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当たり前だけど、人には人の人生がある

 最後に太陽を拝んだのはいつだったか、もう忘れてしまった。月曜日の朝、今後一週間の天気を告げるニュースキャスターの声もどこかしら、覇気がない。


 リビングのカーテンを開け、外の様子を眺めていると、後ろから母さんの声がした。


「そんなに、大きなため息をつなくても良いじゃない」


 無意識にため息ついていたようだ。母さんは知らないかもしれないが、自転車通学者にとって雨は最も忌むべきものだ。


「だってさ、先週からずっとカッパ着てるんだ」


「私だって、毎日部屋干しなのよ」


 母さんは大きなため息をつく。母さん自身は、今ため息をついたことに気づいているのだろうか。


「今週もずっと雨らしいよ」


「いやね、朝から落ち込むようなこと言わないでちょうだい」


 僕は僕の理由で、母さんは母さんの理由でそれぞれため息をついた。


 結局、家を出るまで雨が弱まることはなかった。僕は仕方なく、生乾きのカッパを着る。ビニール袋にカバンを入れ、自転車の荷台に括り付け、学校に向かった。


 それにしても、未来の自分はどこまで本気なんだろうか。同じ僕だとしても、彼の行動は少し理解できなかった。僕がまだ子供だからなのか、彼の絶望を味わっていないからなのか。この世界では彼女は生きている。

 いずれにせよ、僕は彼が望む企業の内定を貰えることを祈るだけだ。幸い、面接はうまく行ったようだったが、六年後に同じことをしなければならないと思うとぞっとする。

 そもそも、なんで僕が未来の自分の心配をしないといけないんだ。僕の当面の関心ごとは中里さんのことなのに。


 通学中、ずっとそんなことを考えては、意味もなく気分を悪くしていた。梅雨のせいに違いない。

 駐輪場でカッパを脱ぐと、帰るまでに多少は乾くことを祈りながら、自転車に引っ掛ける。ビニール袋からカバンを取り出し、駆け足で校舎に入った。


「おはよう」


 下駄箱には中里さんがいた。僕と同じカッパ組の彼女は少し湿った制服着て、首に黄色いタオルをかけ、髪を拭いていた。僕は思わず、その仕草に胸が鳴った。


「ああ」声が少し高かったかもしれない。


「ほんと、毎日いやになっちゃう。早く明けて欲しいね」


 タオルで長い髪を挟み、手でパンパン叩く。その様子に見惚れ、僕はつい、変なことを口走った。


「そう? もうちょっとだけならいいかな」


 僕の発言が予想外だったのか、中里さんは髪を乾かす手を止めた。


「えっ? そうなの? よく我慢できるね」


「まぁ、ね」


 僕は彼女に動揺を悟られぬよう、下駄箱の前で一度深呼吸をした。しかし、一旦上がった心拍数はなかなか元には戻らない。これも、梅雨のせいなのだった。



 雨が続く学校は湿った空気と外の薄暗い雰囲気に包まれて、学校全体の空気が重く感じられる。二週間近くこの状態だ。その間、学生たちの放出できないエネルギーが学校の中に溜まっていくのが伝わってくる。あと一か月もこうだと、うちの高校は爆発するに違いない。


「帰るの?」


 隣の席になった中里さんに声をかけられた。色々な工作をして手に入れた席だ。僕が席順のくじを、高木が二重底になったくじ引き用のケースを用意する。隣同士の席を二枚二重底の下に入れ、残りを上に入れる。あとはなんやかんや理由をつけて窓側の席を最後になるようにし、僕が最後の一枚を引けば完成というわけだ。最初はダミーのくじを使うことも考えたのだが、不確定要素が大きすぎてやめた。


