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大学院生になってから高校の友達に電話をするには勇気がいる

 何をやってるんだ、と思う。

 昨日の図書館の勉強会で告白しておけば良かったんだ。

 向こうの高木も言っている通り、今、告白すれば付き合える可能性は十分高い。これは六年先の自分からの助言だ。

 何を躊躇う必要があるんだ。

 それとも、こういう付き合う前の中途半端な関係がちょうど良いものだと思っているのだろうか。


 微かな苛立ちを覚えながら目を覚ますと、日課となった日付の確認をするために、机の上に置いたスマホを掴んだ。

 六月二十六日、八時五十分。違うのは曜日ぐらいで、昨日と変わらない日付だった。

 スマホの画面上には『着信一件』とあり、相手は外山さんだった。時刻は七時三十二分。僕はすぐに電話をかけた。僕に連絡してくる理由なんて一つしかない。そして、この時間。急ぎの要件なのか。数回コールが鳴った後、外山さんの声が聞こえた。


「あれー? 丹野くん? なんでこんな時間に?」


 なんとも、間の抜けた声だった。これは期待できそうにない。


「七時半ぐらいに電話しなかったか?」


「あっ、そういえば。いやー、中間報告をしないと、と思ってね」


 僕は「何もこんな時間に」と言いかけて、なにやら、声の向こうからカッチ、カッチと音がしていることに気づいた。


「もしかして、運転中?」


「大丈夫、停めたから」


「あとから、かけ直そうか?」


「ううん。昨日十件目を回ってね、成果はなし。ぜーんぜんだめね。見つかる気配がない」


声の調子から彼女の表情、ジェスチャーまでが思い浮かぶようだった。


「そのまま、やめても良いさ」


「いいえ、やるわ。というか、ここまで来たらやり切らないと気が済まないもの。誰のためでもない、私自身のために、ね」


 たぶん、スマホの向こうでは握り拳を掲げてるに違いない。


「丹野くんの方は何か分かった?」


「いや、正直最近は就活で忙しいから。でも」


 一瞬、言うべきか迷った。しかし、寝起きの頭では思った言葉を止めるほど、脳内ブレーキは効き始めていなかった。


「彼女、よく話す友達がいたらしい」


「そりゃあ、友達ぐらいいるでしょ」


「相手は男子なんだ」


 スマホの奥から空気を吐き出す、掠れた音が聴こえた。案外、口笛を吹いたつもりだったのかもしれない。


「名前は? 連絡先は知ってるの?」


「名前は、村上徹。連絡先は……知らないな」


「当てはあるんでしょ? 他の友達のツテとかないの?」


「有るにはあるよ。同じ部活で彼と同じクラスだったやつを知ってる」


「じゃあ、どうして聞かないの?」


 本音を言えば、僕は今の行動を高木以外の高校の元同級生に知られるのは嫌だった。これが個人的な感情に過ぎないことも分かっていたが、こればかりはどうしようもない。


「彼はたぶん、関係ない。もし、関係があるのなら広まってるはずだ」


「それは分からないでしょう? 案外、隠れて付き合っていたのかもしれないし」


 その一言は、僕を焦らせるには十分だった。


「やっぱり、そう思うか?」


「うん」と、外山さんは答えた。


「丹野くん、女の子の勘と秘密を甘く見ちゃあ、だめよ」


 その時のジェスチャーは人差し指を立てて、左右に振っていたに違いない。



 今日は病院に行く日だった。しかし、三十日分の睡眠薬には手をつけておらず、キッチンの引き出しに仕舞ってある。予約は十六時。

 パジャマからジャージに着替え、クリーニングに出していたスーツとシャツを取りに家を出た。梅雨明けにはまだ早いが、久しぶりに見えた日差しは十分に夏を感じさせるものだった。最近ではほぼ毎日、今年最高気温を更新していた。夏冬両用のスーツを買ったが、それでも夏に着たいとは思わない。しかも、就活生にクールビズは適用されないらしい。「就活生も夏の時期は大変ねー」と、クリーニングのおばちゃんからスーツとシャツの包みを受け取ると、料金を払って店を出た。


