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17/27

屋上で告白するのはタイミングとしては間違っている

 七月二十四日、夏休み前の最終登校日。僕は隣で自転車を漕ぐ中里さんの顔をチラチラと眺めながら、体の火照りを夏のせいにしていた。

 例年より一週間近くも遅れた梅雨明けで、蝉たちはお預けされた鬱憤を晴らすかのように、けたたましく鳴いている。夏らしい快晴で、雨とは関係なく学校に着いた時には、びしょ濡れになりそうだった。

 今の時期の令和大橋を渡ると海側から潮の香りを纏った風を受ける。僕はこの空気が嫌いではなかった。それに、好きな子が隣に居る。このシチュエーションに胸を高鳴らさない男子はいない。

 三回目の信号でようやく止まった時、それを待っていた僕は口を開いた。しかし、先に声を出したのは中里さんだった。


「ねぇ、丹野くん。前言ってたこと覚えてる?」


「前……いつのことだっけ?」


 突然のこともあり、僕は本気で忘れていた。中里さんは、夏の暑さのせいか珍しく拗ねるように頬を膨らませた。


「前したでしょう? 屋上に連れていってあげるって話」


「ああ、夏休みになったら入れるって言ってたやつね」


「今日、とか、どう?」


 隣で自転車を跨いで止まっていた中里さんが上目遣いで僕の顔を眺めた。頬からは汗が一滴流れた。


「今日はまだ夏休みじゃないだろう?」


「午後からはもう休みでしょ?」


「今日から行けるのか」


「うん。頼んでみる。今日の夕陽はきっと綺麗だよ」


 後ろを振り返る。西の空にも雲一つ見られなかった。


「それで?」


「えっ?」


 僕は顔を戻した。信号は青に変わっていた。僕らは息を合わせるように同じタイミングでペダルを踏み込んだ。


「今度は丹野くんの番だよ」


「ああ、僕の話はもういいんだ」


「そうなの?」


「うん。綺麗な夕陽がみられそうだから」


「そうだね」


 僕は、今日しかない、と腹を括っていた。



 午前に終業式をして、そのあとホームルームで通知表と細かい注意事項を聞けば今日の授業は終わりのはずだ。

 冷房のついていない体育館は、文字通り唸るような暑さだった。校長先生の挨拶中に時折、唸り声が聞こえてきたが暑さのせいで、先生たちも怒りようがない。僕は早く終わってくれと祈るばかりで、まともに挨拶を聞く余裕もなかった。閉会の挨拶後には、唸りは最高潮にたちして、波が引くように皆教室に戻っていった。


「まさに唸るような暑さだったな」


 冷房のついた教室に戻ると下敷きを団扇がわりにして首元を扇ぐ。この時期は下敷きの売れ行きが上がるはずだ。統計を取らなくてもそれくらいは分かる。


「はぁ?」と首を傾げた高木だったが、急に笑い始めた。高木は一丁前に扇子を扇いでいた。


「ああ、なるほど。あれは『茹だるような暑さ』な。『唸る』じゃないぞ」


「マジかよ。十八年間ずっと間違えてたわ」


 高木はまだ笑っていた。かなりツボに入ったらしい。


「終業式の時、ずっとそんなこと考えていたのか?」


「悪いか? じゃあ、唸ってた奴に先生たちはなんで怒らなかったんだ」


「先生たちも茹ってだんだろうよ」


 扇子を閉じて、自分の腿を叩いた。紙の束を脇に抱えた前島先生が入ってくる。


「通知表を配るから、席に着け」


 配られた通知表を見ると、十段階評価のうち、現代文で四が付いていた。



 ホームルームを終えると、皆思い思いに教室を出ていった。教室を出る中里さんの後ろ姿を見送った後、僕と高木はカバンを机に置いたまま、四階の男子トイレに向かう。美術室や音楽室がある四階のトイレは授業や部活がない限り使われることは殆どなく、ましてや男子トイレは全くといっていいほど使われないためか、他の階のトイレに比べて綺麗で匂いもなかった。


