第2章 母の本を読む
母の葬儀から三週間後。
雨上がりの朝だった。
街路樹の葉先には水滴が残り、歩道には薄く湿った空気が漂っている。直人は駅前からバスに乗り、郊外へ向かった。
目的地の車内放送が流れる。
「次は、<図書館>前です」
乗客の数人が静かに立ち上がる。
黒い服の老夫婦。
喪章を付けた若い女性。
制服姿の男子高校生。
誰も会話をしていない。
直人は窓の外へ目を向けた。
灰色の建物が見えてきた。
「図書館」
人々はそう呼ぶ。
しかし建物に掲げられている正式名称は長く、無機質だった。
巨大なコンクリート造りの建物には装飾らしいものがほとんどない。
入口には花壇も宗教的モチーフも墓標もなく、国旗だけが雨に濡れて垂れ下がっていた。
まるで市役所だった。
直人は、そのことが妙に恐ろしかった。
ここには母がいる。
そう思って来たはずなのに、目の前にあるのは行政施設だった。
自動ドアが開く。
冷たい空気が流れてきた。
受付ロビーは静まり返っていた。
壁一面に並ぶ案内表示。
「閲覧受付」
「登録窓口」
「複写申請(研究目的のみ)」
「遺族相談室」
図書館というよりやはり市役所である。
しかしロビーには、本棚があった。
ガラス越しに無数の背表紙が並んでいる。
一冊一冊が、誰かの人生だった。
直人は視線を逸らした。
受付番号札を取り、呼び出されるまで椅子へ腰掛ける。
隣では年配の女性が静かに泣いていた。
向かいでは若い男性が一冊の本を閉じ、深く頭を下げている。
誰も大声では泣かない。
図書館だからだ。
泣く場所ではなく、読む場所だった。
電子音が鳴った。
「二十八番のお客様」
直人は立ち上がる。
受付の女性は四十代ほどだった。
名札には、<佐伯静>と書かれている。
「山田直人様ですね」
「はい」
「本日は山田美花子様の閲覧申請でよろしいでしょうか」
「……はい」
佐伯は端末を操作した。
「ご本人確認が終了しました」
彼女の声には抑揚がなかった。
冷たいというより、余計な感情を混ぜないよう訓練された話し方だった。
「閲覧前に、いくつかご説明いたします。」
透明なアクリル板越しに一枚の用紙が差し出される。
『閲覧規則』
本への書き込み禁止。
ページ撮影禁止。
飲食禁止。
館外持ち出し禁止。
直人は淡々と目を通した。
最後の一項だけが目に留まる。
『最終査読ページは封印されています。開封後は再封印できません』
直人は顔を上げた。
「最終査読?」
佐伯は頷いた。
「はい」
「何なんですか、それは」
「本文とは別に設けられている最終評価ページです」
評価。
その言葉が耳に引っかかった。
「誰が評価するんですか。」
「私どもにも分かりません。」
佐伯は即答した。
「書籍生成時から存在しております」
「つまり……誰かが書いたわけじゃない?」
「確認されておりません。」
機械的な返答だった。
しかし嘘をついているようには見えなかった。
「最終ページには、故人が自身をどのように理解していたか、そして実際にどのような価値秩序の中で生きていたかについて記述されております」
「……読まなければいけませんか」
「いいえ」
佐伯は静かに首を振った。
「本文のみ閲覧されるご遺族も多くいらっしゃいます」
「読んだら……何か変わるんですか」
「それは人によります」
少しだけ間を置き、佐伯は続けた。
「ただ、一度開封すると元には戻せません」
直人は用紙へ視線を落とした。
母を知るために来た。
それなのに、最初から「開けるかどうか」を選ばされる。
まだ表紙さえ見ていない。
直人は首を横へ振った。
「今日は……開封しません」
「承知いたしました。」
佐伯は何も勧めなかった。
「本文のみ閲覧として登録いたします」
その態度が、かえって奇妙だった。
普通なら、
「読まれた方がよろしいですよ」