「膨らみすぎた風船からは早く逃れた方がいいからね」


「罰ゲームの話?」


「熱力学第一法則の話」


 彼女は首を傾げた。そして、何か言いたそうに口を開けたり閉じたりしたり、周りを見渡したりしていたが、結局挨拶をしただけだった。


「んー、まいっか。それじゃ、また明日ね」


「中里さんは?」


「私は、もう少し残って勉強する。もしかしたら、雨も止むかもしれないから」


 僕は窓を見た。それは、希望的観測というものだ。僕は迷ったが、ここで自分も残ると言い出したら、あからさま過ぎる。片時も一緒にいる訳にはいかないのだ。


「そう、じゃあ、明日」


 彼女は小さく手を振った。僕はそれだけで気持ちが軽くなるのだった。



 下駄箱から駆け足で駐輪場に着くと、着信があった。


「珍しいな、高木から電話してくるなんて」


「最近、中里さんとべったりだからな」


 思わず舌打ちした。


「うるさいな。というか、お前どこにいるんだよ」


 一応、校舎内ではスマホの使用は禁止のはずだった。放課後を含めて授業外ではそんな校則はない様なもので、正直先生たちすら知ってるか怪しい。


「喫茶バーグだよ」


 そう言われると、スマホ越しにクラシックが流れているのに気がついた。


「一人でか?」


「さびしくな」


 今度は、はっきり聞こえるように舌打ちをしてやった。


「行けばいいのか?」


「そういうことだ」


「分かったよ」


 通話を切る。あそこまでわざわざカッパを着ることはない。僕はやはり乾かなかったカッパを自転車のカゴに丸めて入れ、濡れるのを覚悟でペダルを踏み込んだ。

 

 喫茶店のカウンターで注文したコーヒーを待ちながら、僕は雨の日の方が情緒が出るものもある、ということを改めて認識していた。

 コーヒーの香りとクラシックと雨の音。このトリオは絶妙なバランスで混ぜ合わさっている。これ以上雨が強くてもこうはならない。これは梅雨の功績だった。


「思ったんだけどさ」と、僕が言った。


「雨の日は学校内にクラシックかけた方がいいんじゃないか?」


 高木は大きく頷く。彼は既に二杯目のコーヒーを注文していた。


「それはいいアイデアだな。今度、放送部に掛け合ってみるか」


 今流れているクラシックはどこかで聞いたことのある曲だった。


「この曲なんて言うんだ?」


「ドビュッシーの『夢』だ」


「へーぇ、よく知ってるな」


「俺の好きな曲だからな」


「ドビュッシーか。名前を聞いたことぐらいだ」


「お前、音楽選択じゃなかったのか? 『月の光』とか有名だろう」


「ギターでクラシックはやらない。聞けば分かるか?」


「一度は聞いたことがあるはずだ。余程のことが無ければ、な」


「帰ったら聞いてみるよ」


「ホットコーヒーです」


 店員さんがサービスの豆菓子とコーヒーを持ってきた。


 僕は出されたコーヒーに口をつける。爽やかな酸味が口に広がった。


「それで、ここに呼んだ理由は?」


「当然、二人のことだ」


 思い当たるのは一つしかない。


「僕と中里さんのことか」


「順調そうじゃないか」


「そう見えるか」


「少なくとも周りからは、な」


 僕は『俺から』じゃなくて、『周りから』という発言に引っ掛かりを覚えた。


「『周りから』ってどういうことだ?」


「そのまんまの意味だ。周りもやきもきしてる、ってことだよ」


「そんなにか?」


「そんなに、だよ。たとえばな、俺に寄せられた、ある学生Aくんの証言を聞こうか」


 すると、高木はなぜか声色を変えて話し始めた。


「六月二日、午後六時頃、駐輪場にて、帰ろうとしたところ、自転車に乗る二人組を見た。二人で仲良く帰ってるところだった。あれは明らかに付き合ってる距離だ。俺の目に間違いはない、と」


 明らかに主観表現たっぷりな目撃証言を聞かされた。


「その二人が付き合ってると判断した根拠は?」


「二人とも顔を赤くしているところを見たそうだ」


「別に、自転車を漕いでいたからだろう」


「今みたいに、だぞ」


「……」僕は、黙秘権を行使した。


「早く付き合えよ」


「こっちの一存で決められることじゃない」


「じゃあ、どうするんだ? このまま、ってわけにもいかんだろう。俺はいけると思うんだけどな」


「本当に? なにか根拠でもあるの?」


「俺がなぜ今日ここに呼んだと思う?」


「さっき言っただろう。僕と中里さんのことだと」


「そっちじゃない。このタイミングで、だよ。放課後に電話しただろう」


 彼の言いたいことが分かった。同じクラスなんだから、どこかしらで話せたはずなんだ。それをしなかった、ということは。


「つまり、僕を呼び出す理由が放課後にできた」


「そういうことだ」


「もし帰ってたらどうしたんだ?」


「電話で伝えたさ」


 僕は少し驚いていた。高木が電話してまで伝えたいことがこの世にあるのか。


「大ニュースだな」


 彼が頷く。そして、言った。


「彼女が告白された」


 なぜだか分からないが、僕は思わず立ち上がった。店内に椅子が床に擦れる音が響く。平気な顔でコーヒーを啜っている高木に、僕は苛立ちを覚えた。


「いつだよ?」


「先週末らしい」


 先週の記憶を思い出す。僕は首を振った。だめだ。目立った様子は全然なかった。


「相手は誰だ?」


「八組の村上らしい。知ってるか?」


「なんとなく。何部だったとかすらしらないけど」


「去年と一昨年、同じクラスだったらしい」


「よく話してたのか?」


「さぁな。そこまで詳しくは聞いてない」


 とてつもない勘違いをしていた。彼女には僕の見えていない人生がある。そんなのは、当たり前のことだった。それなのに僕は彼女を意識したその日からしか見ていなかったのだ。僕は椅子に座り直し、少しだけ冷静になった頭で考えた。