「それで」と、犯人を追い詰める刑事のように、腕を組みながら高木は言った。

「中里になんの挨拶もせずここに来たということは、既に今日の予定は決まってるってことでいいんだな?」


「さすがは名探偵だ」


 僕の軽口を面倒臭そうに手で振り払った。


「なら、いいんだ」


「内容はいいのか?」


「話したいなら止めはしない」


「屋上で伝えることにした。前に話したことあったっけ?」


「へーぇ、たしかに言ってたな。それが今日か」


「そう。今朝、誘われたんだ」


「そうか。うまくいくように祈っとくわ。まぁ、そんな必要もないかもしれんがな」


「いや、有り難く祈ってといてもらおうかな」


「それとも、逃げないように見張っておいてやろうか?」


「趣味が悪いな。そもそも、今日、予備校があるだろう?」


「一日休んだって、成績は変わらんよ」


「いいか、絶対に来るなよ」


 下の階から、女子高生らしい笑い声を響かせながら、階段を上がる音が聞こえてきた。吹奏楽部か、美術部か。部活が始まる時間ではなかったが、お昼を食べに上がってきたのかもしれない。

 高木はちゃんとトイレにも用があったらしく、僕は先に階段を降りた。彼女たちとはすれ違うことはなかった。中里さんとの待ち合わせは、午後四時、教室に集合だった。まだ三時間以上ある。

 僕はそれまでの時間をどうするか、考えていなかった。おそらく、中里さんは自習室にいるに違いない。集合時間前に顔を合わせるのは、どういうわけか、気まずい思いをする気がして行くのは躊躇われた。

 一年か二年か、下の階で笑い声が響く。早めに終わった学校というのは、非日常的で気分が高揚する。一方で、午後から部活がない三年のクラスが並ぶ廊下は静かなものだった。


 教室のドアが開いている。まだだれか中にいるのだろうか。僕はそっと中を覗き込んだ。彼、その男子生徒は電気も付けず僕に背を向けて教卓に手をついていた。肩の動きから、走ってきたのだと分かる。


「この教室に何か探し物か?」


 僕が声をかけると、彼はびくりと肩を動かして、さっと振り返った。なるほど、いつかは来るとは思っていたが、今日か。


「丹野、お前を探していたんだ」


 およそ友好的じゃなさそうなその声は少し震えていた。僕は出来うる限り迷惑そうな表情をしてみせた。


「そうか、見つかってよかったな」


 僕は遠回りして、自分の席に向かい、カバンを掴む。振り返ると、村上は教室のドアを閉めて、こちらを睨んでいた。


「待てよ」


 さっきより声を張り上げた。せっかくドアを閉めたのに、その分声を出したら意味ないだろう。


「何か聞きたいことでも?」


 とぼけた僕に対して、村上はあからさまに舌打ちをした。一歩詰め寄ってきたが、声は小さくならなかった。


「今日、どこに行く予定だ?」


「なんでそんなこと聞くんだ。村上には関係ないだろう?」


「屋上に行くんじゃないのか?」


「彼女に訊いたのか?」


 違う。中里さんはそんなことを言いふらさない。だとしたら、鍵を借りるときにたまたま近くにいたのだろう。どちらにしろ、僕の質問は無視された。


「答えろ。なんで、お前なんだ?」


「それは、僕に訊く言葉じゃない」


「幼馴染なんだってな。いまさら、どういうつもりだ? 今まで見向きもしなかったのに、同じクラスになったら、これか? ふざけるのもいい加減にしろよ」


「それは、いけない事か?」


「は?」


「この十二年間で初めてクラスが一緒になって、好きになって何が悪い? 一度疎遠になった人を好きになっちゃいけないルールなんてどこにもないはずだろ」


「好きって、お前」


「好きになって、悪いか?」


「開き直るなよ。じゃあ何か? これは運命だと。クラスが違ってたら、好きになってなかったと、そう言いたいのか?」


「そうさ。僕はその結末を見ている」


 そっちの結末は悲劇的だった。こっちの結末はまだ未確定。運命が奇跡か悲劇かなんて、後から決めることなのだ。村上は意味が分からないという風に首を振った。


「お前、何を言ってるんだ?」


「ごめん、忘れてくれ」


「やっぱり、好きなのか?」


「好きさ。夢の中で苦しむぐらいにはね」


 村上が諦め切ったような顔を見せ、口を開けた。が、先に別の声が教室に響いた。


「丹野、恥ずかしいな。こんなところで大声で話す内容じゃないぞ」


 唐突にかけられた声に今度は僕がびくりと振り返る番だった。そこには、いつのまにかドアを開けて高木が立っていた。彼には珍しくなぜか焦った様子だった。顔を戻すと、村上も気づいていなかったようで、バツの悪そうな顔をしている。


