第3章 最後のページ
翌朝、直人はほとんど眠らないまま出勤した。
窓の外には薄い雲が広がり、蛍光灯の白い光が事務所の机を平板に照らしていた。受注一覧の数字を目で追っても、頭に入ってこない。
画面の隅には、昨夜閉じたはずの文章が残っているような気がした。
支配を言語化しなかったことによって、その秩序の共著者となった。
違う、と直人は思った。
母の機嫌を損ねないようにしただけだ。
家庭で争わないようにしただけで、何かを支配したつもりも、支配に協力したつもりもない。
あの本は、何もかも政治に結びつけている。
親が子を心配することも、家族が譲り合うことも、人が不愉快な話を避けることも。
そんなものまで政治と呼ぶなら、政治でないものなど一つもなくなる。
昼休み、藤岡が同僚数人へ小声で話しかけていた。
「昨日の法案、うちの契約社員にも関係するみたいです。雇用期間の上限が――」
女性社員が箸を止めた。
「またその話?」
「あ、いや。直接関係すると思って」
「昼休みくらい普通の話をしようよ」
藤岡は口を閉じた。
視線が直人へ向けられる。
以前なら笑って場を収めていた。
政治の話は職場に持ち込まない方がよい。誰かが不愉快になり、空気が悪くなるから。それが公平で常識的な対応だと思っていた。
しかし、口を開きかけた直人の脳裏に母の本の文章が浮かんだ。
悲しみは、相手自身に選択させる。
命令しなくても、人は黙らせられる。
女性社員は藤岡へ黙れと命じていない。ただ「普通の話をしよう」と言っただけだ。
けれど、その普通を決めたのは誰なのか。
「山田さん?」
女性社員に呼ばれ、直人は我に返った。
「いや……」
それ以上、言葉が続かなかった。
自分が何を言っても、また本に解釈されるような気がした。
黙れば現状維持への加担。
口を挟めば別の秩序の押しつけ。
行動しなくても、行動しないという選択になる。
直人は席を立った。
「ちょっと、外に出てきます」
廊下へ出ると、胸の奥に溜めていた息を吐いた。
あの本は卑怯だ。
死者は反論できない。
母が本当にそう考えていたか確かめることもできない。
出来事を別の言葉で並べ替え、もっともらしい意味を与えているだけではないのか。
そう思うたび、事実そのものは間違っていなかったことを思い出した。
母は黙った。
直人は謝った。
父も謝った。
そして家庭は平穏になった。
誰も命令されていない。
それでも、いつも同じ人間が譲った。
直人は午後の半休を申請した。
理由の欄には「家庭の事情」とだけ入力した。
「図書館」へ向かうバスの車内は空いていた。
窓に映る直人の顔は青白く、目の下には濃い影ができている。
車内広告には、思想や宗教に偏らない子育て、という学習教材の宣伝が出ていた。
偏らない。
その言葉さえ、今の直人にはひどく不安定に見えた。
施設に到着すると、昨日と同じ受付へ向かった。
佐伯静は端末から顔を上げたが、驚いた様子を見せなかった。
「山田直人様ですね」
「母の本を、もう一度読みたいんです」
「承知いたしました」
「それと……最終ページを開けてください」
佐伯の指が一瞬だけ止まった。
「開封後は元の状態へ戻せません」
「分かっています」
「内容を読まれた後、記録の訂正や削除を申請することはできません」
「それも分かっています」
直人は少し強い口調で答えた。
佐伯は気分を害した様子もなく、書類を差し出した。
「こちらへ署名をお願いいたします」
閲覧室は昨日と同じだった。
大きな窓。
白い机。
音を吸い込む灰色の床。
しかし、本が運ばれてくるまでの沈黙は、昨日より長く感じられた。
佐伯が『正しくあるために』を机へ置く。
本の末尾には、二枚のページがぴったりと貼り合わされていた。紙の継ぎ目には細い黒線が走り、まるで閉じた瞼のように見える。
佐伯は小さな金属製の器具を取り出した。
「開封いたします」
刃先が黒線へ差し込まれる。
乾いた音がした。
紙が破れる音ではなかった。
固く閉じていた唇が、無理に開かされるような音だった。
佐伯はページを開き、直人の前へ置いた。
「閲覧終了後、お呼びください」
直人は頷いた。
ページには余白が多かった。
本文のような長い記録ではなく、短い文章が整然と並んでいる。
