みんな誰かにちょっとずつ依存して生きている
夢だと割り切るのはあまりにも簡単で、実際行うのはあまりにも難しい。
夢に見る未来はどうしようもなく悲惨で、その原因が僕にあるというのは、どうしようもなくやり切れなかった。
眠るのが怖かった。だから、美希とは毎日電話した。
未来を知るのが怖かった。だから、徹夜したことも何度もある。
だが、その度に僕の気分は沈んでいった。
デートは一度も行けていなかった。
「最近、元気ないね」と、美希は言った。
お盆の近く、八月十日のことだった。学校は休みだが、夏期講習の時期で、僕は行く気がなかったが、美希と一緒にいられるならという理由で毎日学校に登校していた。内容はゴールデンウィークと同じく基本三年間の復習で、前と比べ演習問題が多くなっていた。
昼休みに入り、僕と美希は並んだ机で各々の弁当を開く。僕らが付き合い始めたことは夏期講習に来ている友達から拡散されて、夏休みだというのに僕の周りは皆知っていた。
「最近、寝不足なんだ」と、僕はようやく自由に動かせるようになった右手で箸を持ち、ご飯を掴んだ。
「電話控えた方がいいかなぁ」
「いや、気にしなくていい」
「私も寝不足気味なんだよね」
小さなあくびをして、恥ずかしそうに笑う。横顔を見て思う。クラスが一緒になってから、彼女は綺麗になった。それとも、僕が近くで見れていなかっただけだろうか。やっぱり彼女には笑顔が似合う。あまり、心配をかけてはいけない。
僕らが食べ終わる頃に、教室のドアが開く。いつものスクールバックを背負って高木が入ってきた。
少し辺りを見渡し、僕らの方を一瞥すると、堪えきれなかったのか、ふっと小さく笑って近づいてきた。夏休みに入ってから高木と会うのは初めてのことだった。
「来てると思った」と、僕の後ろの席にリュックを置いて、高木が言った。彼の口元からはからかうような笑みが残ったままだった。
「珍しいな。ずっと予備校だと思っていたけど」
「休みの日ぐらいあるさ。午後から数学だしな。来たら居るんじゃないかと思っただけだ」
「連絡してくれれば分かっただろう?」
「そんなことしたら、彼女が嫉妬するじゃないか」
「男の子に嫉妬なんかしないよ」と、美希がふくれて言った。高木はそんな彼女にちらりと目をやった。
「そうか。じゃあ、ちょっと借りていくぞ」
借りられる側の意見など訊かずに僕の手首を掴み、歩き始める。僕は引っ張られるがまま教室を出ていった。
廊下まで出ると高木は手を離した。
「やけに強引だな」
「こういうことするの、俺も苦手なんだけどな」と、高木は言い、学生服のポケットから取り出した四つ折りのチラシみたいなものを僕に差し出した。
「これ、やるよ」
「なにこれ?」
僕は受け取ってチラシを開く。それは、西三河で行われる夏祭りの案内だった。西三河駅周辺に屋台や露店が並び、矢作川で打ち上げ花火が行われる、愛知県内では古くからある有名な祭行事だった。そして、高木の地元でもある。
「デート行けてないんだろう?」と、高木が言う。図星だった。
「毎日がデートみたいなものだからな」
「俺、甘いもの苦手なんだよ」
「僕もそんなに好きじゃない」
「だったら、言うな」
僕らは顔を見合わせて、笑った。廊下を歩く同級生に不審な顔をされた。僕は笑いを止め、案内のチラシを見た。
「八月二十八日か」
「ちょうどいい、だろ?」
「たしかにな」
彼女を誘うにはちょうどいい。同級生に目撃される可能性は高いが、冷やかしが待っているのは休み明けだ。僕が下を向いてチラシを眺めていると、高木の声がかかった。
「丹野、ちゃんと寝てるのか?」
「最近、美希と遅くまで電話してるから」と、僕は顔を上げずに言った。
「ふーん」と、高木は納得したようだったが、表情を隠したところで高木の鋭さは変わらなかった。
「向こうの就活はどうなった?」
「ここで話すような内容か?」
「なんなら、四階に行ってもいいぞ」
僕はチラシを折りたたみ、ポケットに入れる。いつか言うことになるのなら、いつ言っても同じだった。
「最悪だよ」
「無理だったのか?」
「いいや、もっと上。うまくいってたんだ。だが、台無しになっちまった」
「なにをやらかしたんだ」
「……徹夜した。僕が。最終面接の日に」
やけに油蝉がうるさいな、と思ったら、廊下には学生も先生も誰も居なくなっていた。
「なるほど」と、高木は額に手を当てて言った。
「たしかに、ここで話す内容じゃなかったな。すまん」