「いつからいたんだ?」


「ちょっと前からだ」


「高木か。お前も今の話聞いていたのか?」


「丹野のやつが大告白会をし始めたんでな、慌てて止めにきたわけだ」


「いや、そんなつもりじゃ」


「それに、村上もだ。お前、斉藤さんはいいのか?」


「なんでそれを」と、表情を固まらせて村上が言った。


「予備校行ってるとな、学校では隠してることを我慢できずに言う奴が多いんだ」


「浅井か。あいつ、なんでもペラペラと言いやがって」


「さぁな。俺は情報源を漏らさないようにしている。信用が大事だからな」


 ニ対一は不利と判断したのか、醒めただけなのか、村上はちっと舌打ちをして、教室を出て行こうとする。ドアの前で立ち止まり、振り返らずに言った。


「それだけ好きだったなら、なんでもっと早く告白しねぇんだ」


 ドアの閉まる音は、どんな反論も許さないものだった。

 


 村上が出ていった後、静かになった教室で高木がため息をついた。


「正論だな」


 言い訳のしようがなく、僕は頷いて答える他ない。


「斉藤さんって?」


「村上が次に狙ってる子だよ」


 斉藤? そんな子居たか? 頭を悩ませる僕に高木は首を振って答える。


「この学校じゃない。村上の行ってる予備校の子だ」


「なるほど、だったらなんでここにきたのさ」


「お前の不甲斐なさに苛立って、発破をかけにきたんじゃないのか?」


「だとしたら、手痛い応援メッセージだな」


 最後の台詞を聞くとあながち間違いはないのかもしれない。そう考えた方が精神衛生的には良さそうだった。


「ところでさ」と、僕はカバンを肩にかけ、スマホで時間を確認して言った。

「もうちょい早く来れなかったのか?」


「こっちもな、大変だったんだ」


「もしかして、紙がなかったのか?」


 一歩後ずさる。なぜか高木は二歩詰めてきた。やけに笑顔だった。その顔はどういう意味だ?


「知りたいか?」


「いや、別に知りたくもない」


「ティッシュを流すしかなかった」


「いや、言わなくていい」


「じゃあ、言わん」


「ほぼ言ってるようなもんだろう」


 高木は僕の台詞を無視して、自分のスクールバックを背負った。


「そういえば、何時からなんだ?」


「言ってなかったか。十六時。まだ、二時間以上あるな」


「バーグ行くか」


「予備校は?」


「警戒するなよ。十七時からなんだよ。十六時の電車で間に合う。丹野の結果は、後で聞くさ」


 高木は笑って、教室のドアに向かう。僕は机を避けながら後ろについて行った。ふと、高木の後ろ姿を見たら、疑問が湧いた。


「高木、このドアから入ってきたよな?」


「ああ、それがどうした?」と、高木は首だけ振り向けて言った。


「なんで、わざわざこっちから入ったんだ?」


「中から声が聞こえたからな。席に近い方を選んだだけだ」


「なるほどな」


 少し気になったが追及はしない。これ以上、他のことを考える余裕が今日の僕にはないのだ。



 十五時半に店を出たのは、高木との会話が面白くなかったわけではなく、僕の動悸が限界を迎えたからだった。苦笑する高木と別れ、学校に向かって歩く。右手と右足は同時に出ていないか。いつもなら気にも止めない所が気になって仕方がない。後ろから、外周を走る陸上部の掛け声が聞こえた。


