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夢の中で六年も遡れるはずの僕は、一日を戻ることは許されない

 朝はいつも通りやってきた。僕の意志とは無関係に。僅かな望みをかけて僕はスマホを見た。


 七月二五日 七時二十分。


 夢の中で六年も遡れるはずの僕は、一日を戻ることは許されない。


 スマホには着信が三件。全て大正化工の番号だった。もしかしたら、直ぐに電話をかけ、説明をすれば。いや、前日も当日も連絡をしないような人間の言葉を誰が信用してくれるというのだ。社会はそんなに甘くはない。そんなことは会社に入らずとも分かる。それに、もうそんな気は起きなかった。


 僕の感情を無視して、日差しは暑く、油蝉は鳴いている。一昨日と何も変わらない。昨日とも何も変わっていないのだろう。僕が居なくてもこの世界は変わらない。高校の僕には、心配してくれる友達、先生がいたが、今の僕にはそれは居ない。自由と責任は表裏一体だ。自由というカードの裏には自己責任という言葉が書いてある。だが、この僕の責任は一体誰が持つというのだ。


 とりあえず、ベッドから起き上がった。服でも着替えようかと洗面台に向かう。鏡に映る間抜けな顔を見た時、僕は思わずその顔を殴った。鏡は簡単に割れた。僕の顔にヒビが入った。どこに向けて良いかわからない運命に対する怒りだった。


 ――どうしてこうなってしまったんだ。


 割れた鏡と拳の間から血が流れる。結局、僕の右手も怪我をしてしまった。流れていく血を見ていると自分の中から感情が流れ落ちていくようだった。なるほど。リストカットは心の痛みを体の痛みに変換する装置だと、どこかで聞いた。その意味がようやく分かった。


 何秒か、何分かそのままで居たのか。

 僕の心に残ったのは、たしかな決意だけだった。

 最初から、決まっていたのだ。

 夢を見始めたあの日から。

 僕の人生は彼女を救うためにあったのだ。

 奇跡を起こすためには悲劇が必要だ。

 運命とはそういうものだった。


 人生を二つ持つなんて不公平なのだ。


 その報いはいつか訪れる。

 だとするなら、その業はこっちが背負うべきだ。

 

 ――なぁ、そうだろ?




 その日を境に僕は就職活動を辞めた。


 ただ眠る毎日。


 病院に行き、薬をもらう。これが唯一の人と話す外出だった。


 今日も暑い。いつもと変わらない。雨ぐらい降ってくれてもいいのに。自分がいなくても明日は来るし、世間は回る。


 診察室に呼ばれる。 はい。


 表面的には問題は見せない。ただ、訊かれたことに答えるだけだ。


 問題ありませんか? はい。

 薬はいつも通りでいいですか? はい。

 お大事になさってください。 はい。


 診察室を出る。何もかも、いつも通り。次の人が呼ばれるが、僕には関係のないことだった。

 薬局に行き、処方箋を渡し、薬をもらう。


 これもいつも通り。


 ――この六年で随分、嘘をつくのも上手くなったものだ。


 睡眠薬の小瓶は、あと三十日分で一杯になる。



 家に帰ってもやることはない。むしろ、向こうの僕が毎日徹夜してくれていいのにとさえ思う。母さんには「お盆は帰らない」とメッセージを送った。母さんからの返信は「そう」という簡素なものだった。


 『外山亜子』から電話がかかってきたが無視をした。


 『高木真一』から電話がかかってきたが無視をした。

 

 僕が寝て起きて繰り返しているのは、ただ夢の続きが気になるからだった。


 せめて、八月二七日を見届けて、僕は消える。


 ――うまくやってくれよ。これでお前まで失敗したら、僕の人生は失敗だらけなんだから。


 そう思いながら、何も変わらない明日に向けて僕は眠った。

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