僕は頭を振った。返事をする気にはなれなかった。
「それで、向こうのお前は何をしてる?」
「何も。もう諦めてる。就活も、人生も」
「そうか」
「大学って何で自由なんだろうな」
「自由だから大学なんだろう。自由がない大学なんて大学じゃない」
「そんなトンチを聞きたいわけじゃない」
「冗談だよ。大学は社会だから、だろうな。高校も部分的にはそうだが。助けが欲しいなら助けを呼ばなければならない。それが今の自由な社会ってやつだ。向こうの丹野はそれを怠っている。いや、違うな。怠ってるわけじゃない。思いつかないだけだ。なあ、『自殺』と検索したときに一番トップに何が出てくるか知ってるか?」
「予防ページか?」
「惜しいな。ホットラインだよ。こころの健康相談の電話番号だ。だけど、残念なことに向こうから電話がかかってくることはない」
あたりまえだろう。検索する度に電話がかかってこられたら、たまったものじゃない。でも、そういうお節介が今の世には必要なんじゃないかとも思った。
「だけど、向こうの自分は自ら、その繋がりを断ちにいってるように見える」
「そこだよ。断ちにいってるわけじゃなくて、繋ぎ止めようとしていないだけだ。自分が動かず立っていれば薄れていくのは当然だろう」
「世間から切り離されている感覚か。実際に変わったのは自分の心だというのにな」
「結局、目で見たものを判断するのは自分の心だからな」
「両親や周りに迷惑がかかると思わないのか?」
「思ってるだろうさ。思ってるから苦しんでいる。だから逃げようとする。その答えは丹野自身が一番知ってるだろう」
知っている。考えないようにしているだけだ。だけど、『考えないようにしている』ということは逆に存在を強く浮かび上がらせている。
「言いたくはないが、お前の存在も大きい。というか、一番だろう。彼はもう一人の自分に人生を託せる訳だからな」
頷くしかない。セーブデータを一つしか作れないゲームと二つ作れるゲームがあったとして、どちらがデータを容易に消してしまえるか。当然、二つある方に決まっている。
「僕はどうしたらいい?」と、訊いてみたが、高木は首を振るだけだった。
「どうしようもないさ。お前は、お前で好きなもののために生きるしかない。それが出来ないっていうなら」
軽く握った拳で僕の肩を叩いた。
「殴るしかないな。それで目を覚ませばいいさ」
「目覚めて、これが夢だったら、僕は泣くぞ」
「そう思うんなら、今を大切にしろよ」
教室に戻る。エアコンの効いた教室には、午前中よりも生徒が増えたように感じた。人間とは不思議なもので、僕が真っ先に見たのは美希の座る席だった。
美希は席に着いていたが、タオルを枕にして眠っているようだった。僕は心の中で謝った。やはり無理はさせていたのだ。そういえば、美希が補講中に寝ているのを見たことがなかった。謝るのは彼女が起きてからでも遅くはない。
起こさないように、そろりと椅子を引いて腰を下ろしたつもりだったが、ちょうど同じタイミングで美希が顔を起こした。
「おはよう」
「んー、お昼休みは?」と、美希が薄目を開けて言った。
「まだ、ちょっとある」
「なんの話だったの」
「ああ、そうだ」と、僕は四つ折りになった祭りのチラシをポケットから取り出し、渡した。
「なにこれ?」
美希は僕と同じことを言い、ゆっくりと紙を開き、ぱっとこちらを向いて、僕の次の言葉を待っていた。綺麗な瞳だった。
「一緒にいこうか」
「うん」
「よかった」と、僕は前を向いて言った。
美希は丁寧に折り直すと、桜色の手帳に挟んだ。
「高木が持ってきた」
「高木くんが? これを? へーえ」
僕らは振り返る。そこに高木は居なかった。辺りを見渡す。離れたところに座る高木と目があう。口元を手で押さえ、吐きそうなジェスチャーをしていた。彼は甘いものが苦手だった。
「なーんか、嫉妬しちゃうなぁ」と、肘をつき顎を掌に乗っけて美希が言った。
「男に嫉妬しないんじゃなかったのか」
「だって、丹野くん、元気になってるよ」
「そんなのって、分かるものか?」
「分かるよ。私には、分かる」
肘をつけたまま何度も頷き、僕の方を向いて言った。
「ねぇ、どうして?」
「何が?」
「元気になった理由」
「それはたぶん、覚悟ができたからだと思う」
「どんな覚悟?」
「美希とデートする覚悟」
教室のドアが開き、ざわめき声が止む。僕は隣から肘を突かれた。