あるいは、
「心の準備ができてからの方が」
そう助言してもよさそうなものだった。
しかし彼女は選択を本人へ返すだけだった。
「こちらへどうぞ」
閲覧室は思っていたより広かった。
大きな窓から柔らかな自然光が入り、机は図書館らしく一人ずつ仕切られている。
机の上には白い手袋。
柔らかな布。
ページを押さえるための重り。
本を読むための道具だけが整然と並んでいた。
数分後。
佐伯が一冊の本を抱えて戻ってきた。
茶色い布張りの表紙。
葬儀の日、銀色のケースへ収められていった本だった。
「山田美花子様です」
彼女は両手で静かに机へ置いた。
「閲覧終了後、お呼びください」
それだけ言うと部屋を出ていった。
静寂だけが残る。
直人はしばらく本へ触れられなかった。
これが母なのか。
それとも母について書かれた本なのか。
まだ分からない。
やがて両手で表紙を開く。
見覚えのある扉ページ。
著者 キリスト教
共著者 山田美花子
共著者 家族
共著者 日本国
やはり違和感は消えない。
母は著者ではなかった。
人生を共に書いた一人としてしか扱われていない。
直人は息を吐き、次のページをめくった。
目次が現れる。
第一章 従うことを覚える
第二章 良い娘
第三章 信仰と結婚
第四章 母親という職務
第五章 沈黙による統治
第六章 正しい家庭
終章 救済の条件
指先が止まった。
「沈黙による統治」
その言葉だけが異質だった。
母は政治家ではない。
会社を経営していたわけでもない。
家庭を支え、教会へ通い、人助けをしていた普通の主婦だった。
なのに、統治。
まるで国家の本でも読むような章題だった。
直人は苦笑した。
「大げさだよ……」
誰へともなく呟き、第一章を開く。
そこには、幼い美花子の姿が綴られていた。
父に褒められるため、黙って家事を手伝った少女。
母の後ろ姿を見ながら、自分の意見を飲み込むことを覚えた少女。
教会と出会い、初めて「苦しみには意味がある」という言葉に救われた少女。
どれも直人の知らない時代だった。
しかし読み進めるにつれ、美花子という人物が少しずつ輪郭を持ち始める。そして第四章へ差しかかる頃には、直人自身が登場し始めるのだった。
第四章「母親という職務」。
ページをめくるたび、直人の知る母が現れた。
小学校の運動会。
朝五時に起きて弁当を作り、誰よりも大きな声で直人を応援していたこと。
高熱を出した夜、濡れたタオルを何度も取り替え、朝まで眠らなかったこと。
高校受験の日。玄関先で直人の背中に手を添え、「大丈夫。お母さんは祈っています」と微笑んだこと。
どの出来事も、直人の記憶とほとんど違わなかった。
文章には母がその時に何を考え、何を祈り、どれほど不安だったかまで細かく記されている。
直人は思わず笑みを浮かべた。
「母さんらしいな……」
自然と声が漏れる。
本は母を中傷しているわけではなかった。
むしろ、生きていた頃の母よりを、生き生きと伝えていた。
優しく、世話好きで、人のために祈ることを当然のように続けた人。
自分が知っていた母は、間違っていなかった。
そう思えた。
安心した直人は、そのまま第五章を開いた。
章題は、
「沈黙による統治」
だった。
最初の二行で、直人の手が止まる。
山田美花子は命令しなかった。
その代わり、悲しむことを選んだ。
直人は眉をひそめる。
読み進める。
中学生の頃の出来事だった。
日曜日。
友人と映画へ行く約束をした直人は、教会へ行かないと言った。
母は怒らなかった。
「そう。分かったよ」
それだけ言って朝食を片付けた。
その日一日、母は必要最低限のことしか話さなかった。
夕食の前には、一人で食卓に座り、長く祈っていた。
直人はその夜、自分から謝った。
翌週から、また教会へ行くようになった。