「……ファイト! ファイト!」


 僕は振り返ることもなく、なんとなしに道路側に避けた。



 けたたましいクラクションが鳴った。


 慌てて飛び退いた。が、咄嗟のことでバランスを崩し、倒れる。道路に着いた手が滑る。クラクションが響く。悲鳴が飛ぶ。白いワゴン車が僕のほんのスレスレを横切る。

 不幸中の幸い、倒れたお陰で奇跡的にサイドミラーにぶつかることはなかった。

 まさに目の前をワゴン車が通り過ぎる時、なぜか時間がゆっくりと流れたように思えた。運転手と目があったのだ。怒りの表情。


 口の動きもスローに見え、「危ねぇな」と、言っていた。


 本当に危なかった。少しでもずれていたら、と思うとぞっとする。絶対に無事では済まなかった。手の痛みで我に帰る。

 瞬間、僕の頭の中で何かが弾けた。

 

 ――今まで何をやってきたんだ。

 

 頭に響くもう一人の僕の声。突如現れた激情のような思い。

 急いで立ち上がる。咄嗟に道路に着いた右手は皮が捲れ、血だらけだった。

 陸上部の子になんと言われたか覚えていない。僕はただ「大丈夫」とだけ言い、血の滲む手を握り締め、校舎に向かって走り出していた。

 

 ――何がタイミングだ。


 ――何がシチュエーションだ。


 ――そんな都合の良いものがこの世にあると思うのか。


 頭に響く罵声は僕の怠慢を鋭く非難する。

 空気があるのを忘れるように、時間が続くと思い込む。時の流れは断ち切られないと思い込む。予定通り明日があると思い込む。

 何度言われても、何度思い出しても、忘れてしまう。

 だから、勝手に今日が続くと思い込み、裏切られ、その度に後悔するのだ。

 そのことを一度知っているはずの僕は、愚かにもまた忘れていた。

 また、忘れるのだろう。

 そして、後悔する。

 何度でも。

 だけど、せめて今日だけは。

 下駄箱にスニーカーを突っ込み、スリッパに履き替え、階段を駆け上がる。教室の前に着くと、ドアを勢いよくスライドさせた。


「あっ」


 窓際の席。窓を開け、レースのカーテンが揺れる中、中里さんと目があった。手には文庫本。約束の時間まで、まだ二十分以上あるはずだった。


「わっ、早いね」と、中里さんは本を閉じてカバンにしまった。

「どうしようか。もう行く?」


 席を立ち、恥ずかしそうに訊ねる。そんな彼女に僕は何も言わず近づいた。


「丹野くん?」


 何も答えない僕に不審に思ったのか、名前を呼ぶ。その視線が僕の右手に移った。


「丹野くんっ、右手! どうしたの? すぐ保健室に行かなきゃ!」


 慌てる彼女を引き止めるため、僕は左手だけで彼女を抱きしめた。……いや違う。ここにきた時から、会ったら抱きしめようと、考えていたのだ。


「ごめん。嫌だったらすぐ離れる」


 彼女からの返事はない。代わりに肩の近くで「保健室」と呟く声に、僕はちょっと笑ってしまった。


「伝えたいことがあるんだ。それが終わったらすぐ行くよ」


「うん」と、彼女が頷いた。その気持ちは肩に伝わる感覚でも十分伝わってきた。もうちょっと驚くかと思っていたが、不思議と彼女は体の力を抜いて僕の背中に腕を回してきた。


「中里さん。僕は君のことが好きだ」


「うん」


「付き合って欲しい」


「うん。でも……」と、彼女の体が少し震えた。彼女の声も少し震えていた。


「お願いがあるの」


「なに?」


「名前で呼んで欲しいの。昔みたいに」


「学校内でも?」


「うん」


「分かった。ミキちゃん」


「ちゃん付けは嫌だなぁ」と、美希は笑って言った。その心地よい振動は僕にも伝わってくる。


「美希」


「うんっ」


 次抱きしめるときは絶対に両腕だと僕は心に誓った。



 僕の右手は思っていた以上に悲惨なことになっていたようだ。掌の皮膚が剥がれ、血が滲み出ており、捲れた皮膚は貼り直すこともできないので、鋏で切られた。手をついた場所が悪く、その後に滑ったことも悪かった。こういう怪我が一番治りにくい。

 保健室のベッドに座り、前田先生の治療を受けている間、美希は僕の顔を一心に見つめていた。まるで自分が痛みに堪えているようだった。何もときめくようなことではなく、気が緩むと右手に目がいってしまうため、精いっぱい我慢した結果、僕を見つめることになったらしい。そんな彼女の必死さが、僕には可笑しかった。