『女の子の秘密を甘く見ちゃだめ』


 帰り道、外山さんの最後の言葉を反芻していた。やはり、彼女は隠れて付き合っていたのかもしれない。だが、それは彼女を死に追いやるものだろうか。たしかに、それがもし、いじめやストーカーに繋がっていたとしたら、メディアや世間は黙ってはいないだろう。彼らはそういった、分かりやすい悪に飛びつくのだから。だが、そういったものがないからこそ、隠れて付き合っていたことを示す証拠にはなりはしないだろうか。堂々巡りした思考は結局、一番最初の外山さんの言葉に戻ってくる。


「可能性も十分あるか」


 僕は覚悟を決めて玄関のドアを開けた。冷蔵庫から二リットル入りのペットボトルのお茶を取り出し、ラッパ飲みすると、スマホ開く。名前を探すのに少し手間った。昔はよく話した相手でも六年振りとなると少し緊張する。


「丹野か? ひっさしぶりだな。どうしたんだ急によ?」と、昔と変わらない声量で西沢が言った。スマホから少し耳を離す。そうだった。西沢と電話で話す時のスマホは常にこの位置だったのを思い出した。


「西沢も相変わらずだな。元気そうでなりよりだ」


「元気なものか。こっちは就活で大変だぞ。何せ応募で弾かれる。掲示板サイトで説明会の申し込みが開始したって書かれているのに登録してみたら出てこないのよ。あれはちょっとしたホラーだったぞ。まぁ、いいか。そっちはどうだ? 就活なんだろ? それとも、もう社会人だったりするのか?」


 僕は捲し立てる彼の声を聞きながら、「こういうやつだったな」と思った。


「こっちも、似たり寄ったりさ。とりあえず、二次まで行けたところが二つ。一次が一つ。次があとは結果待ちだけどサイト見てる限り無理そう」


「でも、いいじゃん二個あるなら。俺も六月中に一つは内々定欲しかったけど、厳しいな。基本的にメーカーだろ? どこなんだ?」


「そう。研究職ね。二次まで行ったのが、西洋ケミカルと大正化成」


「まじかよ、いいな。大正化成って、二次通れば、ほぼ受かったようなもんだろ? 最終面接は意思の確認だけだと聞いたことあるぞ」


「こっちも同じこと聞いたから、やっぱそうか。じゃあ、次は気合い入れないと」


「まあ、頑張れ、としか言えんな」


 会話が止まる。僕は立ち上がり、エアコンのスイッチを入れ、一度咳払いをした。本題に入るには少し勇気が必要だった。


「なぁ、西沢って三年八組だったよな?」


「いきなり、何の? ああ、高校ね。それがどうした?」


 西沢の声色が変わった。少し戸惑っているような声だった。


「いや、連絡を取りたい人がいてね」


「元八組にか?」


「そう。村上徹なんだけど、連絡先知らない?」


「村上徹…」と、西沢は呟いた声が聞こえた。


「ああ、村上か。たしかクラスのメッセージグループにいた気がするけど、どうしてだ?」


 ここで何と答えるか。僕はいい案が思い付かず、お茶を濁すことにした。


「ちょっと、村上に尋ねたいことがあってな」


 返事はない。数秒間が異常に長く感じられた。時間の割には返事はあっさりしたものだった。


「ふーん。別にいいけど。一応、向こうがいいって言ってから送るわ。嫌って言われたら、諦めてくれ。まぁ、ないとは思うけどな」


「訊いてくれるのか。ありがとう」


「ちょっと訊いてみるから電話切るわ。分かったらメッセージ送る」


「じゃあ」と、西沢は言って、電話を切った。


 僕は、ふーっとため息をついて通話が切れたスマホの画面を眺めた。エアコンの冷気が顔に当たる。村上の連絡先が分かったとしたら、僕は喜ぶべきなのか、今でも判断を付きかねていた。「付き合っていたのか?」「好きだったのか?」「彼女の自殺と関係があるのか?」一体、僕はどういう答えを期待しているのか。スマホの画面が明るくなる。西沢から村上のアカウントが届いた。村上のプロフィール画像はサークルかなにかの集合写真だった。続けて、メッセージが届く。


