はスマホを拾い上げた。ヒビが入っていた。それでも、画面は消えることなく、明るくメッセージを映し出す。
『私たち、離婚したから。』
差出人には『お母さん』と登録されていた。
消えていた方がましだったかもしれない。