 僕らが保健室を出る頃には、僕の右手は指先だけを残して、ガーゼでぐるぐる巻きにされていた。


「今日、やめとく?」と、意識してなのか僕の左側を歩きながら美希が言った。


「鍵は持ってるんだろう?」


 彼女は頷いた。セーラー服のスカートから鍵を取り出す。よく見かける一般的なものだった。


「なら、行こう。今日はいい天気だ」


 言ったものの、僕に屋上への行き方は分からない。自然と美希の少し後ろを歩く形となる。西日の入る廊下を抜け、階段を登る。徐々に強くなるシンナーの匂いとクラシックの音。いつもの校内から現実感が抜けていく。

 四階に着いた時、美希はため息をついた。


「もう。いっつも、こうなんだから」


「そうか、ここから上がれるのか」


 さっきも上がって来たが、階段は四階から上へと続いていたのだ。なぜ気が付かなかったのか。それは、階段という機能を忘れ、物置のように使われていたからであった。文化祭でしか見ないような暗幕や備品、積み上がった机と椅子。乱雑に置かれたキャンバス。これは美術部のものに違いない。


「そう。安易に屋上に行かないように、っていうね、なんていうのかな? こういうの」


「バリケード?」


「それ! ここ、丹野くんは知らなかった?」


 名前で呼んで欲しいといった割に美希自身は僕のことをまだ苗字に君付けで呼んでいた。美希は登り方を探しているのか、ひょこひょこと動いていた。


「君の彼氏は優等生なんだ」


 動きが止まった。少し耳が赤く染まった。


「彼氏かー。彼氏、うん」


 振り返らないのか、振り返れないのか。美希は椅子と机をずらしながら登っていく。後に続くが片手がロクに使えないのが面倒だった。前から「彼氏、彼氏」と呟く声が聞こえるてきた。


 美希は屋上のドアを開けた。


 入ってくる日の光に僕は目を細めた。そして、彼女に続いて外に出る。

 初めて屋上に登った。僕は扉を閉め、思いっきり体を伸ばした。定期的に手入れされているのか、屋上は綺麗だった。たった数メートルの違いなのに、かなり涼しく感じる。生徒たちの掛け声も、吹奏楽部の練習も、そして蝉の声すらも遠くに聞こえ、現実から浮いた気分になった。遮るものはなく、夏らしい風が体を駆け抜ける。見上げた空は果てしなく高かった。手すりに駆け寄ると、僕らの住んでいる街並みが、どこかゲームの世界のように感じられた。僕は何かに駆られるように、ポケットからスマホを取り出し、写真を撮る。画面には上半分が空、下半分が僕らが生きている街。日常見ることができない非日常の世界だった。

 何枚か写真を撮る。指が動かせるのがせめてもの救いだった。


「ねっ、撮りたくなるでしょ?」


 いつの間にか隣で僕と同じように写真を撮っていた美希が言った。僕は頷く。


「たしかに、これは、すごい」


 返事も曖昧に遠くを眺めていると、横でシャッターが切られた。


「おい」


「良いじゃん。一枚ぐらい」


「ほら、あっち、あっち」


 僕は手を引かれ、屋上の西側へと周る。令和大橋の先に僕らの住む街が小さく見えた。


「あの辺かなぁ」と塀から身を乗り出す彼女に、思わず駆け寄った。


「垂れ幕の準備はいいのか?」


 ここにきた目的はそうだったはずで、にも関わらず、今の僕らは手ぶらだった。


「ああ、あれね」と、美希はいたずらっぽく笑った。


「あれ、嘘なの」


「どういうこと?」


「ほんとはもう少し先。今日は、先生に無理をお願いして鍵を借りたの」


 なんで、とは訊かなかった。なんとなく理由が分かったからだ。


「そうか。ありがとう」


「村上くんに訊かれたときはどうしようと思ったけどね」


「ああ、なるほど」


 やっぱり、彼は訊いていたのだ。そして、走って教室まで来た。僕がいると踏んだのだ。


「でも、嬉しかった。あんなに『好きだ』って言われたの初めてだったから」


「うん?」


 頷きかけて、疑問符になった。何かがおかしい。『あんなに』言った覚えはない。ない? 本当に? 