山田花子は、自らを神に従う者として理解していた。
しかし、彼女が最も恐れたのは神ではない。
自らの生が正しくなかったと認めることである。
直人は唇を噛んだ。
母が神を信じていたことに嘘ではないはずだ。
朝も夜も祈り、教会へ通い、聖書を何度も読んでいた。
信仰を偽物だと決めつける権利など、この本にもない。
次の文章を読む。
彼女は家族を信仰へ導こうとした。
同時に、家族が異なる生を選ぶことで、
自らが耐えてきた人生が相対化されることを恐れた。
直人は幼い頃の母を知らない。
厳格な父親に従い、家事を手伝い、自分の希望を口にしなかった少女。
苦しみに意味があると教会で初めて教えられた少女。
母は信仰によって救われた。
もし直人が、母とは違う生き方を選び、それでも幸福になれば。
母が我慢したこと。
諦めたこと。
正しいと信じて耐えたこと。
それらが、必要ではなかった可能性が生まれる。
直人は、ようやく母の悲しげな顔を別の形で思い出した。
怒っていたのではない。
自分の人生を否定されたように感じていたのだ。
ページには続きがあった。
彼女は愛によって家庭を守った。
同時に、愛を理由として家庭の選択肢を狭めた。
愛情は偽りではない。
支配もまた、偽りではない。
直人の視界が滲んだ。
どちらかが嘘なら、楽だった。
母の愛情がすべて演技だったなら、憎めばよい。
逆に、ただ善良だったのなら、本を悪意ある中傷として退ければよい。
だが、母は本当に直人を愛していた。
熱を出せば朝まで看病し、学校で孤立すれば迎えに来た。
直人が苦しめば、自分のことのように泣いた。
その同じ愛情によって、母は直人の選べる道を狭めた。
両方が本当だった。
最終ページの末尾には、短い査読結果があった。
本書は、信仰について書かれたものではない。
正しさを独占しようとした一人の人間と、
その独占を支えた人々について書かれたものである。
直人は長いあいだ動かなかった。
最後の一文には、自分も含まれている。
母だけが家庭を作ったのではない。
父が謝り、直人が黙り、家族が話題を避けた。
誰も争いたくなかった。
その結果、母の正しさだけが争われずに残った。
直人はページを閉じた。
母を嫌いにはなれなかった。
むしろ、生きていた頃よりも母のことが分かってしまった。
母が何を信じたかだけではない。
なぜそれを信じずにはいられなかったのか。
なぜ家族の選択を、単なる選択として受け入れられなかったのか。
理解は赦しではなかった。
断罪でもなかった。
ただ、もう以前の母親像へは戻れないということだった。
佐伯を呼ぶと、彼女は静かに本を受け取った。
「読まれたのですね」
「はい」
直人は迷ってから尋ねた。
「佐伯さんは、こういうページを読んだことがありますか」
佐伯は本の表紙へ目を落とした。
「あります」
それ以上は語らなかった。
直人も尋ねなかった。
建物を出ると、夕暮れの街に人があふれていた。
子どもの手を引く母親。
部活動帰りの学生。
店頭で頭を下げる店員。
スマートフォンを見ながら歩く会社員。
駅前では、政治的な演説をする男の横を、大勢の人が無関心に通り過ぎていた。
直人は、通行人の身体が一冊ずつの本に見えるのを止められなかった。
あの母親には、どのような題名がつくのだろう。
あの学生の著者は、学校か、家族か、国家か。
政治は嫌いだと顔をしかめて通り過ぎた男は、誰と人生を共著しているのか。
直人は電車へ乗った。
窓ガラスには、車内の乗客たちが重なって映っている。
疲れた顔。
無表情な顔。
笑う顔。
誰も本を持っていなかった。
まだ、本になっていないからだ。
直人は窓に映る自分の姿を見た。
自分の書名は分からない。
誰が著者なのかも分からない。
家族か。
会社か。
「普通」という言葉か。
対立を避けることで守ってきた、名もない秩序か。
本文を読むことはできない。
最後のページを開くのは、直人ではない。
そのとき自分を読むのは、残された誰かなのだろう。
電車がトンネルへ入った。
窓の外が暗くなり、乗客たちの姿だけが鮮明に浮かぶ。
直人には、一人ひとりの身体の内側で、まだ見えないページが静かに書き足されているように見えた。
自分もまた、その一冊だった