「知らなかった。彼女の近くにいると思ってたのに」


「隠すのが巧いんだろう。まぁ、お前ならすぐバレそうだがな」


「ほっとけ」と言いながら、僕はふと思った。


「未来の俺はこの事実を知らないだろうな」


「知らないか、もしくは未来ではそんな事件は起きていないのかもしれんな」


「あり得るな。クラス分けが原因かな」


「それだけじゃないだろう」


 横から咎める様な視線を感じる。僕はため息をつき、コーヒー液面が揺れた。


「分かってるさ。たぶん僕が原因だろう」


「分かってるならいいさ」


「肝心なことを聞いてないぞ。それで、彼女はどう答えたんだ?」


 彼の顔がこちらを向く。


「知りたいか?」


「好きにしてくれ」


「答えはノーだ」


「それは、どっちの意味だ?」


「彼女、断ったんだよ。『ごめんなさい。今を大事にしたいの』ってさ」


 『今を大事にしたい』それは一体どういう意味なのだろうか。僕は安堵と不安の両方が混ぜ合わさった、神妙な顔をしていた。


 ――つもりだった。


「うれしそうだな」


「別に」


「何も、悪いことじゃないさ。俺としては、今の状況は良い傾向だと思っている」


「どういうことだ?」


「いや、家族関係が原因だっていうのが、一番可能性が高いわけだ。だとしたら、少なくとも学校には彼女を想っているやつがいて、それを表明しているのは彼女にとっても悪いことじゃない気がする」


「客観的だな」


 高木はそんな僕の感情を見透かすように言った。


「だったら、お前も告白したら良いさ。俺はいけると思うぞ」


「先週からの今日はさすがに、な」


「タイミングは好きにしたらいい。だが、そんな悠長なことを言ってられないのは、丹野自身が一番分かってるはずだろ」


 僕らは同時に残ったコーヒーを飲み干した。うまく混ざってなかったのか、底に残った甘さはなかなか消えてくれそうになかった。



辺りは暗くなり、奇跡的に雨は上がっていたが、星空が見えるわけでもなく、湿った空気だけが外を覆っていた。


「じゃあな」とだけ言って、高木は走っていった。電車の時間があるのだろう。


 その影を見送ったあと、僕は少し自転車を漕いだが、やはり気になって、車道から離れた住宅街に入り、自転車を止めて電話をかけた。


「なぁに?」中里さんは意外にも早く出た。


「遅くにごめん。特に用事はないんだけど……」


 言葉につまる。そもそも、僕は一体何を聞くつもりだったのか。僕の脇を自動車が走る。雨で濡れた道路は飛沫を上げ、街灯に照らされて靄をつくった。


「丹野くん、外にいるの?」


「家に帰る途中なんだ」


「こんな遅くに? 早く帰るとか言ってなかった? 罰ゲームとかなんとか」


彼女は何か記憶違いをしていた。


「帰りに高木に呼び出されたんだ」


「仲良いんだね」


「そうでも、なくはない」


「それ、どっちなの?」と、彼女は笑った。


 ここで「実はそのとき噂を聞いてね」と繋げることもできたが、僕の口から出てきたのは、全く別の台詞だった。


「……今週の日曜日、また図書館で勉強しない?」


 無言になった。どこかの民家からか、猫の鳴く声が聞こえた。


「中里さん?」


「それを言うために、外から電話したの?」


「まあ、そうなるね」


「帰り道に? 雨が降ってるのに?」


「雨は止んでるよ」


「ああ、そうなの? って、そうじゃなくて本当に?」


「うん。中里さんを、誘うために、電話を、したんだ」


「そう、それなら良いけど」


「返事がほしいな」


「楽しみにしてる。……ありがと」


 通話が切れる。最後の声はぎりぎり聞こえる限界の大きさだった。もしかしたら、聞かせるつもりは無かったのかもしれない。


 すると、メッセージが届いた。


 『日曜、よろしくね』


 雨がまた降り始めないうちに帰ろう。

 雨が上がった都会の夜は、街灯が反射して少し明るく感じられた。

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