「同じクラスになって、良かった」


「ちょっと、待って」


 僕は頭を抱えた。横目で彼女を見る。


「もしかして、聞いてた?」


 美希はこくりと頷いた。僕は天を仰いだ。彼女は堰を切ったように話し始めた。


「もう、ほんとにびっくりしたよ。教室に戻ってきたら、話し声が聞こえるし、廊下に高木くんが立ってるし、なんか好きって聞こえるし。高木くんには『黙っていてくれ』、言われたけど。そこから、勉強する気になんかなれないよ。しかたないから教室で本読んでたら、丹野くん、急に入ってくるし、なんか右手怪我してるし、いきなり抱きしめられるし、なんか、いっぱいいっぱいになっちゃった」


 そこまで言って、美希はすぅっと大きく息を吸い、ゆっくりとついた。どうやら、息継ぎのタイミングがなかったらしい。僕の返事はあっさりしたものだった。


「ごめん」


「別に怒ってはないけど」と、塀にもたれつつ、夕日を眺めながら言った。


 僕はそんな彼女を見つめていた。


 あの日、彼女は自分が生きた街を見下ろして、何を思っていたのだろうか。夢の彼女と今の美希がどうしても重ならない。

 僕は今の美希を残しておこうと、スマホのシャッターを切った。

 彼女は振り向き、恥ずかしそうに笑った。


「ちょっと、やめてよね」


 夕陽に輝く彼女の笑顔は眩しく、引き換えに逆光の中に映る彼女の表情は少し暗く見えた。




 家に帰る頃にはすっかり日は落ちて、夜を迎える。その変わり具合は、本当に今日という日があったのか心配になるほどだった。


「一体、どこで転んだらそうなるの?」


 目の前に夕食を並べながら、母さんが言った。幸いなことに夕飯はシチューだった。これがカレーライスなら文句は無かった。


「学校の前で轢かれそうになったんだ」


 並べられたシチューの皿にご飯を乗せる。慣れない左手でスプーン持ち、少し震えながら口に運んだ。母さんは、湯呑みに麦茶を入れ、向かいの席に座る。


「あんたは少し落ち着いたらどう? 小学生の頃だって徒競走で盛大に転けてたし、中学の頃は自転車で滑って転けてたし」


「母さん、昔話をするのは老化の始まりらしいよ」


「大体、学校は午前で終わりでしょう? 今まで何をしてたのよ」


「勉強。学生らしく」


「最近、やけに多いじゃない?」


「そりゃ、受験生だから」


「何を勉強してきたのよ」


 なぜか、今日はやけに疑り深い。僕はなんて言おうか迷った。


「哲学。人生の短さについて学んだんだ」


「そう。よっぽど楽しかったのね。顔が笑ってるわよ」


 僕はスプーンを止めた。神妙な顔をしていたつもりだったが、どうもできていなかったようだ。母さんはすました顔で湯呑みをすする。いつかはばれる事だ。なら、さっさと言ったほうがいい。


「……彼女ができたんだ」


「カノジョ? 孝一に?」


「僕に」


「中里さんのとこ、でしょう?」


 僕はどこかで監視されてるんじゃないだろうか。


「知ってたの?」


「言わないようにしてたんだけど」と、母さんがネタを明かす。


「目撃証言があるの。たまに、孝一が女の子と図書館で勉強してる、というね。相手は制服からして同じ学校の生徒だと。それから下校でも……」


「分かった。それ以上はやめてほしい」


 監視の目は原始的だった。それゆえ、避けようがない。同じ中学が二人しか居ないことが仇になった。


「でも分かったわ。孝一の学生らしさが」


「そうさ、学生らしいだろう?」


「でも、あなたは受験生」


「分かってるよ、明日から勉強するさ」


 僕は立ち上がり、なんとか食べ終えた食器を流しに置く。母さんは呟いた。


「人生の短さはどこにいったのかしらねぇ」


 その声を僕は水を流す音で聞こえないふりをした。

 


