第1章 母が本になった
「今度の選挙、うちの業界にも関係あるらしいですよ」
昼休みの休憩室で、隣の席の藤岡が言った。
窓際のブラインドは半分だけ下ろされ、細い日差しが長机の上を白く切り分けていた。
食べ終えた弁当の容器、コンビニのコーヒー、充電中のスマートフォン。
その間に置かれた藤岡の端末には、候補者の名前と政策比較の記事が表示されている。
「物流費用の補助を見直すって話で。会社にも影響が出るかもしれないし、少しくらい調べた方が――」
向かいの女性社員が露骨に顔をしかめた。
「昼休みに政治の話?」
「いや、政治っていうか、仕事にも関係する話で」
「そういう人、最近多いよね。何でも政治に結びつける人」
部屋の空気がわずかに固くなった。
山田直人は紙コップを机に置き、笑顔を作った。
「まあまあ。別に反対しているわけじゃないですけど、そういう話は職場ではやめましょう。人によって考え方も違いますし」
藤岡は一瞬だけ直人を見た。それから端末の画面を伏せた。
「そうですね。すみません」
会話はそこで終わった。
誰かが新商品の売上の話を始め、別の誰かが昨夜のテレビ番組について笑った。
数分後には、選挙の話など最初から出なかったようになっていた。
直人はほっとした。
政治の話をすれば、必ず誰かが不愉快になる。正解があるわけでもないのに、互いの立場を詮索し、余計な対立を生む。職場とは仕事をする場所であり、思想を持ち込む場所ではない。それが普通だと直人は思っている。
午後、注文データを確認していると、画面の端にニュース速報が表示された。
〈死亡時の怪現象、今年の発生件数が一万件を超える〉
直人は見出しだけを読み、通知を閉じた。
数年前から、人間が死亡すると遺体が消え、一冊の本が残ることがあった。当初は作り話だと思われていた。映像が公開され、政府が専門部署を設置し、火葬場や病院に対応手順が掲示されるようになっても、直人には現実味がなかった。
事故に遭う可能性と同じだった。
世の中にはある。
だが、自分の身近で起こるとは思わない。
終業時刻を三十分ほど過ぎた頃、机の上のスマートフォンが震えた。
母からだった。
画面に表示された名前を見て、直人は少し迷ってから通話を切った。月末で処理が残っていたし、母の電話は急用でないことが多い。
体を冷やさないように。
野菜を食べるように。
日曜日、時間があるなら教会の人が作った菓子を取りに来ないか。
三十二歳になっても、母は直人を子供のように扱った。
今度はメッセージが届いた。
〈忙しいところごめんなさい。帰ったら連絡ください〉
直人は「了解」とだけ返信し、端末を伏せた。
一時間後、会社を出たところで、今度は知らない番号から電話がかかってきた。
母の隣家に住む女性だった。
美花子が玄関先で倒れているのを見つけ、救急車を呼んだという。
直人はタクシーを拾った。
薄暮の街を、車は赤い尾灯の列に混じって進んだ。信号のたびに停止し、車内には運転手が流しているニュース番組の声が響いた。
国会で何かが可決されたらしい。野党議員が批判し、与党議員が反論している。
運転手は舌打ちした。
「また国会の話ですか。テレビももっと明るい話をやればいいのにね」
直人は窓の外を見たまま、「そうですね」と答えた。
実家の前には救急車と警察車両が停まっていた。
玄関は開け放たれ、白い照明が道路まで伸びている。隣家の女性が門の脇に立ち、両手を胸の前で握っていた。
「直人さん。ごめんなさい、私が見つけたときにはもう……」
直人は返事をせず、靴を脱いだ。
廊下には、母がいつも使っていた花の香りの芳香剤が漂っていた。壁には教会のカレンダーが掛かり、今日の日付に赤い丸がついている。その下に、黒い鞄が倒れていた。なかからポケット版聖書と、ラップで包まれた焼き菓子が見えた。
寝室の前に救急隊員が二人いた。
「ご家族の方ですか」
「息子です。母は?」
隊員は答えるまでに、ほんの少し間を置いた。
「到着時には、心肺停止の状態でした。蘇生処置を行いましたが、回復は確認できませんでした」
言葉は理解できた。
だが、意味が身体に入ってこなかった。
「会えますか」
「現在、現象が始まっています。近づかないでください」
直人は隊員の肩越しに寝室を見た。
美花子は畳の上に横たわっていた。
目は閉じられ、表情は穏やかだった。教会へ行く日にいつも着ていた紺色のカーディガン。白髪の混じった髪。見慣れた頬の皺。いつもの母だった。