『送ったわ。村上、今日ならいいってさ。あいつ、「丹野って、誰だっけ?」だとよ。ひっでーよな笑』

 

 まあ、僕もこういう状況でなければ、覚えていないはずだから、お互い様だった。


『ありがとう。すぐに連絡してみる』


『次は飲み会でもしようぜ』


 僕は親指を立てたスタンプを送った。


 スマホの時刻を見る。十一時過ぎ。こういうことは、決心が揺らがないうち済ませたほうがいい。西沢が送ってくれたアカウントをタップし、無料通話のボタンを押す。向こうも準備していたのか、すぐに反応があった。


「もしもし」


 警戒心が滲んだ声。無理もない。僕が同じ立場でも、不審に思うに違いないのだ。


「村上か?」


「そうだけど。俺に何か用か? 西沢から聞いた時は、正直意味分からんかった」


「すまん。すぐに本題に入る」と、僕は言葉を切った。

「村上は中里さんのこと覚えてる?」


 彼に言葉はなかった。スマホの向こうで彼がどんな表情をしているのか僕には分からない。何せ、どんな顔だったかも思い出せないのだ。


「……覚えているも何も、同じクラスだったからな。忘れられるわけないだろう」と、絞り出すような声で村上は言った。


 想定内の回答。僕は嘘をついていた。本題は次の質問だった。


「それだけじゃない。付き合ってたのか?」


「何を」と、それだけ言って、さっきよりも長い無言が続いた。


 こちらから、後追いはしない。もし、切られるならそれでいいと思っていた。僕の部屋にはエアコンが風を送る音が響く。遠くではサイレンの音が聞こえた。数分か。数秒か。


「付き合っては、ない。ただ、付き合いたいと思ったのは事実だ」


 その言葉を聞いて何故か僕は安心したのだ。


「告白は?」


「お前、嫌なことを思い出させるんだな」


「すまん。嫌なら、答えなくてもいい」


「なんで、そこまで…… まぁ、いいか。告白だろ? しなかったさ」


「どうして?」


無神経だと分かっているが、聞かずにはいられなかった。当然、村上の声も苛立ちめいたものに変わっていく。


「『どうして』ってお前、そんな昔のこと覚えていられるか」


「すまん」


 村上はふん、と鼻を鳴らした。


「俺からも一つ聞かせてくれ。なんで、今さらそんなことを気にするんだ?」


「僕にとっては、昔のことじゃないから、かな」


 スマホの向こうで、ため息をついたような音が聞こえた。


「それは、大学で同じようなことになってるってことか?」


「そんなとこかな」


「そうか。お前も大変だな」


「自分でもそう思うよ」


 チャイムの音が聞こえた。彼の名前を呼ぶ声が聞こえる。


 ――徹くん、いる?


 ――ごめん、今行くよ。


 遠くから聞こえるその声は、今日聞いた彼の声の中で一番溌剌としたものだった。


「もういいか?」


「ああ、ありがとう」


「じゃあ」と言って、すぐに電話が切れる。


 いつもと変わらない部屋。聞こえるのはエアコンの音だけ。どうしてなのか、僕は少し泣きそうな気分になった。

 


 病院に行って処方箋をもらう。

 これで、六十錠。



 その日の夜、高木から連絡があった。


『今週末、どこか食べに行かないか?』


 今週末。その日は二次面接の日だった。再び、横浜に行かなくてはならない。


『すまん。その日は面接で横浜だからいけない。次の日だったらいいけど』


『そうか。じゃあ、また連絡する』


 僕は返信をしなかった。いつものことだ。どちらともなく会話は終わる。この気安さが高木との信頼の証でもあった。

 クリーニングから帰ってきたばかりのスーツを見る。早く就活から解放されたい。そうしたら、さっさと修論を終わらせて、高木と卒業旅行でも行こうか。


 僕は布団に潜りながら、久しぶりに自分の未来を思い描いていた。

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