 お風呂から出ると、お笑い番組を見ていた母さんはテレビに顔を向けたまま「電話、かかってきてたわよ」と言った。

 リビングのテーブルに置いていたスマホに僕は飛びついた。


「懐かしいわね。あんた、ミキちゃん、ミキちゃんって呼んでたっけ? 今はなんで呼んでるのよ」


 母さんは笑っていたが、テレビからは何も面白いことは起きていなかった。


「別にいいだろ」と、僕は捨て台詞を吐いて、二階へと上がった。


 自分の部屋に着くと、部屋の窓、ドアを閉め切り、エアコンをかける。ベッドの上で一つ深呼吸をすると通話のボタンを押した。



「付き合いたてのカップルはこうするらしいから」と、美希は照れ臭そうに言った。


「おやすみの電話か」と、自分で言って恥ずかしくなった。


「まぁ、そんなとこ。ねぇ、こういう時なにを話せばいいんだろうね?」


「さぁ」


 とりあえず、僕は即親バレしたことを話した。スマホの向こうで美希がくすっと笑った。


「そうなんだ。うちの親は無関心だから。久しぶりに丹野くんのお母さんに会ってみたいな」


「うちに来たらいいさ。母さんはたぶん、泣いて喜ぶ」


「えぇー、そうかな。案外厳しくチェックされそう」


 いつか、この部屋に彼女を呼ぶことになるのだろうか。それを想像しただけで、僕は自分でも驚くほど幸福な気持ちになった。

 最初は話題に困っていたのに、一旦話し始めたら、美希との会話は尽きることがなかった。同じ場所にいたのに、混じり合わなかった時の流れを繋ぎ合わせるように、僕らは話した。小学校の頃、中学校の頃、そして高校に入ってから。遠足、林間学校、修学旅行にオリエンテーション合宿。運動会に合唱コンクール。文化祭に体育祭。アルバムを捲るように僕たちはお互いの思い出を話した。時折、美希の思い出の中に僕の名前が出てくるとその度に胸が弾んだ。同じ時を生きていたのだと心から思えた。少し気がかりだったのは彼女が自分の家族の話を全くしないことだった。


「そういえば」と、既に笑い始めている美希が言った。


「丹野くん、運動会の時も盛大に転けて、保健室に連れてかれてたことなかった?」


「母さんと同じことを」と、僕は笑った。


 僕らはあくびをするたび、お互いの回数を数えた。罰ゲームは、あくびの多かった方が最初のデート先を決めるというものだった。




「ねぇ、空が明るくなってきたよ」


 十回目の大きなあくびをした後、美希は言った。僕はまだ五回だった。


「そうだね。もう寝ないと……今何時?」


 そう言いながら、僕は自分でも時計を見た。七月二五日 三時五五分。後五分で四時だった…… 四時? 僕は人生で初めて血の気が引く瞬間を味わった。


「――――」


 彼女が何かを言ったが、それどころではない。


 ――やばい。明日は。


「ごめん、明日も早いから、もうそろそろ寝るよ」と、僕は早口に言った。


「あれ? そうなの?」と、当然僕の焦りを知らない美希はゆっくりとした口調で言った。


「まぁ、もう今日、だけどね」


 美希はふふっと笑った。その冗談を受け止める余裕はなかった。


「いや、いいんだ。僕も忘れていたから」


「じゃあ、おやすみ」


「ああ、おやすみ」と、僕は電話を切った。

 


 ――まずい。非常にまずい。


 心臓が鳴り響く。既に外では朝を迎えた鳥たちが鳴き始めていた。白ばむ空から逃れようと布団を被る。

 だが、無駄だった。寝ようとすればするほど、目が覚めてくるのだ。


 ――なんで、寝られないんだ。


 日の出は何時だ?


 分からない。


 調べる気にもならない。


 僕の意志とは関係なく、心臓は鳴り止まない。


 目を閉じても、息を止めても、耳を塞いでも体に響く音は僕を眠らせてはくれなかった。


 ――なんで。


 生きるため必要なものを人は自らの意思で取ることができないのだ。


 ――なんで。


 僕の体なのに、自由にできない。


 ――なんで。


 よりによって今日、なんだ。

 

 ……なんで。


 ――そして。

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