午後の補講が終わると、新美先生と美希は体育館に文化祭で飾る垂れ幕を広げ、筆を揮っていた。耐震工事はされても、冷暖房が付かない体育館は、十六時過ぎにも関わらず、立っているだけで汗が出る暑さだった。美希が『苅屋』の文字まで書いたとき、「綺麗に書けるものだな」と、僕の隣に立っていた高木が言った。
僕らは二階のギャラリーにいた。手伝う必要はないらしい。複数人で書いたらバランスが悪くなる。悲しいけれど、当然のことだった。愛だけじゃ世界は救えない。時には引くことも肝心だ。
「でも、良かったのか? 俺はいない方が良かったんじゃないか?」
「美希が言ったんだよ。『高木くんもどうか』って。どうやら、僕だけじゃ役不足らしい」
「何不貞腐れてるんだ。それに、力不足だろうが」
美希と前島先生がなにやら話していたが、不意にこちらを見上げた。
「どんな感じー?」
僕は返事をする代わりに、両腕を上げて頭の上で丸を作った。美希は腕を上げ親指を立てて応えた。
「いつ飾る予定なんだ?」
「まだ決まってないけどね。お盆明けの天気のいい日、だそうだ」
「これも予定調和か」
高木は僕の方にちらりと顔を向けた。
「分かってるさ」と、高木が何かを言い出す前に僕は言った。
「彼女が自殺した原因は分かったのか?」
「たぶん、両親との不仲だろうな。直接は訊いてないけど。問題なのは、その深刻さが今の彼女を見ても、よく分からない。それとも僕の観察眼が鈍いだけなのか」
「もしくは、隠すのが上手いのか。ぶっちゃけ、そういう人間が一番危ないけど。お前みたいに顔に出やすい人間の方がましだな」
僕は精一杯嫌な顔をして見せた。
「直接訊いてみるしかないか」
「家にでも呼んでみればいいんじゃないか?」
美希を家に呼ぶ、か。何度か妄想しかけた内容。その妄想は「きゃあぁ」と、下から体育館全体に響く悲鳴によって打ち消えた。
「どうした?」
僕らはすぐさまギャラリーのへりに乗り出した。ぱっと見えた垂れ幕は完成に近かった。垂れ幕に項垂れる美希と僕らの方を見上げる先生。先生の顔で何となく状況は察した。美希はこちらに顔を向け、もう一度項垂れると、そのままゆっくりと立ち上がった。
『祭』の文字に墨が掛かっていた。
「行くか」と、僕の肩を叩いて高木が言った。
上からでもはっきりと見えた黒い染みは、間近で見たときにはより存在感があった。最後の感嘆符まで書き終えて、緊張が緩んだのだろうか。
「もう一度、一からやり直しかぁ」
美希は落ち込んだままだったが、その声には少し活力が戻っているようにも聞こえた。
「そう思うとさ、パソコンの保存ボタンって画期的だよな」と、僕は的外れな台詞をついた。人を慰めるのは難しい。
「手書きしかなかった昔は今よりも後悔することは多かったんだろうよ」と、珍しく高木が乗ってきた。
「人生の一時保存ボタンが有れば良いのに」と、美希。
「いつ保存するか。タイミングが難しいな」と、僕。
「垂れ幕はまだあるから、今日はもう帰りなさい。中里さんには申し訳ないけど、もう一度お願いね?」と、先生。
「はい」と、美希は答えた。
帰る頃になっても暑さは衰えず、自転車で走る僕らの顔には生暖かい風が抜けていく。夏が来る度に思う。どうして思い出の中の夏は爽やかな雰囲気のみが残るのだろうか。
「何を考えてるの?」と、美希が訊いてきた。
「夏の思い出補正の強さについて」と、僕が答えると、美希はくすっと笑った。
「なんか最近、丹野くんの考えてることが分かるようになってきた」
「それはよかった」
「いつから、そんな感じなの?」
「いつからか、は分からないけれど、たぶん母さんの影響だと思う」
「マザコンなの?」
「なんでそうなる」
僕らは自転車を降りて坂道を登る。中学の頃から通学路だった坂は、話しながら漕ぐには少し急過ぎることを最近知った。蜩でも鳴いていれば、多少、夏の風情が出るのだろうが、あいにくこの町には油蝉とツクツクボウシばかりいるのだった。
美希の問題が家庭にあるのなら、行ってみないと分からない。僕は警察でもなければ、大人ですらない。僕にできることは美希を通して現実を探ることだけだ。
僕は腹に力を込めて言った。
「あのさ、久しぶりに美希の家に行って、」
「いやっ」
僕は面を喰らう。「みたいんだ」という言葉は続かなかった。思わず足を止め、手に力が入る。自転車が悲鳴を上げた。振り向く彼女の顔は、自分自身の声に驚いているようで、問題は想像以上に根深いようだった。
「私、ごめんなさい」
「いいんだ。少し、びっくりしただけ」と言って、僕は再び歩き出した。
美希も横に並ぶ。