そこまで読んで、直人は小さく息を吐いた。
そんなこともあった。
確かにあった。
だが、それは母が悲しかっただけではないか。
本は続く。
彼女は命令しなかった。
命令すれば反発が生まれることを知っていた。
悲しみは、相手自身に選択させる。
彼女は、それを愛情と呼んだ。
「違う……」
直人は思わず呟いた。
「そんなつもりじゃない」
母は人を操ろうとしたことなど一度もない。
優しい人だった。
命令なんてしなかった。
それだけは間違いない。
しかし、本は母の意図ではなく、
結果を書いていた。
次のページには、直人自身の行動が並ぶ。
教会へ行くようになった。
大学進学の際、家を出ることを諦めた。
宗教について疑問を持っても、口にしなくなった。
一つ一つ思い返せば、どれも自分で決めたことだった。
そう思っていた。
ページをめくる。
今度は母自身について書かれていた。
山田美花子は政治を嫌った。
直人は小さく頷いた。
その通りだった。
母は選挙の話も政党の話も嫌っていた。
テレビで討論番組が始まると、決まってチャンネルを変えた。
「人を争わせる話は見たくないから」
そう言って笑っていた。
だが、次の一文で直人の視線が止まる。
彼女は政治を拒否したのではない。
自らの秩序を政治と呼ぶことを拒否した。
直人は何度も読み返した。
意味が分からない。
母は政治なんて考えていなかった。
家族を大切にし、神を信じ、困っている人を助けていただけだ。
本はさらに続ける。
家族の役割。
男と女。
良い親。
正しい家庭。
信仰ある生活。
これらは彼女にとって自然であった。
自然であるがゆえに、
それ以外の秩序が存在し得ることを考えなかった。
直人は本を閉じそうになった。
読んでいて苦しかった。
本は母を悪人とは書いていない。
だからこそ苦しい。
善意だった。
愛情だった。
献身だった。
その全部を認めながら、それでもなお、母が家庭という空間を一つの秩序として維持していたと書いている。
ページは終盤へ差しかかる。
そこには直人自身のことが書かれていた。
山田直人は支配されていた。
直人は息を飲む。
次の一文を読む。
同時に、支配を言語化しなかったことによって、その秩序の共著者となった。
直人は思わず本を閉じた。
閲覧室の静寂が耳に痛い。
時計の秒針だけが規則正しく時を刻んでいる。
しばらく机を見つめたまま動けなかった。
母が間違っていたとは思えない。
しかし、本に書かれている出来事も、どれ一つ事実と違わなかった。
違うのは、その意味だった。
直人はゆっくり立ち上がり、本を抱えて受付へ向かった。
佐伯は何も言わず、本を受け取った。
静かにページ数を確認し、表紙を閉じる。
「最後まで読まれませんでしたね」
直人は少しだけ笑った。
疲れ切った笑顔だった。
「もう十分です」
佐伯はその表情を見つめたあと、小さく頷いた。
「皆さん、最初はそうおっしゃいます」
それ以上、何も言わなかった。
本は棚へ戻される。
美花子という一人の人間が、
何事もなかったように背表紙だけを見せて並んでいく。
直人は図書館を出た。
夕方の風は少し冷たかった。
空は晴れている。
道路には子どもを連れた夫婦が歩き、駅前では高校生たちが笑い合っている。
いつもと同じ街だった。
それなのには、直人には、誰一人として以前と同じようには見えなかった。
あの父親は、どんな本になるのだろう。
あの教師は。
あの警備員は。
政治なんて興味がないと言っていた会社の同僚は。
そして――自分は。
その夜、直人は一睡もできなかった。
机の上には、図書館でもらった閲覧証が置かれている。
その裏面には、小さく一文だけ印字されていた。
「最終査読ページは、ご本人の申請により、いつでも開封できます」
直人はその文字を、夜明けまで見つめ続けた。