ただし、右手の指先が黒くなっていた。
壊死とは違った。
皮膚の表面に、細かい文字のような染みが浮かんでいる。染みは指先から手の甲へ広がり、一文字ずつ剝がれるように宙へ浮いた。
直人は目を凝らした。
文字だ。
読めるほど長くは残らない。黒い線が一瞬だけ形を作り、すぐに崩れ、畳へ吸い込まれていく。
「何が起きているんですか?」
直人は隊員に言った。
「なんとかしてください」
隊員は直人を手で制した。
「触れないでください。書籍化の進行中です」
「書籍化ってあの……」
「現象の途中で接触すると危険ですので」
花子の腕が沈んだ。
肉が溶けたのではない。輪郭を保ったまま薄くなり、その内側から無数の文字が剝がれ落ちていく。カーディガンの袖も同時に崩れ、布の繊維が黒い行へ変わった。
直人には、それらがすべて母の中から出てきているように見えた。
呼びかけようとして、声が出なかった。
胸。
首。
頬。
母の身体は少しずつ文章へ分解されていった。
最後に残ったのは顔だった。
閉じられた瞼の縁に黒い文字が浮かび、頬を走り、唇の上で一瞬だけ止まった。
直人は、母が何かを言おうとしたように思った。
しかし唇は開かなかった。
黒い文字が畳へ落ちた。
母の姿は消えた。
その場所に、一冊の本があった。
焦げ茶色の布張りの表紙だった。縁には細い金色の線が入り、教会で使う古い聖書に似ていた。
表紙の中央に、題名が刻まれている。
『正しくあるために』
直人は隊員の制止を振り切り、畳に膝をついた。
本はまだ温かかった。
「触らないでください」
背後から別の声がした。
警察官と似た灰色の制服を着た男が、銀色の保護ケースを持って立っていた。胸元には、見たことのない記章が付いている。
直人は本から手を離さなかった。
「これは母です」
「はい。死亡者・山田美花子さんから生成された記録物と判断されます」「記録物じゃない。母の遺体でしょう」
男は表情を変えなかった。
「法令上は記録物です。登録と状態確認のため、収蔵施設へ移送します」
「持っていくんですか?」
「登録後、ご遺族には閲覧申請の権利があります」
「閲覧?」
直人はその言葉を繰り返した。
墓でも、納骨でも、引き取りでもなかった。
閲覧。
本は母だったはずなのに、すでに何か読まれるものとして扱われていた。
男は手袋をはめ、本を受け取ろうとした。
直人は反射的に表紙を開いた。
最初のページには、簡素な活字が並んでいた。
著者 キリスト教
共著者 山田美花子
共著者 家族
共著者 日本国
直人の指が止まった。
「著者……?」
母は本を書いたことなどなかった。
日記さえ長続きしない人だった。
それなのに、その本には母以外のものが著者として記されている。
しかも母は、著者ではなく共著者だった。
「どういう意味ですか」
男は答えなかった。
本を傷つけないよう、直人の手から静かに取り上げると、銀色のケースへ収めた。蓋が閉じ、二つの留め金が乾いた音を立てた。
「登録が済めば、ご遺族は閲覧できます。通知をお待ちください」
ケースは運び出された。
廊下の先で、玄関扉が閉まった。
母のいた寝室には、何も残っていなかった。
畳の上には身体の跡すらなく、黒い文字も消えていた。ただ枕元の小さな机に、読みかけの聖書と老眼鏡が置かれている。
直人はその場に座り込んだ。
母が死んだという実感はなかった。
遺体もない。
骨も残らない。
触れることのできる唯一のものは、もう見知らぬ男のケースに入れられて運ばれてしまった。
数日後、葬儀が行われた。
棺も祭壇もなく、置かれたのは花子の遺影と十字架だけだった。
中央には役所から交付された一枚の通知書が立てられていた。
直人はその前に立ち、その無機質な文字列を見つめた。
参列者は、美花子さんは信仰深い人だった、優しい人だった、きっと神のもとへ召されたのだと言った。
直人もその通りだと思った。
それ以外の母を、彼は知らなかった。
葬儀が終わった夜、直人のスマートフォンに通知が届いた。
〈山田美花子様の登録処理が完了しました〉
その下に、閲覧申請へのリンクが表示されていた。
直人は画面を閉じた。
だが暗くなった画面には、題名を見た瞬間の自分の顔が映っていた。
『正しくあるために』
母は何を正しいと思っていたのか。
そして、なぜ母ではなく、キリスト教が著者なのか。
答えを知るには、母を読むしかなかった。