「綺麗じゃないし、恥ずかしいから」
「そんなレベルの反応じゃない気もするけど」
「今、家のなか、ちょっとあれだから」
「家族と喧嘩でもしてるのか?」
僕の質問に彼女は首を振って答えた。
「喧嘩ならまだ良い方、冷めきっていてね。冷房要らず。外はこんなに暑いのにね」
がんばって冗談を言ったつもりなのだろうが、生暖かい空気の中では僕も笑うことができなかった。
「もしよかったら、話してみてくれないか?」
「大した話じゃないの。ちょっと両親の仲が悪くて、ちょっと離婚しそうってだけ。よくある話でしょう?」
「よくある話をするときに美希はそんな顔をしない」
美希は唇を結んで、顔を伏せ、歩きを止めた。彼女が動かない限り、僕は何時間でも立ってるつもりだった。
「ううん、でもいいの。もうちょっとの辛抱だから。大学生になったら、こっちから出て行ってやるの」
――だったら、なんで君はあんなことをしたんだ。
口をついて出そうになる言葉を僕は飲み込んだ。
「なんなら、うちに来てもいい。前も言ったけど、母さんは喜ぶ」
「なんか、プロポーズみたいだね」と、美希は薄く笑った。
そんなつもりはない、今のところは。それに、「うちに来い」で実家じゃあ、なんというか、少しカッコ悪い。
「でも、私が帰らないと、うちの家族、ほんとうにバラバラになっちゃうから」
いつのまにか着いていた分かれ道で、じゃあねと、美希は自転車に乗り坂を下って行った。僕は引き留めることもできず、日の影に消えていく彼女を見送った。
夕食はカレーライスだった。夏になるとカレーの頻度が増える。八月は今日までよく我慢したほうだ。いつもなら、平気で月三回はある。一度指摘したら、「夏は暑いから」が理由だった。ついでに冬は鍋が増える。これは当然、「冬は寒いから」だ。どちらも僕の好物なのが救いだった。
「ねぇ、母さん」と、半分ぐらい食べ終えた後、麦茶を飲んで、僕は言った。
「人との距離感って難しいね」
「どうしたの? ミキちゃんに何かして、嫌われたの? 帰ってきた時から様子がおかしかったけど」
お茶を啜りながら、初めから分かっていたという感じで、母さんが答えたものだから、僕は苦笑するしかなかった。それにしても「嫌われる」なんて、まるで小学生同士の喧嘩みたいだ。
「喧嘩したわけじゃない。ちょっと、彼女の悩みを訊いてみようと思っただけだ」
「女の子の悩みなんて簡単に暴いて良いのもじゃないのよ」
「そういう訳でもないんだよ。美希の両親は離婚の危機にあるらしいんだ」
離婚なんて今は珍しくもない。ありきたりなはずなのに、何故か現実感が持てなかった。
「そう」と呟いた母さんは、リビングのソファから腰を上げ、空になった湯呑みをダイニングテーブルに置き、そのまま僕の向かいに腰をかけた。
「久しく会ってないから分からなかったけど、そんな事になってたの」
「正直、どうすればいいか分からない」
「孝一はどうしたいの?」
「美希の両親なんてどうでもいい。なんなら、うちに来ても良いと言ったさ。そしたら、大学生になるまで我慢するんだって」
「ミキちゃんは誰かに依存することが苦手なのね」
「依存?」
僕は耳慣れない言葉に思わず聞き返した。
「そう、依存。一人で生きていく、なんて言葉があるでしょう? でも、一人で生きていくなんて現実には無理。みんな、誰かにちょっとずつ依存して生きているの。だけど、子供の頃から努力して、自分でなんとかできちゃう子は、助けを求めるのが苦手になってくる。周りがね、期待するの、「この子はできる子だから」って、そうして他人に頼れなくなってくる」
そう言うと、母さんは湯呑みに麦茶を入れて、一口飲んだ。
「僕じゃ、力不足なのか」
「そういうことじゃないの。他人に依存するのが苦手、依存という言葉が嫌なら、助けてもらう、でもいい。そういうのが苦手な子がいるってだけのこと。生まれながらの性格でもあるし、環境のせいでもある。聞く限り、ミキちゃんは半々かな」
「そんな子を助けるにはどうすればいい?」
「やっぱり、一緒に居てあげることかな。性格は変わらないって言われているけど、お母さんはね、性格は変えられると思ってるの。付き合う人が変われば、性格も変わるものよ。目の前の誰かのようにね」
母さんは立ち上がり、食べ終わった僕の食器を持って流しに運んだ。僕はなんとなく恥ずかしくなって、無言で母さんの隣に立ち片付けを手伝った。
横目で見る母さんの顔には珍しく優しい笑みがあった。




